第十二夜 屍鬼

 数時間もの捜索の末、蓮司は満身創痍の有様で、上野のレストランのテーブルに上半身を預けていた。綾人も蓮司のことを背もたれ代わりにしたり、和泉も二人用の椅子に体を横たえたりと、それぞれに疲労を露わにしている。


 レストランには観光客や家族連れが、今日一日の出来事の話で団欒していた。それと比べると、このテーブルだけやたらとどんよりとした雰囲気を醸し出している。


 両腕に載せた頭を起こし、蓮司は疲れきった表情で言った。


「まさかここまで歩かされるなんて思いませんでしたね」


「ほんと、どれだけ動き回ってるのよ、あの娘。アメ横から秋葉原、次は浅草方面へ行ったかと思ったら、また上野側まで戻ってくる。電車も車も使わないからくたくたよ」


 脚の疲労を解すように、和泉は右足のふくらはぎを手で揉んだ。


「気になるのは一応電車にもタクシーにも乗ろうしたのに、結局は乗らなかったことですね。先回りされたとしても、上野や秋葉みたいな規模の広い駅で振り切れなかったってのは、ちょっと尋常じゃないですよ。誰かに追われてる様子だったけど、どれだけ過去を視ても、追手はわからなかったし。なぁ、綾人は俺と視覚を共有してたんだから、何か視え……」


 綾人は蓮司に寄りかかり、すやすやと寝息を立てていた。その気の抜けた顔にちょっと腹が立ち、蓮司は肘で彼の頭を小突いた。目を開くと、綾人は慌てて周囲に視線を巡らせた。


「綾人、今日のことについて、なんか意見ないの? 俺と視覚を共有してても、注目したものは別だろ。立花を追いかけてる奴とか見なかったか」


「あぁそういう話。残念だけど見てないよ。多分だけど、追う側は過去視対策に自分が現れた場所に呪的なフィルターでもかけたんじゃないかな。立花さんが後ろを振り返ったときとか、視線の先が妙に開けた空間になってたし」


「過去にフィルターって、そんなことも出来るのかよ」


「呪術師の犯罪では常套手段よ。あくまで現在の場所に術をかけて、未来に観測されないようにするだけだけどね。いまは表社会と同じで、呪術師もだいぶ管理されてきたから、逆にその対策も発展してきちゃったのよ。明乃ちゃんの縁が切られたのも、その方法のひとつね」


「ただ不思議なのは、現場にフィルターがかけられてるなら、微弱でも霊力は感じる筈なんだよねぇ。人が多すぎたからかな。和泉ちゃんは何か感じた?」


「綾人くんがわからないのに、あたしがわかる筈ないでしょ」


「だよねー」


 言い方にむかついたのか、和泉は綾人の頬を抓った。綾人の頬が餅みたいに引っ張られ、彼に小さな悲鳴を上げさせる。


「でも今日の調査はわりと収穫よ。数日分の過去を見て歩いたけど、明乃ちゃんは絶対に電車や車での移動をしなかった」


「ここを中心に捜せば、いずれ立花は見つかるってことですか。けど、さすがに灯籠堂の面子だけでやるには、範囲広くないっすかね」


「そこは一条くんになんとかしてもらいましょう。一応、広範囲の捜索手段は持ってるしね。本人がいないと出来ないのがもどかしいけど」和泉は注文していたビールに口をつけた。


 そのとき、蓮司は彼女が上げた腕に、なにかキラリと光るものが見えた。認識したものの不可解さに眼を凝らそうとしたが、それより早く、綾人が口を出した。


「あれ、和泉ちゃん鱗出てるよ」


「え、嘘っ」


 和泉の前腕の裏には、一枚の綺麗な鱗が生えていた。食事で出た魚の鱗がたまたま張り付いたというのではなく、本当に、彼女の腕から生えているようだった。和泉は慌てて席を立ち、逃げるように化粧室へと駆け込んだ。


「いまの何?」


「んー和泉ちゃん家の呪いかな。あの人の家、人魚の呪いがかけられてるんだよ。人魚と同じ体質になっちゃう呪いで、さっきみたいに体に鱗が生えたり、分泌される体液に薬としての効果があったりね。さすがに本物の人魚ほど効果は強くないらしいけど。人よりもやたらと水分摂取量が多いのもその影響みたいだよ」


「人魚の呪いって、またおとぎ話じみてんなぁ」


 とはいえ、現物を見たあとでは信じざるを得ない。連日変なものばかり見てきたせいか、この手のものを信じることに抵抗がなくなってきていた。


「江戸時代くらいにはまだ人魚がいてね、和泉ちゃんの家は彼らを狩ることを生業にしてたんだって。人魚の肉には不老不死の効能があるってくらい薬として貴重だったからね。呪術師たちには重宝されたんだ。けどあんまり乱獲しすぎて、人魚に恨まれて呪いをかけられちゃったんだ。以来、狩る側から狩られる側に立場が逆転した。本物ほど効果が高くないとはいえ、人魚だからね。丹村家を狙った呪術師たちは、不老長寿の効果くらいは期待してたのかもね」


「……もしかして、今もなのか?」


「さすがにそれはないよ。いまはそうした呪い憑きや混血、それに君みたいな超能力者にも理解はあるから。犯罪を生業にしている呪術師以外に狙われる、なんてことはまずないよ。とはいえ、人間社会で生きるには、色々と面倒なことが多いから、本人は呪いを解きたがってるけどね。死ぬときには本当に魚になっちゃうらしいし」


 蓮司は彼女が走っていった化粧室の方を見た。呪術師は、一般人よりも社会で有利に生きられるのかと思ったが、自分が思うよりも案外苦労しているのかもしれない。


 和泉が戻ると、これ以降の捜索は正樹と情報を共有をしたあと、また折りを見てということになった。蓮司の依頼もある以上、明乃の件にだけ集中するわけにはいかないからだ。今後は正樹が主軸に捜索を行ったあと、灯籠堂の協力はまたの機会にということになる。


 話を纏めて居酒屋での食事を終えると、一向は神楽坂へ帰るために上野駅へと向かった。


 二十一時を越えたせいか、駅構内には帰宅途中の人々が大勢いた。


 鱗を見られたのが余程効いたのか、和泉は駅構内に来ても恥ずかしそうにしていた。


「はぁ、不覚だわ。暑さに負けて、鱗の処理を怠るなんて。綾人くん、指摘するならもう少しさりげなくやってよ。蓮司くんにも見られたじゃない」


「えーそんな文句言われてもなぁ。それにそんな拘る必要ないじゃん。蓮司くんはぼくらといるせいで怪異に気づきやすいけど、他のひとたちは曼荼羅の認識操作でまず気付かないし」


「というか、そんな恥ずかしがらなくても良いんじゃ。鱗は綺麗でしたし」


「んーたぶん、むだ毛の剃り残しを見られたのと同じ感……ぐふぅ」


 綾人が言い終わるより早く、和泉は彼の首を腕で絞めた。怒った辺り図星なのだろう。綾人の後頭部が彼女の豊かな胸に埋まり、比例するように綾人が苦しそうにする。少し羨ましいが、彼女に鱗の話題を振るのは止めたほうが良さそうだ。


 そんなやり取りをしながら駅のホームを歩いていると、ふと、人混みの奥、駅の柱に背中を預けている女性が、こちらに手を振っているのが見えた。


 帽子を被り、上はポロシャツに下は短パンというカジュアルな恰好をした女性だ。最初は遠くてわからなかったが、酒で赤くなった彼女の顔を認識した瞬間、蓮司は顔を引きつらせた。


 そういえば、この前会ったとき上野に行くと言っていた。このままではマズい。


「おい、早く銀座線行こうぜ。席取られちまうよ」


「なに言ってんのさ。これだけ人がいるのに、今更座れるわけないだろ。まだ時間はあるし、急ぐ必要ないと思うけど」


「いいから! 急がないとあの人がっ」


「そこの唐変木! 人が律儀に手を振ってるのに無視するとか何事か! 恥を知れ、恥を!」


 逃げるより先に、背中をどつかれた。地味に痛む背中を抑えながら、蓮司は襲撃者に叫んだ。


「いきなり何すんですか緑先輩! 背後から不意打ちとか危ないでしょうが!」


「いきなりじゃない。人を無視するお前が悪いのだ、蓮司よ」


 緑はなぜか賢者が諭すように話した。もう相当に酔っているらしい。


「あらかわいい。なにこの娘、蓮司くんのお知り合い?」


 背後から人を襲う非常識よりも、まず容姿に触れる和泉にツッコミを入れようかと思ったが、鈍痛に負けて頷くだけにした。


「そうです。元いたアルバイト先の先輩の……」


「大橋緑でっす! 元後輩がお世話になっているようで何より! 六倉君もお久しぶり、元気してた? ところで、この美人さん誰? 蓮司がお近づきなれる機会なんてなさそうなんだけど。もぅっ、どうしたのよ、このっこのっ」


 言動は安定せず、一々拳を打ち込んできて鬱陶しい。唯一幸いなのが、最初の不意打ちと違い勢いをつけてないので、拳がへっぽこ極まりないということだ。人の話を無視して、緑は完全に自分のペースで喋っている。どの角度から見ても、言い訳のしようのないへべれけだ。


 酔いのせいで足に力が入らないのか、彼女はガクンと膝を落とした。


「お、おろ? う、テンションあげたから気持ち悪くなってきた」


 緑は口を抑えて吐き気をこらえ出した。蓮司にとってはもう何度も見慣れた光景だ。


「あの、丹村さん、放ってもおけないんで、取り敢えず水買うなりして来て良いですか」


 それから二人の許可を得て、彼女を家まで送ることに決まった。思ったよりも酔いが強く、このままでは道端で寝ることも考えられたからだ。緑の場合、一度酔いすぎて他人のアパートに不法侵入して雑魚寝してしまったことまであるので、用心するに越したことはない。


 緑との間柄を和泉に説明しながら彼女の介抱をし、蓮司たちは銀座線に乗った。


 途中、神田駅で中央線に乗り換え、そのまま彼女の暮らす千駄ヶ谷を目指す。運良く席がひとつ空いていたので、緑を席に座らせられたのは幸いだった。


 つり革に揺られながら、蓮司は横並びになった二人に謝った。


「すみません。全然関係ないのに、知り合いの世話手伝わせちゃって」


「まったくだよ。次からは君ひとりでやりなよ。でもま、どうしてもっていうなら手伝ってあげないこともふぅっ。……あの和泉ちゃん、肘で脇腹突くの止めてくれない」


「蓮司君、困ったことがあればじゃんじゃん綾人くんを頼って良いからね。綾人くん、ちょーっと素直じゃないだけだから。まったく、そんなんだから、いつまでも友達出来ないのよ」


「違いますー。友達が出来ないんじゃなくて、作らないだけですー」


「友達出来ない奴の常套句だな。けど、いくら綾人でもゼロってことはないでしょ」


 と冗談混じりに言ったが、綾人も和泉も黙りこくってしまい、蓮司は言葉に詰まった。痛い沈黙のなか、緑の「あはは地雷踏んだー」という空気の読めない声だけが響いた。


「……マジでいないの?」


「いや、いるよ。いる。片手で数えるくらいだけど……」


「ホント少ないわよねぇ。SNSも、あたしたちや家族を含めても僅かだし」


「ほんと不思議だよねぇ。なんでだろ」 


 綾人は携帯でSNSのアプリを開くと、画面をスクロールした。


 横から携帯を覗くと、ほんとうに両手の指で足りる程度しか登録者がいないので驚いた。十数年生きていて、なにをすればこんな悲惨な交友関係に至るのだろう。さすがに本人も気にしてるのか、口調こそ平然としているが微妙に憂鬱な顔をしている。


「ちょっと携帯貸せ」


 居たたまれなくなり、綾人から携帯を引ったくった。自分がSNSで使用しているIDを打ち込み、綾人のアカウントに登録する。そのまま彼に携帯を返した。


「ほら、友達増えたぞ」


 決して哀れんだわけではなく、この数日間で、蓮司のなかではすでに綾人は友達として認識していたから行ったことだ。時間こそ少ないが、密度の濃い時間を過ごし、わりと面倒臭いが、これはこれで面白い奴と蓮司は思っていた。


 綾人は驚いた表情で、携帯の画面をスクロールした。顔にこそ出さないようにしているが、口の端が微妙につり上がっているのが丸わかりだ。


「蓮司君、君がこんなにお節介な奴だとは思わなかったよ。あ、いや、友達だから、今度からはさんをつけた方が良いのかな? それともぼくが言われるほう?」


「……お前のなかで友達ってどういう認識なの?」


 なんとなく、綾人に友達がいない一端を垣間見えた気がした。


 そうしたやり取りをしている間に、電車は千駄ヶ谷へと辿り着いた。緑を送り届けようと駅を出たが、途中彼女がトイレに行きたがり、ついでに飲み水も欲しがったことで、近くの公園で休憩を取ることにした。それなりに遅い時間のせいか、公園には自分たち以外には誰ひとりおらず、街灯とビルから漏れる光だけが、小さな公園をほのかに照らしていた。


 和泉が自分の分の水も買いに行ったことで、蓮司と綾人は公園で彼女を待つことになった。


 公衆トイレから戻ってきた緑は、酔い潰れてベンチで眠りこけている。年頃の娘として、どうかと思う有り様だ。


 綾人がベンチで横になった緑の頬をつつきながら言った。


「それにしても、なんで緑さん、あんなところで一人でいたんだろうね。あれだけ酔うなら、普通誰かと一緒にいるもんじゃないの?」


「いや、たぶん最初は一緒にいたけど、途中で別れたんだろ。そのあと一人で呑み出した。立ち飲み屋とか行くとおっさんたちが奢ってくれるとかでよく行くんだってさ。いつもは潰れる前に、一緒に呑もうとか、奢るとか適当な理由で人を呼びつけるんだけど、今回は誰も引っかからなかったみたいだな。少し前までは、今ほど酔い潰れることもなかったから心配する必要なかったんだけど」


 出会ったばかりの緑は、いまと同じく酒好きではあったが、ここまでの酔い方をすることはなかった。酔い潰れるとしても、それはライブの打ち上げや、仲間内でめでたいことがあるときだけで、普段は酒に呑まれることなく音楽に打ち込んでいた。大学のバンド仲間と路上ライ

ブをしたり、自作のCDを出していたのも見かけたことがある。


 プロになる気はなく、あくまで学生時代だけの趣味だと彼女は言っていた。


 実際その通りだったのだろうが、趣味に青春を注ぎ、ライブでつぎ込んだ時間を燃焼する彼女の姿は、蓮司には輝いているように見えた。適当な理由で剣道を止めた自分とは違う。この人は自分の楽しみのために生き、青春を謳歌しているのだと素直に思えた。


 それが変わったのは、この春に彼女がバンドを解散してからのことだ。原因はバンド内での恋愛沙汰。よくある理由だと、緑は笑いながら愚痴っていた。


 そうしてあっさりと、彼女が数年間時間をつぎ込んだ青春は終わりを告げた。それからは緊張の糸が切れたかのように、緑は友人たちと遊びまくる生活へと変化した。


 毎日のように何処かの店で飲み、毎日のように誰かの家で飲み会を開く。それはそれで楽しいだろうし、大学時代だからこそ、そこまで友人たちと付き合える貴重な時間でもある。


 けれど蓮司は、ライブでギターを弾く恰好いい彼女も、もう一度見たいとも思うのだ。


 そう考えていた所で、携帯に着信が着たのがわかった。携帯を見てみると、画面には啓の名前が映っている。このタイミングで電話がかかってきたということは、一条から聞いて、どうすべきか自分で答えを出したということなのだろう。 


 蓮司は綾人たちから距離を置き、少し緊張しながら液晶の通話をオンにした。


 携帯を耳に当てると、僅かな沈黙のあと、啓が喋った。


「……蓮司か」


「そうだよ。兄貴、祭塚さんから話、聞いたんだよな」


「正直、最初は信じられなかったけどな。だけど、ここ最近のお前が変だってのは知ってたからな。なぁ、祭塚さんの言う通り、今家にいる彩は偽物なのか」


「絶対だ。本当の彩はいない。母さんが流産したから、生まれてすらいないんだ」


 啓は沈黙し、耳に当てた携帯からは、彼の周囲の僅かな音しか聞こえない。いま耳に届くのはビートルズの曲、ロ

ッキー・ラクーンだ。兄がいつも部屋で流していた曲だ。なら、啓はいま自室から電話をかけているのだろう。


 啓が何も言わないので、蓮司は自分から意見を言おうと口を開いた。


「……兄貴は、どうするか決めたか。俺は、少しでも自分たちが関わるべきだと思うけど」


「俺もそう思う。ああ、そうだ。それを伝えようとしてたんだ。やっぱ、いまの状況はおかしいもんな。面倒なことになるだろうけど、元に戻さないと」


 蓮司は安堵した。これで、少なくとも啓の命は助かる筈だ。


「けど、その前に聞いておきたいことがあるんだ。祭塚さんに聞いたんだが、このまま偽の彩を放っておいたら、うちに悪影響が出るんだってな。もしかしてさ、それって俺なのか。俺が妙な状態になりそうだったから、お前は家を出たのか」


 蓮司はどう言うべきか悩んだ。この様子だと、啓はまだ迷っている。自分と違い、啓には偽物でも、あの彩と過ごしたという記憶があるのだ。自分のせいで、妹と思っていたものが消える。それは例え相手が害のあるものだとしても、辛いことなのではないかと思った。


 なんとか誤摩化そうと口を開くが、それより先に、何かが倒れる大きな音が聞こえた。


「兄貴? どうしたんだ兄貴」


 だが啓からの返事はない。安否を確かめようと名前を呼んでいると、綾人がこちらに来た。


「どうしたの、蓮司君。何かあった?」


「兄貴から返事がないんだ。倒れるような音が聞こえたと思ったら、全然喋らなくなって。くそっ、携帯は繋がってるってのに」


 まさか向こうで、偽の彩が動いたのか。そう考えていると、綾人が肩を指先で叩いた。綾人は周囲に視線を向けるように、顎で公園の端を示した。


 反射的に呼吸が止まる。草むらの影に、赤い眼をした小さな生き物がいた。あの鼠だ。


「綾人、丹村さんは……」


「まだ戻ってない。もしかしたら、和泉ちゃんも足止めされてるのかも。蓮司君、緑さんを起こして。逃げるよ」


 蓮司はベンチで寝る緑を起こし、面倒そうな声を出す彼女に移動することを伝える。


 綾人はメモ帳を取り出し、その紙を数枚引きちぎった。それと同時に、彼の両手にあの幾何学的な墨の文様が浮かんだ。その手でちぎった紙には、予め、彼の墨絵が幾つも描かれていた。


 さらに綾人は数枚の護符を手渡してきた。


 綾人の手の墨絵が伸び、護符を通じて、蓮司の腕に綾人とは別の幾何学的な文様が描かれる。


「一条さんと誘ちゃんから。呪術用と屍鬼用の護符。屍鬼相手ならよほどの奴でもない限り、君のことを守ってくれる。それで、そっちの墨絵はぼくからの選別。使うときは、墨絵に念じて、君が使いやすい武器を思い浮かべれば良い」


 蓮司は頷き、公園を見回す。公園の周囲は、すでに鼠の大群で埋め尽くされていた。


「なに、これ。なんなのよ、この鼠の数っ!」


 さすがに眠気が飛んだのか、公園を埋め尽くす鼠を見て、緑は叫んだ。


 巻き込んだことを申し訳なく思うが、こうなった以上は走ってもらうしかない。


 綾人がメモ帳から千切った紙を放り投げる。紙は風の流れを無視して前方へと進む。


「道を拓く。走るよ」


 言葉とともに、紙が宙で重なり合う。個別に描かれた墨絵は、幾重にも重なり合うことで一枚の巨大な絵となった。幾匹もの蛇が絡み合うその絵が、綾人の術により形を成す。


 巨大な絵から、滝のように数え切れないほどの蛇が溢れ出した。蛇たちは蓮司たちの前方へと進み、出口を塞ぐ鼠たちへと襲い掛かる。


「行くよ、蓮司君!」


 綾人が走り出す。蓮司も足下がふらつく緑に肩を貸しながら走った。公園を出て、住宅街の路上を走る。背後からは、蛇から逃れた鼠たちが追ってきた。


「それで、何処に行くんだ。闇雲に逃げても意味ないぞ」


「とりあえず、人の多い場所を目指そう」


「それだと他のひとたちも巻き込むだろ!」


「大丈夫。人が多過ぎる場所なら、固定観念が強すぎてあいつらも形を為すのは難しい。怪異は認識する人間が多いほど力が増すけど、逆に自分たちのことを信じない人間が多いと、発生することすら難しいんだ。曼荼羅の力に、ぼくの力も重ねるつもりだから効果も倍増しだよ」


 よくわからないが、怪異に詳しくない以上、綾人の言うことを聞くしかない。


 走る速度を上げると、肩を貸して走らせていた緑が息を切らて喋った。


「ね、ねぇ蓮司! あの鼠たちなんなの! 多すぎて気持ち悪いんですけど! 夢! もしかして夢なの、これ! すごい! あたし夢を自覚するの初めてかも!」


「すいません! 夢じゃないので、全力で走ってください!」


 とても説明する時間はない。背後からは大量の鼠が路地を埋め尽くして追って来る。


 走りながら、蓮司はあることに気付いた。これだけ走っても、ひとりも人を見かけないのだ。


 まだ夜の十時ほどなのに、アパートも住宅も異様なほど灯りが消えている。


「綾人、人が……」


「うん、たぶん人払いをかけてるんだと思う。前みたいな結界は張るつもりがないみたいだ。けど、急いだほうが良いね。この時間だ。時間が経てば経つほど、人の数は減ってくる」


 転びそうになる緑の体勢を、なんとか立て直させながら背後を振り向くと、鼠たちが新宿のときのように体を結びつけ、一本の長い腕となって手を伸ばすのが見えた。人の腕を模したにしては、細部の比率の悪い腕が真っ直ぐに蓮司に伸ばされる。


 綾人がメモ帳を一枚千切り、そこから雀の墨絵を放った。雀は不出来な腕を手首から切り裂く。だが、腕は鼠の集合体だ。僅か一メートルにまで迫っていた手はバラバラになり、何匹もの鼠となって襲ってくる。蓮司は叫び出しそうになったが、代わりに緑が悲鳴をあげてくれた。


「蓮司君、さっきの墨絵を!」


 綾人の呼び声で思い出した。右手には、彼が描いた文様があるのを。


 使える武器をイメージし、雄叫びとともに右手を振り抜いた。


 あと数十センチのところにまで迫っていた鼠が叩き飛ばされる。


 蓮司の手には、墨絵をそのまま立体化させたような黒い木刀が握られていた。剣道をしていたため、一番使いやすいと思った武器がこれだった。


 木刀のイメージが頭から消えると、墨絵はすぐに糸が解けるように砕け、また元の墨絵に戻ってしまった。どうやら、これを使うにはそれなりの集中力がいるらしい。だがこれなら戦える。綾人のように鼠を一掃することは出来ないが、近づいてきた相手を払うくらいは出来る。


 自分も戦えると確信したが、その瞬間、その意志をくじくように向かいから大量の鼠がやってきた。挟み撃ちにされた。逃げ場はない。恐怖で足を止めそうになるが、綾人が叫んだ。


「足を止めるな! あいつらはぼくが蹴散らす! だから走れ!」


 綾人がメモ帳を千切り、その紙からこれまでの小動物とは違う、ワゴン車ほどの大きさもある墨の巨狼を造り出した。巨狼は真っ直ぐに正面の鼠たちへ向かい、彼らを蹴散らしていく。噛み砕かれ、踏みつぶされ、鼠の群れは数を減らす。だが、まだ道を拓いたとは言いがたい。それでも背後からは鼠の大群が迫ってくる。進むしかなかった。


 右手に墨絵の木刀を具現化し、巨狼に続いて鼠の群れに突っ込む。巨狼が作った僅かな道を進むが、周囲から一斉に鼠が襲い掛かってきた。


 食い殺される。やはりこれだけの鼠の群れのなかを走るなど無茶だったのだ。


 視界が鼠に覆われる。走りながらも、恐怖で眼をつぶってしまう。


 だが、いくら待っても死の痛みはなく、代わりに鼠の悲鳴を鼓膜が聞き取った。


 眼を開くと、蓮司を襲った筈の鼠は、不過視の力によって四方に弾かれていた。その力は先程、綾人が渡した札を中心にして生まれているようだった。誘が用意した屍鬼対策の札だ。


「さっすが誘ちゃんの護符。屍鬼相手なら、ほとんど無敵だね」


 綾人はさらにメモ帳から蛇の群れを造り出し、巨狼とともに鼠を蹴散らしていく。


「さぁ、急ごう! ここを抜ければ、駅はすぐそこだ!」


 人が多い場所に近づいているからだろう。鼠たちの動きは少しずつ鈍くなり、数も徐々に減り出した。だが、それが鼠たちを操るものを焚き付けたのか、鼠は細いミミズのような肉の糸となって分解しだした。解けた糸は絡み合い、蓮司たちの前に壁を作ろうとする。


 蓮司は速度をあげ、壁が作り上がるギリギリのところで、鼠の群れを抜けた。一気に光が多くなった。あと少しで、駅に辿り着く。


 だが、蓮司と緑は群れを抜けられても、綾人は抜けられなかった。肉壁の隙間から僅かに見える綾人に蓮司は叫ぶ。


「綾人!」


「先に行け! ここはぼくひとりで何とかなる! そこには緑さんもいるんだろ!」


 その言葉で、蓮司はやらなければならないことを思い出した。緑の腕を掴んで、必死に走る。少なくとも、なんの関係のないこのひとだけは、助けなくてはならないと思った。


 だが、全力疾走の疲労、体に残るアルコールが影響で、あと少しで路地を抜けるというところで、緑が転んだ。掴んだ腕が離れ、彼女との距離が開いてしまう。


 背後からは、肉の壁から長い手が伸ばされ、真っ直ぐに緑へと向かっていた。


 走り続けたせいで足が重い。それでも蓮司は彼女を助けようと必死で足を動かした。


 だが遅い。赤い手が彼女に届くほうが先だ。


 緑は恐怖に顔を歪めて叫んだ。


「蓮司たすけっっっ!」


 背中から緑の胸に腕が突き立てられる。


 口から大量の血が溢れ、最後の言葉を言い切る前に遮られた。


「先輩ッッ!」


 墨絵の木刀で、蓮司は緑を貫いた腕を断ち切った。彼女を抱えると、ぬるりとした感触が手に広がった。涙が出そうになりながら、緑を抱えて駅を目指す。


 気付いたときには、膝をつき、彼女を地面に横たえていた。


 息を荒げながら、動かなくなった緑を見る。腹部からは見たこともないくらい血が溢れ、顔は青ざめて血色を失っている。瞳は虚ろで何も映さず、口はほうけたように開きっぱなし。呼吸も聞こえない。脈もない。どう見ても、死んでいるとしか思えなかった。


 それでもと思い、蓮司は立ち上がった。


 駅前には、帰宅途中のひとが大勢いる。気付いてさえもらえば、すぐに助けてもらえる。


「誰か、誰か、助けてください! 手伝ってください! 先輩が死にそうなんです!」


 街中に響き渡るのではというくらい大きな声で叫ぶ。道を歩く何人かの人間は振り向いた。だが顔を向けただけで、何事もなかったかのように行ってしまう。なかには奇妙なものを見るような眼、蔑むような眼で見るものまでいた。どれだけ叫んでも、どれだけ助けを呼んでも、誰も近づいてすらくれない。携帯を出して、救急車を呼ぶことすらしない。


「なんで、なんで、誰も助けようとしないんだよ! 人が死にそうになってんだぞ!」


 怒りが込み上げる。道行く全員、殴り飛ばしてやりたくなった。蓮司はどうすれば良いか考え、とにかく救急車を呼ばなければならいことを思い出した。急いで携帯を出し、病院へ連絡をしようとする。だがその直前、足下から沸き出す光に気づいた。


 緑が横たわる地面から光が漏れ出していた。よく見れば、その光は彼女を中心にうっすらと描かれる曼荼羅から放たれているようだった。その曼荼羅には見覚えがある。新宿で鼠の怪異に襲われたとき、一条が呪術を使用した際に見たのと同じものだった。


 その曼荼羅の形が明確になると、まるで時間が巻き戻るかのように、緑の体を汚していた血が彼女の傷口へと戻っていく。やがて服を汚していた血は完全に消え、彼女の腹部の傷も塞がり、破れた服も元に戻ってしまった。傷が塞がると、何事もなかったように曼荼羅は消えた。


 残されたのは五体満足の、傷ひとつない、大橋緑だけだった。


「なんだよ……これ……」


 わけが分からぬまま事態を見守っていると、緑が瞳を開けた。彼女は気怠げに体を起こすと、朝起きたばかりのように両腕を伸ばす。そして周囲を見ると、驚いた声をあげた。


「うっわ、もしかしてアタシ、路上で眠っちゃってたの。うっそでしょ。まさか酔いまくっていたとはいえ、そんなアホなことするなんて」


「……あの、先輩、傷は、腹の傷は大丈夫なんですか?」


「傷って、なんのことよ。それよりありがとね、蓮司。あんた、アタシの介抱してくれたんだ。

いやぁ、あんたいなかったら変な奴に絡まれてたかも。ほんと助かったわ」


 あまりのことに、蓮司は言葉を失った。


 記憶が消えている。緑の記憶からは、先程まで怪異に襲われていた記憶が、一切消えている。それどころか、腹部の傷すらも。


 そこで彼女の腹部へ視線をやり、蓮司は気付いてしまった。緑の腹部からは、確かに傷が消えている。だが蓮司の過去を捉える眼には、彼女の腹部に重なるようにして、先程の傷痕が見えていた。これまで視てきた死相持ちと似たような傷痕が。


 不意に理解した。今まで自分が視てきた死相持ちというのが何だったのか。


 そしてその死相を持った兄が、いまどういう状態なのかを。


 混乱しながらも、蓮司は緑が歩き出したのに気づいた。その足はまだふらついてる。


「先輩、何処へ」


「何処って、うちに決まってるじゃない。ここまで送ってくれてありがとうね。もう酔いも冷めてきたし、自分で歩けるよ。それとももう遅いし、うちに来る?」


 あまりにいつも通りの態度に戸惑うと、それを彼女は否定と受け取ったのか「じゃあね」と手を振って行ってしま

った。引き止めようと思うが、それより先に綾人の声が届いた。


「蓮司君、緑さんは……」


 綾人が息を切らせてやってきた。その顔には、かなりの汗が浮かんでいる。運動が苦手な彼が、ここまでずっと走りながら、蓮司たちを逃がすために戦い、あの鼠たちを退けたのだ。


 だが、蓮司は労いの感情よりも、怒りがこみ上げてきた。


「死んだよ。あいつらに、腹を貫かれて」喉から出た声は、自分でも驚くほど冷たかった。


 予想していたのか、綾人は驚かない。そのことが無性に腹が立った。


「なぁ、なんだったんだ、アレは。先輩は死んだのに、なんで生き返ったんだよ。先輩が生き返った時、曼荼羅が浮かんだ。一条さんが呪術を使ったときと似た曼荼羅だ。あれは、一体なんなんだ! どうして生き返った先輩の腹に、死相持ちと同じ傷痕が視えたんだよ!」


 綾人は申し訳なさそうに黙りこくり、俯いた。詰問しようとしたが、それより先に綾人が顔をあげた。表情には緊張と恐れが僅かに滲んでいた。


「君の……君の先輩が蘇ったのは、呪術の秘匿のためだ。正確には蘇りじゃなくて、簡易的な屍魂の術で屍鬼になってるんだけど」


「屍鬼って、先輩があの鼠たちと似たようなものになってるってのか!」


 怒りで綾人の胸ぐらを掴む。だが彼は怯えもせず、哀しそうな顔をするだけだった。


「呪術や怪異の存在を隠すには、三つ、しなきゃならないことがあるんだ。一つ目は、怪異の存在そのものを一般の人には存在しないものとして認知させること、二つ目は、怪異が発生した場所に人が近づかないようその周辺に人払いをすること、そして三つ目。三つ目は、怪異によって人間が死んだ事実を、その周囲の人間に悟らせないこと」


「死んだ事実を悟らせないってそんなのどうやっ……」


 いや、いま自分はその方法を目の当たりにした。緑が目の前で生き返ったのをこの眼で見た。


 確かにあれなら、直接死んだ瞬間を見ない限り、周囲に死んだと悟られることはない。そして死相を持った人間は、二週間以内に必ず死ぬ。


「じゃあつまり……先輩が生き返ったのは……」


 そんな残酷なやり方があってたまるか。そう懇願するように問う。


 しかし、綾人は首を横に振ることなく、ゆっくりとその事実に頷いた。


「そう。緑先輩が生き返ったのは、もう一度、死に直してもらうためだ。一般人にとってわけのわからない死に方じゃなくて、自殺とか、事故死とか、周囲がその人間の死に方に納得出来る方法で、もう一度死んでもらうためなんだ」


 ある意味、これ以上ないほど合理的なやり方だ。


 目の前にいる人間が、一度死んで蘇ったなど、誰が思うだろう。その人間が一般的な死に方をすれば、怪異によって死んだなど決して疑う筈もない。仮に誰かがその死を見て、蘇ったものがおかしなものに殺されたと叫んでも、頭がおかしいと思われるだけだ。


 だが、幾ら怪異を隠すためとはいえ、そんな非道な方法認められるわけがなかった。


「そんな、そんなことってあるかよ! じゃあなにか? 先輩はお前らの都合で、もう一回死ぬために生き返ったってのかよ! ふざけんな! だったら、だったらなんだったんだ! 俺が今まで視てきたものは! 俺が今日まで、死相を持った人間を視て、なんとかしてやりたいって、死なせたくないって思ったのは何だったんだよ! あいつらはこれから死ぬんじゃない! もう死んだ人間だったんじゃないか! なら兄貴だってもう!」


 感情を叩き付けるように綾人を突き飛ばした。綾人は尻餅をつき、俯いた。返す言葉が見つからないらしかった。蓮司も、これ以上は言葉が出て来なかった。どうしたら良いかわからない。この数日間はすべて無駄だった。どうして一条たちが怪異の詳しい内容を話さなかったかわかった。こうなると知っていたからだ。もうどうしようもない結末だけが待っている。そのことに、酷い失望感だけを感じていた。


 だが、心はこんなに重いのに、まだ確かめたいことがあると、足は動き出した。


「何処行くの、蓮司君?」綾人が問いかけた。


「……先輩の所だ。ほんとうにお前の言う通りか確かめに行く」


 蓮司は緑を追って走り出した。もう一度、彼女が死ぬなんて認められるわけがなかった。


 背後からは、綾人の静止の声が聞こえた。だが蓮司は止まることなく夜の街を走り続けた。

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