第二十二夜 衝突

 一条は正樹の頬を軽く叩き、完全に抵抗がないことを確認したあと、彼を運び、綾人の結界のもとまで歩いた。明乃がやや怯えの混じる表情で、おずおずと立ち上がる。


「あの、正樹さん大丈夫なんですか? その背中の奴とか、見るからに体に悪そうっていうか、それ以上のものっていうか」


「俺も初めて見るからわからん。何処か落ち着いた場所で調べないとな。和泉、傷はどうだ?」


「ええ、もう大分塞がったわ。ありがとね。助けてくれて」


「礼は良い。それより正樹の治療と、この気持ち悪いのを薬で麻痺させてくれ。今すぐ摘出は出来ないからな。動きだけでも完全に封じとかないと」


 頷いた和泉は、神経の怪物の上に人差し指をかざした。その指先から、徐々に毒性の体液が滲み出て、ひと雫落ちる。雫に触れた瞬間、怪物は電気を流されたように痙攣した。


 呪術専門の薬師の家に生まれた和泉は、こうして自身の体液に薬の性質を付加することが出来る。元々人魚というものは肉も油も涙でさえ何らかの薬効を持つ。人魚に近い体質の和泉だからこその異能だった。


 怪物に関しては、一先ずは安心だろう。あとは何処で摘出するかだ。だがそれを考えようとしたところで、綾人が疑問を口にした。


「ねえ一条さん、正樹さんは操られてたから無面を操れたんだよね」


「ああ。あいつも修祓印は持ってるが、格はそれほど高くない……」


 そこまで話した所で気づいた。術者が気を失ったにも関わらず、無面は姿を消していない。


 どうやら、今の戦闘で曼荼羅の粛清機能が発動したらしい。神祇省に許可を取れず、修祓印も機能していないのが仇となった。


 今や一条たちは、呪術社会の敵として捕らえられる存在だ。


 無面たちは小刀を構えて向かってきた。一条は骸羽織で焼き払い、誘は紅揚羽で霊力を略奪し、綾人は墨絵の獣で、和泉は指の雫の毒で迎撃を行う。


 僅か数秒の間に、敵は一気にその数を減らす。だがすべてを倒すのは無理だった。


 四人の攻撃をすり抜け、一体の無面が明乃へと迫った。無面が小刀を一閃する。彼女に刃が触れるより前に、一条は明乃の腕を引いた。刃が彼女を斬りつけることはなく、しかし、彼女の鞄を切り裂いてしまった。斬り裂かれた鞄から、正樹の資料が落ちる。


 明乃は慌てて資料を拾おうとするが、手を伸ばした彼女に無面が短刀で斬り掛かった。一条は彼女の襟首を掴み、強引に引かせ、無面を蹴り飛ばした。


「バカっ! ただの人間なんだから無茶すんな!」


「けど資料が!」


 落ちた資料を、無面が回収し、その場で燃やしてしまった。


「また作ればいい。幸い、正樹はこっちいるんだからな」


 夕長なことを言っているのはでもわかっている。そんなものを作る間、相手がのんびりと待ってくれているわけがない。なにより、まずはこの状況を切り抜けなければならない。


 一条は正樹を抱えて走り出した。


「振り切るぞ。何処か隠れられる場所に行かないと」


「でも何処にっ! 粛正機能が発動する前ならともかく後からじゃ難しいんじゃない!」


 和泉の言う通りだ。五法曼荼羅が厄介なのは、粛正機能が発動した時点で対象は完全に曼荼羅の監視下に置かれるところだ。日本全土に五法曼荼羅が敷かれている以上、逃げ場はない。だから呪術的な犯罪を行う者は、監視下に置かれる前に手を打ち、自分の逃げ道を用意しておくのだ。今回一条たちは、そんな準備をする暇などなかった。すでに監視下に置かれてしまった以上、無面たちは何処までも一条たちを追跡する。


 路地から河川敷まで走っても、まだ無面は追ってきた。人払いがされてるとはいえさすがに都心だ。ここに来るまでに何人かヒトを見かけたが、こちらに気をかける様子など微塵もない。もちろんこちらも巻き込むつもりは毛頭ないが、さすがに目の前の危険にすら全く気づかせない曼荼羅の機能はどうかと思わざるを得ない。


 このまま河川敷を走れば道路に出る。さすがにそこまで行けば、無面たちも暴れない筈だ。


 だが周囲の無面が急に動きを止めた。それと同時に、数台の自動車がブレーキをかける音を聞いた。車が停車したのは、河川敷の横に段差を設けて敷かれた道路だ。


 道路に停まったのは、外法対策局が使用する黒塗りの公用車だった。


 見慣れた車を見て、一条は警戒した。すでに自分たちは粛正対象。


 しかも、紫堂秋水は六年もの間、神祇省で働いていた。それだけの時間があれば、正樹にしたようにあの神経の怪物を埋め込むことで、自分の手駒を増やしているのではないかと。


 車のドアが開かれ、黒いスーツを着た数人の局員が出てくる。そのなかには、一条の見知った顔もいた。彼らが現れた瞬間、無面たちは一条たちをぐるりと囲み、動きを止めた。


 一向の代表とばかりに、ひとりの男が前に出る。


 緒方宗谷。一時期は一条の相棒でもあった局員だった。


「通報を聞いてまさかと思って来てみたが……本当にお前だったとはな」


 眼鏡越しに鋭い視線を向けて宗谷が言った。冷静だが、怒りの籠る声音だった。


 助けを求めていたのに、いざ現れれば罪を突きつけられるとは間抜けな話だ。とても煙草が吸いたい気分になる。この場を切り抜けたら絶対に禁煙を破ろうと一条は誓った。


「祭塚一条、丹村和泉、紫堂誘、六倉綾人、ご同行願おう。もちろん、そこの一般人もな」


「ちょっと待ってよ!」綾人が食ってかかった。「なんでぼくたちが捕まんなきゃならないのさ! 捕まえるべき奴は別にいるだろ!」


「市民のいるところでの過剰な呪術の使用、罪のない呪術師への暴行、公共物である無面の破壊。その他幾つかの嫌疑もかけられている。これで捕まらない理由がないとでも?」


 矢継ぎ早に罪状をあげられ、さすがに綾人も押し黙った。


 不可抗力とはいえ、全部やっていることだ。


「どうする、一条君。投降する」和泉が小声で尋ねてきた。


「いや、逃げる。このまま従っても、なんの解決にもならないからな」


 大人しく投降したとしても、こちらには弁解の手段がない。曼荼羅での精神検閲はかけられたままだ。あり得ないとは思うが、例え神祇省に秋水の手駒がいないとしても、こちらは犯した罪の理由を喋ることも出来ない。素直に従えば、独房にぶち込まれるのがオチだ。


 正樹の資料が手元にあれば、取り調べの時に読んでもらうことが出来たかもしれないが、それもすでに焼かれてしまった。秋水の狙いは、初めからこの状況に自分たちを陥れることだったのかもしれない。だから資料を持つ明乃を捜させ、大量の無面をけしかけ、正樹を駒として利用した。自分に繋がる資料を焼き払い、手を汚すことなく自分たちを始末するために。


 もしかしたら一条が岸本杏の死体を見つけたときすでに、こうなるよう仕組まれていたのかもしれない。まったくもって腹立たしい。ここまで秋水の思い通りに踊らされてる。


 だがこのままでは済まさい。最後の勝ちは必ず掴むつもりでいた。


 一条は骸羽織の黒灰から黒い長槍を造り上げた。日本刀と並んで、一条が最も好む得物の形。先程は狭い路地だったがいまは広い河川敷だ。こちらの方が都合が良い。


「応じるつもりはないか。ならこちらも力づくでやらせてもらう」


 宗谷が右腕の裾を捲る。彼の右腕には、一条のものより一段上の修祓印が刻まれている。


 印が起動した瞬間、海の底にでも沈められたように一条の全身に圧力がかけられた。


 呪術犯罪者に対して使用される五法曼荼羅の粛正機能。さらに宗谷は、周囲に結界を張った。認識阻害などという生易しいものではない。罪人を逃さないために張る空間封鎖の結界。


 新宿で綾人たちが使われたのと同じものだ。


「ったく、昔の相棒にここまでするこたねぇだろ」


「違うな。相棒だったからこそ、ここまでするんだ。わざわざ出向いてやったんだ。早々に縄についてもらおうか」


 その言葉とともに周囲を囲む無面たちが襲い掛かってきた。


「お断りだ。まだまだやるべき仕事が残ってるんでなぁっ!」


 一条は槍の穂先に火をつけ、くるくると回すと地面に突き刺した。


 蜘蛛の巣状に火が走る。火は無面を焼き払うだけでなく、河にまで届き水を蒸発させた。


 爆散するように水蒸気が巻き起こり、一条たちの姿を隠す。


 一条は次の術式を構成しながら言った。


「俺が足止めする。その間に、お前たちは何処か隠れられる場所に逃げろ」


「けど曼荼羅に捕捉されてるんだよ。ここを切り抜けてもまた追いかけられちゃうよ」


 綾人の意見は最もだ。だがこちらには、それを切り抜けられる手札がある。


「和泉、どんな方法を使っても良いから正樹を叩き起こせ。そいつの能力なら、俺たちと曼荼羅の縁を断って、監視

から逃れることも出来る筈だ」


「わかった。迷惑かけられた分、きっちり働いてもわらないとね」


 短い会話の間に、術式の準備は出来た。方針も決め、あとは行動に移すだけだ。


「結界を破る。合図をしたら全力で走れ」


 一条は槍を構え、呪術を発動させようとした。その直前、後ろから誘が声をかけてきた。


「一条さん、無茶をするのは構いませんが、あとで必ず戻ってくるように。わたしの依頼、まだ終わってませんからね」


 依頼を終わらせるということは、誘が紫堂家の里に戻るということだ。そうなれば彼女はどうなるかわからない。廃棄される可能性もある。


 一条は曖昧に頷き、術式を発動させた。黒槍に膨大な霊気が宿り、その先端には赤黒い火が激しく燃え始める。その熱量は凄まじく、周囲を覆っていた水蒸気が一瞬にして吹き飛んだ。


 晴れた視界の先では、宗谷が張り詰めた表情をしていた。


 当然だ。彼はこの術式を何度も見ているのだから。


 概念供犠。食物や器物ではなく、形のない物を贄にすることで術式を強化する代償呪術。


 一条が捧げるのは自身の活動時間だ。一撃だけなら供物にするのは数十分もあれば充分だ。その時間分の供物が、膨大な熱量となり槍の火力を増大させる。


 槍を振りかぶるのを見るや、宗谷は迷いなく部下に命令した。


「避けろ! 無常の炎だ。絶対に触れるなよ! 焼き尽くされるぞ!」


 宗谷たちが避けた先に、槍を振り下ろす。


 赤黒い炎が解き放たれ、触れるものをすべて燃やしてゆく。いや、そんな生易しいものではない。火に触れたものは草も土もコンクリートも、その瞬間に物体から気体へと相転移した。


 火は結界すらも容赦なく焼き、空間を区切る境界に風穴を空けた。


 結界の外に向けて誘たちが走り出す。宗谷は部下に捕まえるよう命じるが、当然一条が許す筈もない。一条は槍を宙に投げ放った。黒槍は空中でバラバラに分解し、幾つもの短刀となって、局員たちの目の前に振り落ちた。短刀を起点に火が生まれ、炎の壁が出来上がる。


「そう急ぐなよ。せっかく結界まで張ったんだ。もう少しここで遊ぼうぜ」


 誘たちが脱出したあと、すぐに結界は閉じた。


 宗谷はそれを見届けるとため息を吐き、眼鏡を胸ポケットに仕舞った。


「悪いがこっちも仕事で来てるんだ」


 拳を構えたあと、十メートル以上ある距離を、宗谷は一瞬で詰めた。


 宗谷の拳を、一条は両腕を交差して防ぐ。衝撃で殴り飛ばされるが何とか踏み留まった。


 拳は重く、防いだ両腕には鈍い痛みと痺れが残った。


「早々に終わらせてもらうぞ」宗谷は片足を引き、拳を構えた。


 呪術師としての能力だけなら、彼は正樹にも劣る。元々宗谷は呪術師ではなく、退魔に特化した武術家の家の生まれだからだ。そのためこの場に張った結界も彼の力ではなく、あくまで曼荼羅の補助によるものだった。だが戦闘能力においては、宗谷は正樹の遥か上にいる実力の持ち主だ。心してかからなければならない相手だった。


 骸羽織から、新たに黒槍を形成し、一条は元相棒に対峙した。

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