芥川龍之介「偸盗」その10
次郎が考え事をしてると境内から笑い声がした。
笑い声に混じって下品な冗談が混じったので、この頃の武士の習いで扇で顔を隠した。しかし、声に聞き覚えがあるような気がして、扇からそっと覗くと沙金であった。
沙金は、紫の衣を着て、市女笠に被衣を掛けてる。物腰も声も沙金のものだった。
武士は、梨打の烏帽子を掛けて、打ち出しの太刀を腰に差した三十ばかりの武士である。どうやら酒に酔ってるらしい。
次郎は、知らぬ振りで通り過ぎ、物陰から様子をうかがったが、二人は気が付くそぶりもない。
「じゃ、頼んだことを忘れちゃイヤですよ」と沙金。
「やけに念を押すね、大船に乗ったつもりで、まかせなさい」と侍。
「だって、私も命がけですもの。忘れたりしたら、死んじゃいますから」と沙金。
「俺も、これでも命がけさ」と武士は、指で沙金の頬を突っついた。
「上手く言ってるわ」と沙金。
二人は、しばらくじゃれあっていたが、しばらくして別れた。
別れてしばらくしてから、沙金は、次郎の方へ来た。
「今の奴は?」と次郎。
「籐判官のところの侍。焼き餅はいやよ。ここに掛けましょう」と沙金は、石段を指さしていった。市女笠脱ぎ座った。
沙金は、小柄な女であるが、手足の動かし方に猫を思わせる俊敏さがある。顔は、猫のごとく、野生と美しさが一つになった、と言うものであろうか?それで居て、眉の間が広く、いくらかの寛容さを思わせる美しくも不思議な人相をしていた。
「そして、お前の男なんだろう」と次郎。
沙金は首を振った。
「寝てなんかいやしないわ。
あいつの馬鹿ったらないのよ。なんでもこっちの言うことを聞いてくれるのよ。だから、何でもかんで教えてくれるから、寝る必要なんてないのよ。
さっきも『今度、うちに入った馬は、奥州の三歳馬だ』とか言ってたから。太郎さんに頼んで盗んでもらおうと思ってたの」と沙金
「兄貴もお前の言うことなら何でも聞いてくれるからね」と次郎。
「だから、焼き餅を焼かれるのは、私、大嫌い。
そりゃ、太郎さんも、最初は良い人だと思ったけれど、今じゃさっぱりよ。」と沙金
「そのうちに私のことも、そう言うんだろうね」と次郎。
「あら、怒ったの?そんな日は来ないわよ」と沙金は笑った。
「鬼だね」と次郎。
「その女鬼に惚れられたのが、お前様の運の尽きさね。」と沙金は楽しげに言った。
次郎は、むくれた。
「あら、怒ったのなら良いことを教えて上げる。」と沙金は顔を近づけた。薄化粧の良い香りが次郎の鼻をつく。
「私、さっき話してしまったのよ。
『籐判官の屋敷に盗賊が入りますよ』って『近くの路地で盗賊が噂話をしてるのを聞いた』って。だから、人を警戒が厳重になるわ。
太郎さんが入っても、きっと今度ばかりはどうしようもない」と沙金。
「どうして、そんな余計なことをしたんだ」と次郎。
「だって、あなたのためにしたことだもの。
これで太郎さんに馬を盗むように頼んで、太郎さんが死ねば、私たちは自由だもの」と沙金
「兄貴を殺すのか」と次郎は、冷水を浴びたような心持ちで言葉を絞り出した。
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