ぎゅーってしてちゅー
今日も帰りが遅くなってしまった。
「おかえり結。お疲れ様。ご飯食べた?」
もう二十三時を回っているのに、定時帰りの時と同じように妻の照子が笑顔で迎えてくれる。
「ちょっとつまんだくらいかな」
「じゃあ、ちょっと食べる?」
「あ、いや、夜遅いし、やめておく」
「ん、判った」
照子の笑顔が一瞬翳ったような気がした。
せっかく夕食作って待っていたのに、と言われた気がして結は胸が痛んだ。
「ごめん。……ありがとう」
結は申し訳なさそうに侘びと礼を告げた。
「あら? どしたの? 別にいいんだよ。おかずは明日に回すし気にしなくても」
「あー、いや、うん。でも言っておきたくなったから」
こんなふうに思うのは、昨夜「例の部屋」であんなふうに「焚きつけられた」からだろうか、と結は苦笑した。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
昨夜は、いつもの部屋は盛況だった。まさに老若男女入り乱れ、といったところだ。
話題は「記念日」だった。
祝日や祭日に限らず、国や団体が定めたいろいろな「……の日」という記念日はそれこそ一年中ある、と誰かが言った。
「あたしんとこにも結構あるよ」
応えたのはミハイラという十代の少女だ。
短い黒髪にいかにも快活そうな表情の彼女は、ヴァンパイアハンターだという。服装も動きやすさを重視したもので、腰にナイフをぶら下げている。
ファンタジーな本や映画などでおなじみのヴァンパイアが実在するとは、いったいどんな世界なのだろう、と結は興味津々だ。
そんなことを考える彼もファンタジックな力の持ち主であるということを忘れているようだが。
「面白い記念日なんかは乗っちゃうけど、あたしはやっぱ、誕生日とかの方が重要かな」
そういえば、もうすぐ照子の誕生日だな、と結は考えた。
今年も平日なのでその日のうちに帰ることができたらきっちりとお祝いしたいところだ。
「そういえば、もうすぐ照子の誕生日じゃない?」
まるで心を読まれたかのようなタイミングで、ミハイラが話を振ってくる。
「え、あ、はい」
驚いた結は、相槌を打つしかできなかった。
「ちょっとぉ、結さぁん。クールキャラだって聞いてるけど、まさか誕生日のお祝いもしないとか? そんなんじゃ呆れられちゃうよ?」
そう言っているミハイラが一番呆れ顔だ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
『もっと愛してるって言うべきよ。帰ったら「照子愛してるー」って、ぎゅーって抱きしめてちゅーってして、それからぁ――』
――できるかっ。
思わず回想のミハイラにツッコミを入れた。結の頭の中のミハイラは、ぺろっと舌を出していたずらっぽく笑った。
まぁしかし、感謝を伝えるのはいいことだ。愛情表現が少ないと自覚もしている。ここはひとつ、きちんと伝えてみようかと結は人知れず決意を固めた。
「どうしたの結? 面白い顔して」
「えっ? ……あー、いつもありがとう照子。愛してるよ」
最後はしりすぼみになったが、きっちりと言えた、と結は照子を見た。さてどんな反応が返ってくるのか。
「結……、熱でもあるの? それともなにかやましいことでもあるの?」
照子は一瞬きょとんとした後に、結の額に手を伸ばしてきた。
あぁやっぱり、思っていた通りの反応だ。
「ないよ。おまえが愛情表現が足りないってよく言ってるから……」
「ふふっ、ありがと、結。うれしいよ」
照子がぎゅっとしがみついて、頬にキスしてきた。
『ぎゅーって抱きしめてちゅーってして――』
――いや、ないからっ。
人に焚きつけられたからなんてちょっと情けないし、と思いながらも、そっと照子を抱きしめる。
彼女の誕生日には、何が何でも早く帰ってくるぞとひそかに決意を固める結であった。
(了)
お借りしたキャラ:ミハイラ
出典作品:ぱらいそ・ヴァンパイア
https://kakuyomu.jp/works/1177354054884102677
作者様:千石綾子 様
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