芥川龍之介「偸盗」その9

 猪熊のおばばと別れると、次郎は重い足取りで、寺の境内の階段を数えるように上った。


 なんで自分は、こう苦しまなければ成らないのか。

 たった一人の肉親は、親の仇の様に自分を憎んでる。

 話を聞いても無視するし、たまに返事があっても浮かない返事で話の腰を折ってしまう。


 それも自分と沙金のことが原因となれば、無理のないことであるが。

 自分は、あの女に会うたびに済まないと思ってる。

 一度などは、投獄に逃げてしまおうかとさえ思っていたが、その最後の挨拶のつもりで兄に会いに行ったら、例のつれない態度だった。そこで沙金に会いに行ったら、心が鈍ってしまった。


 しかし、兄には、この心の苦しみが分からない。

 ただ、一途に恋の仇だと思ってる。そう思われても良い。その手に掛かって殺されても良い。ただ、死んだ後で良いから、この心の苦しみを分かってもらえねば無念である。むしろ、ひと思いに死んだ方が、マシにも思える。


 自分は、沙金に恋をしてるが、憎んでもいる。

 すぐに他の男に肌を許し、時には、それを自慢げに語るからである。

 また絶えず嘘を付くし、自分や兄が躊躇う殺しも平気でやる。

 沙金の寝姿をみるたびに、この女になぜ恋をしたのかが分からない。他の男に肌を許した跡を見つけると首を絞めてしまいそうになる。

 しかし、どれだけ沙金を憎んでも目を見ると忘れてしまう。


 この憎しみは、兄には分かってないようだ。

 兄は、あの女の気まぐれは気まぐれとして、許してるらしい。

 自分は、そうは行かないのだが。

 自分は、兄にさえ嫉妬する。済まないと思いながら嫉妬する。


 この恋の問題は、二人の恋愛観の相違が原因なのではないか。

 


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