古典のグリモアール
狂海
芥川龍之介「偸盗」その1
「おばば、猪熊のおばば」
朱雀小路の辻で、地味な紺の水干に烏帽子を掛けた醜い片目の侍が、平骨の扇を上げて、通り掛かりの老婆を呼び止めた。
蒸し暑く夏霞のたなびいた空が、息を潜めたように、家々の上を覆い被さった。七月の夏のある暑い日の話である。
あまりの暑さに蛇が腹を上げて、干からびてる。しかし、この真夏の空の下に、一滴の湿りらしきものがあれば、その干からびてる蛇の亡骸から上がる湯気だけだと言う。そういう暑い日の話である。
「おばば。」
「・・・。」
老婆はあわてて、振り向いた。
垢じみた帷子に、黄ばんだ髪の毛を垂らして、尻の切れたわら草履を引きずりながら、長い蛙股の杖をついた、目の丸い、口の大きな、どこか蛙の顔を思わせる、卑しげな女である。
「おや、太郎さんか」
と日の光にむせかえるような声でこう言うと、老婆は、杖を引きずりながら、上唇をぺろりとなめて見せた。
「なにか、用でもおありかな」
「別に、用でもないが」
片目は、強いて作ったらしい微笑を浮かべて、無理のある声で、快活に答えた。
「ただ、沙金がこのごろは、どうしてるかと思ってな」
「なんだい、用のあるのは、いつも娘ばかり。鳶が鷹を生んだおかげとは言え」と言いつつも、機嫌良さげににやついた。
「用と言うほどの用でもないが、今夜の手はずも聞いてないからな」
「集まるのは、羅生門。刻限は、亥の刻の上刻。みんないつもの通り。千古の昔から変わりないよ」と老婆と言うと、老婆は周りを見渡しつつ、小声でこう付け加えた。
「家内の様子は、娘が探ってきた。
侍の様子を見た限りでは、手強そうな奴はおるまいよ。
詳しい話は、また今晩、と言うことだろうが」
これを聞くと太郎と言われた男は、あざけるように、口をゆがめた。
「そうすると、沙金は、誰かの情負に成ったのか?」と太郎。
「なに、飯盛り女(手伝い女)にでも成ったらしいよ」と老婆。
「そんなの当てになるか」と太郎。
「相変わらず嫉妬深いね。
焼き餅焼きは、娘に嫌われるよ。」と老婆は、鼻先で笑った。
「そんなことじゃ、次郎さんに取られてしまうよ。
娘じゃなければそれでも良いが、お前さんのことだから、ただじゃすまさないだろう。」と老婆。
「よく、分かってるな」と太郎。
「分かりたくもない、が。
今でこそ、そう済ましてもいるが、娘とおじいさんの仲をかぎつけたときには、刃物を持ち出して、気が触れたようだったじゃないか。
じいさまが、もう少し若かったら、刃傷沙汰だわな」と老婆。
「それは、一年も昔の話じゃないか」と太郎。
「何年前でも、一度したことは二度する。二度したことは、三度する。
そう言うバカをする男は、ずっとそうなの。
わたしだって、この歳になるまで、何度、こうむったか」と老婆は、笑った。
「冗談じゃない、馬鹿は仕舞いだ。
それよりも、今晩のことだ。
相手は、曲がりなりにも藤判官(身分の高い武士)だからな」と太郎。
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