第4話

「怒っているわけじゃない。どこから覚えてないんだ」

「写真部の合宿をやりたいって俺に言ったこととか、ここに来るまでのこと……、あと魚の記憶もないみたいです」

「……そうか……」

 諸泉はなにかを考えているようで、目をあちこちに泳がせていた。その場は沈黙に包まれる。

 ふたりの会話をおとなしく聞いていた千仁だったが、ついに我慢できず、口を挟んでいた。


「あの、すみません」

「ん?」

 口を開いた千仁に、諸泉が首を傾げる。千仁は諸泉を見ていたのだが、同じくして政志も千仁を見ているようで、ふたりの視線がすこし痛かった。

「さっきから政志も言ってるんですけど、魚って何のことですか? 食べる魚じゃあないですよね」

 千仁の言葉に、諸泉と政志は互いの顔を見合わせる。何とも言えないふたりの反応に、千仁も口ごもるしかない。


 やがて動き出したのは、諸泉だった。諸泉は唸りながら立ち上がる。入り口へ目を向けたあと、千仁たちを振り返ってくる。

「まあ、口で説明するより見たほうが良いだろ」

「えっ、でも」

 諸泉はそう言うと、さっさと扉へ向かっていってしまった。政志は諸泉の考えについていけなかったようで、立ち上がりながらも困った声をあげている。

 そんな政志の反応を予測していたのか、ふりかえった諸泉はかすかに笑ったようだ。

「俺の後ろについてくれば大丈夫みたいだ。とりあえず、俺から離れるんじゃないぞ」

「……はい」

 諸泉の説明に、政志はようやく納得したらしい。観念したといった調子でうなずくと、千仁へと視線を向けた。その目が早くこいと言っている。

 やはり訳がわからないが、付いていくしかない。


 千仁はベッドから抜け出した。リノリウムの床にぺたりと足をつくと、床からぬるい温度がつたわってくる。そのままぺたぺたと入り口まで歩いていった。

 扉のまわりはわずかに段差ができていて、段差のところに靴が置かれていた。アクティブな行動をするときに履いているスニーカーだ。

 この靴でいこうと考えた記憶がやはりなくて、本当に自分が記憶をなくしてしまっていることを実感してしまう。


 ふたりはさきに、スチール製の扉をあけて外へと出ていた。千仁も追いつくべく、手早く靴をはいて外に出る。

 扉のむこうには、談話室や食堂、入り口へ行くことのできる廊下が広がっている。部屋と同じ色のリノリウムの床。近くの部屋の戸は、固く閉ざされたままだ。

 広々とした廊下だが、誰もいないのか、しんと静まりかえっているようだった。


「こっちだ」

 諸泉はそれだけ言うと、千仁に背を向けて歩き出した。

 千仁の近くにいた政志は、ちらりと千仁を見て、それから諸泉について歩いてゆく。千仁も置いていかれまいと、諸泉の背について歩いていった。

 先を歩く諸泉の背中は、なぜか薄く感じられた。

 体型はひょろひょろとした細さがあるので、薄いのは当たり前なのだが、それだけではないように思えるのだ。

 この感覚は、千仁が彼の授業を受けてからずっと感じていたものだ。


 薄いというよりも、どこか生気のない背中だと思っている。こうして足音を響かせて歩いて行くさまも、話をしているさまも、生きている人間そのものだ。

 それなのに、なぜそう思うのか。不思議でならないことだった。


 諸泉が向かっているのは、学寮の入り口付近のようだった。

 入ってすぐの場所は広々としたロビーになっていて、大勢で点呼を取ったり話をしたりすることができるのだ。

 階段を下りていくと、リノリウムの床が絨毯敷きの床へと変わる。足元が柔らかくなると同じく、視界がぱっと明るくなった。ロビーは窓も多く、廊下にくらべると明るい場所だ。


「先生」

 ロビーの中ほどにあるソファに、那智が座っていた。

 広い空間にひとりでいるので、どこか寂しそうにもみえる。諸泉たちの足音に気がついた那智は、眺めていたらしいスマートフォンから顔をあげていた。

 そのとき、ロビーの空気が動いたような気がした。いままで透明だったはずの空気に、色がついたような気がする。

 すこし水色がかったような、まるで水族館の水槽を覗いているような、そんな色だ。


 まるで水槽の中にいるみたいだ。そんなことを考えて、すぐにそれはおかしいということに気がつく。海は近くにあるけれど、ここは学寮のロビーであり、水槽の中であるわけがないのだ。

 ぱちぱちと瞬きしてみたが、それでも色が変わったような気はしなかった。どうしても、水槽の中にいるようにしか思えない。


 そのとき、不意に那智の横で、空気が揺れた気がした。まるで陽炎がたったような、そんな一瞬の出来事だ。

「ん?」

 那智も何かに気がついたのか、顔を横にむけていた。そこで那智の目が何かをとらえる。

 千仁にも、その何かは見えていた。

 それは、半透明のくらげのようなものだ。色のついた空中をふわふわと漂っている。

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