Phase 2 analog hack 2078 02
翌日。
彼女はいくつかの袋を抱え、地下への細い階段を降りる。
「おかえりなさい、オーナー」
「あ……ああ。ただいま……」
「オーナー、その袋は何ですか?」
訊かれ、シロガネは、持っていた袋の片方を手渡す。
「はい、これ」
彼女が渡した白いビニル製の袋には、小さくシンプルなロゴが入っていた。
シオンはそれを不思議そうな顔で受け取る。
「なんですかこれ?」
「……開けて」
彼女は袋の中を確認し、それからこちらを見た。
「あのオーナー、これって……」
「いつまでもその汚い服のままにもいかないでしょ」
彼女が買って来たのはhDE用の服だった。
hDEの服はヒト用のものよりも丈夫にできている。hDEは服の引っかかりを気にしないで動くから、ヒト用のものでは破いてしまうことがあるのだ。
その分、ヒト用のものに比べて値段も少し高い。
彼女が買って来たのは、少し安い中古品だ。《人類共同戦線》から支給される生活費は必要最低限だから、新品を買うほどの余裕はなかった。
「着てみてもいいですか?」
「当たり前。そのためにわざわざ買ったんだから」
「わかりました、オーナー。それでは少し失礼します」
そう言うと、シオンは手近な部屋に入って行った。着替えは二、三分程度で終わり、扉が開く。
「ど、どうでしょうか、オーナー……?」
シオンが上目遣いで訊ねた。
彼女が着ているのは白のブラウスと七分丈のジーンズ。シロガネが適当に選んだものだ。
だがそれを、彼女はとても自然に着こなしていた。元々、背が高くスタイルもいいので、なおさらよく似合う。
「ま、まあまあ似合ってるんじゃないかな……」
あまりにも彼女が綺麗だったせいか、なぜかシロガネは照れくさくなってしまった。視線を泳がせつつ、手のひらサイズの袋を手渡す。
「……これも付けて。髪、長いから邪魔でしょ」
袋には赤のヘアピンが入っていた。ささやかながら装飾もなされている。
シオンは手早く前髪を留め、微笑んだ。
「オーナー、ありがとうございます」
「……別にいいよ」
その笑顔を見てシロガネは、彼女が自分よりも人間らしいように思えた。少なくとも、彼女の方がうまく笑えている。
彼女の笑顔は眩しくて、まるで本当に感情があるかのようだった。
「それで、オーナー。その、もう1つの袋は?」
シオンが小首を傾げる。
袋には、サイボーグ用の人工食料が入っていた。
シロガネは袋の中身をシオンに見せる。
「……あんた、料理できるんでしょ」
「はい。基本的に、家事全般はまんべんなくこなせます」
「……だったら、作って」
「料理、ですか?」
「……うん」
ここ一年間、食事はほとんどコンビニ弁当で済ませていた。だから、どうせhDEがいるなら作ってもらってもいいような気がしたのだ。
「わかりました。それでは、何がいいですか?」
「何が……」
シロガネは考えようとして、しかしすぐに頭に思い浮かんだ。
「……カレー」
「カレーですか?」
「……うん」
シロガネはそれ以上言わなかった。
どうして食べたくなったのかはわからない。だけど、そう思った。
シオンは袋の中の食材を確認する。だが「えーっと」と言いづらそうに口を開いた。
「ルーがありませんけど、オーナー……ターメリックやシナモンは用意してありますか?」
「……ない」
すっかり失念していた。普段から料理はしないから、そういった類のものも備えていない。
「オーナー、どうしますか?」
「…………」
シロガネは再びジャケットを羽織った。
「……買ってくる」
「他のものならなんとか作れそうですが……」
「カレーがいい」
それ以外のものは食べる気がしなかった。
シロガネは階段を上って、さっさと外へと出かけてしまう。
「オーナー……?」
シオンはそれを呆けた顔で見送った。
***
1時間後、ようやくシロガネは戻って来た。昔よく使っていたカレールーがなかなか見つからず、探すのに手間取ってしまったからだ。
シロガネが帰ってくると、既にシオンは野菜類を切り終えて待っていた。それに加え、彼女の手際の良さのおかげで出来上がるまでにそう時間はかからなかった。
「オーナー、失礼します」
1人用の小さな机に、シオンがカレーの乗った皿を置く。いい香りが立ち昇っていた。
「……いただきます」
シロガネはスプーンを取り、ルーとご飯をすくって口に運んだ。
シオンがテーブルを挟んだ反対側に腰を下ろす。
「オーナー、どうですか?」
「……おいしい」
思わず呟いていた。
正直、あまり期待はしていなかった。
いくらhDEが料理できるとはいえ、薄味でまずいサイボーグ用食品を使って美味しい料理ができるわけがないと思っていた。
だがシオンが作ったのは紛れもないカレーだ。それも、あの日シロガネが食べたものと味も似ていた。
少し甘くて、食べた後に舌にざらつきが残る甘口カレー。久しぶりに食欲が湧いてくる。
「…………」
シロガネは黙々と食べた。スプーンを動かす手が止まらない。
半分を腹に入れたところで水を飲み、ようやく一息吐く。
「そんなに美味しそうな顔をして食べていると、私も作ってよかったと思います」
「……そんな顔してた」
「ええ、それはもう」
嬉しそうに彼女は言う。
そんな彼女を見ていると、シロガネまで嬉しいような気がした。
「……なんだか、懐かしい」
無意識のうちに、ぽつりと呟いていた。
「懐かしい、ですか?」
「……うん。食事が楽しいのも、すごい久しぶりな気がする」
普通の人にとっては、これが当たり前なのかもしれない。だけど彼女にとって、他の誰かと食卓を囲むことは1年ぶりの出来事だった。
ふと、彼女は昔のことを思い出した。
まだ彼女が幼いころ――10年近く前、家族で山にキャンプに行ったことがあった。そこで食べたカレーが忘れられなくて、それから彼女は事あるごとにカレーを食べていた。
だけどそれも、両親が死んでからは食べなくなった。記憶からも消えかけていた。
だからその味は、彼女の胸の思い出をえぐる。
「オーナー?」
「え……?」
シオンが不思議そうな表情でシロガネの顔を見つめていた。
「どうして泣いているんですか?」
「え……わたし、泣いて……」
目元を拭うと、うっすらと涙が出ていることがわかった。
「え……ちょっと、なんで……」
それがきっかけになったのか、
「オーナー、大丈夫ですか……?」
「だいっ、じょうぶだから……! 気にしな、くていいから……」
シロガネは再びスプーンを動かす。涙を飲み込むようにカレーを食べようとした。だけどその甘辛い味が、いっそう彼女を感傷的にさせた。
とうとう嗚咽が漏れ始めて、咀嚼もままならなくなる。
「オーナー……」
気が付くとシオンが、シロガネを抱きしめていた。
彼女の体温が、人工皮膚素材を通して伝わってくる。
「シオン……?」
「オーナーが何を感じているのかは、機械である私にはわかりません。でも、こうして一緒にいることはできます」
「……シオン」
それは悲しさではなかった。
胸を締め付けられるような寂寥感と、それから柔らかく包み込むような温かさ。
どちらも、とても久しぶりの感覚だ。
シロガネは思う。
彼女なら、自分を人間に戻せるのではないか、と。
ただの
思い返せば、シオンと出会ってからまだ2日だ。
だがシロガネにとって、この短い時間はとても濃密なものだった。
淡々と過ぎ去るモノクロの世界に、色が付いたようだった。
こうして胸に耳を当てても、彼女の心音は聞こえない。彼女はモノであり、道具だからだ。
だけど彼女の前でなら、シロガネは人間らしくいられる気がした。
感情や人間らしさはとても曖昧なものだけれど、それでもシロガネにはわかる。
「……シオン」
シロガネはスプーンを置いた。頭一つ分背が高いシオンにすがりつく。顔が子供のように、ぐしょぐしょに汚れていた。
「なんですか、オーナー」
シオンは子供をあやす母親のように、シロガネの声をやさしく聞く。
「……ううん、ただ呼んだだけ」
「そうですか」
「……そうだよ」
そう言ってシロガネは笑った。
とても、幸せな時間だった。
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