第4話

 * * *


 スマートフォンで送ったメッセージが読まれたことを確認して、千仁は寮室の扉を叩いていた。

 明け方すぎの廊下には、誰の姿もない。ひんやりとした夜明けの空気が、足元をさらっていくようだ。

 扉を叩いても、向こう側の反応は無かった。メッセージは既読になっているのに、扉を開けないとは何ということか。千仁はむっとしながら、ドアノブに手をかける。

 ドアノブには鍵が掛かっていることも考えていたが、触れてひねってみたところ、あっさりと開いていった。隙間から覗くことのできる部屋は、薄暗い。

「失礼しまーす」

 おそるおそる、千仁は部屋のなかへと足を踏み入れた。

 部屋のつくりは、千仁がいる部屋とほぼ同じだ。二段ベッドが両側の壁にそって並び、奥が絨毯敷きの共有スペースになっている。

 寮室にいるはずの政志は、絨毯敷きのスペースに腰を下ろしていた。

 あぐらをかいて、手にはスマートフォンを持っている。千仁が入ってきたことに気がつくと、あからさまに表情をこわばらせていた。

「おはようございまーっす」

「お前……、勝手に入ってくるなよ」

「はぁ? 既読付いてるのに居留守使うそっちが悪いんじゃないの?」

 政志の声は心底不機嫌そうだ。なぜ機嫌が悪くなるのか。むしろ、居留守を使われたこちらの方が怒るべきではないのだろうか。

 そんなことを考えているうちに、千仁もつられて苛立ちを覚えていた。苛立ちに任せて勢いよく歩いていく。リノリウムの床をべたべたと歩く足音は、荒く響いていた。

 絨毯敷きのスペースには、ローテーブルが置かれている。まるでおもちゃのような、白く塗られた小さなテーブルだ。

 テーブルの上には、ノートが数冊、そしてカメラが置かれていた。千仁とは違うメーカーの一眼レフカメラだ。

 千仁の首にも、一眼レフのカメラがさげられている。ずっしりとした重さを首に感じるのは、いつものことだ。

「……で、何しにきたの」

 政志はスマートフォンをテーブルの上に置いて、千仁へと向き直った。顔は不機嫌そうな表情を貼り付けたままだが、声はいつもの調子だ。

 すとんといつもの彼に戻ったことに毒気を抜かれたような気持ちになりながら、千仁は腰を下ろしていた。

「いや、ずっと閉じこもっているのも飽きてきちゃったし。それに私たち、一応合宿で来たわけじゃない。だから撮影にいこうと思って」

「……お前、自分の立場、わかってんのか?」

 千仁が目的を告げたとたん、政志が唸り声のような低さで告げる。

 政志が怒ることはわかっていたので、千仁は首をすくめるしかなかった。

「わかってるわよ。だからこうして、政志についてきてもらおうとしてるんじゃないの」

「いつもと何ひとつかわらないだろ……」

 政志はため息をついた。言われてみれば、千仁は何かをしようとするとき、いつだって政志を巻き込んでいるような気がする。だが今は気がついてはならない。

「そうかしら?」

「そうだろ」

「まあそうだとしても。ほら、政志だって撮影に行きたくなってるでしょ?」

 千仁はテーブルに置いてあるカメラを指さした。

 カメラを鞄から出したのは、単純に湿気をさけるためなのかもしれないが、政志の複雑な表情は、ただカメラを出したというものだけではないようだった。

 政志は黙ったまま、じっと千仁を見つめると、もう一度ため息をついていた。

「お前、自分の立場、わかってるのか」

 ため息をつきながらこぼれ落ちた言葉は、同じものだ。だが違うのは、呆れではなく怒りを含んでいるところだろう。

 政志は千仁に対してよく怒る。だが、今までの半ばじゃれるような怒りとは、少し違う気がした。

 本気の怒りというべき気配に、千仁は思わず正座をしてしまう。

「わかってるわよ」

 わかっている。

 学寮のあちこちで、半透明の魚が泳いでいることも。魚が千仁たちを襲ってくることも。記憶を奪われることも、そして千仁に奪われてしまった記憶があることも。

「だから……、来たのよ……だって怖いじゃない……」

 つい本音がこぼれ落ちてしまったのは、明け方すぎの薄暗い部屋だからだろうか。

 しんとした部屋に、千仁の声は思いのほか、響いていた。思わぬことに恥ずかしくなってうつむいてしまう。

 うつむいているさなか、政志の表情はうかがえない。だから政志が苦笑をこぼしたとき、どんな表情を浮かべて笑っているのか、わからなかった。

 彼がこぼした苦笑に、はじかれるように顔を上げる。

 顔を上げたときには、政志はふっと真顔になっていた。

「……なら、帰るか?」

 真剣な口調だった。

 笑うために言っている訳ではなく、心の底から千仁のことを心配して言っているのだろう。

 政志が言うことは、もっともなことだった。謎の半透明の魚が学寮のなかを泳いでいて、さらに千仁たちの記憶を喰うのであれば、ここから一刻もはやく立ち去ることが望ましいだろう。

 政志の言っていることは、正しい。

 薄暗いなか、千仁をまっすぐに見つめてくる政志の目は、強く輝いているように見える。何となく、彼のまなざしに負けたくなくて、千仁もじっと政志を見つめていた。

「……帰らない」

「どうして」

 政志の疑問は、当然のものだろう。だが、問いかけてくる政志の表情は、いつもと変わらないまっすぐさを持っていた。まるで、千仁がこう答えるということを分かっているような。

「だって、記憶をなくしたままっていうの、いやだもん」

 千仁の忘れてしまった、ここに来るまでの記憶。

 だいたいのことは政志が知っているようだったし、このまま帰るのが一番良い。それはわかっているが、それでも、記憶をなくしたまま帰るというのは、嫌だった。

 千仁の答えを聞いた政志は、ふっと小さく笑みをこぼした。

 薄暗いなかで見たせいか、いつもと違う顔に見えてどきりとしてしまう。

 政志はテーブルの上へ手を伸ばしていた。テーブルの上にあるカメラを手にすると、さっと立ち上がって入り口へと歩いていく。

 突然のことに、千仁はただ口を開いて見守ることしかできなかった。ドアに手を掛けた政志は振りかえって、口をひらく。

「どうした。行かないの?」

「へ?」

「撮影、行くんだろ」

 政志の言葉に、千仁ははじかれたように立ち上がる。

 そうだ。ここに来た本来の用事は、撮影に行くことなのだ。

 扉がひらくときの軋む音が、部屋のなかに響いていた。


 * *


 政志は半透明の魚を怖がってはいないようだった。

 千仁の前を歩く政志は、魚が出てもおそれることをせず、的確に魚に狙われないところへと避けていく。夜明けすぎの時間帯だからだろうか、魚の姿は少ない。

 ほどなくして、学寮の外へと抜け出した二人は、すぐ近くの砂浜へと歩いていった。夜明けまえの海近くは、かすかに冷たい風が吹き抜けている。

「……学寮から離れると、魚はいないんだな」

 政志が、あたりを見回しながらぽつりと呟いた。

 彼の言葉を受けてはじめて、千仁も魚の姿を見ないことに気がつく。学寮のなかに漂っていた、あの水のような色もついていないようだった。

 政志は千仁の答えをとくに求めてはいなかったのか、答えを待つことなく、すいすいと先に進んでいってしまう。黒のシャツをまとった背中が、いつもよりも広く見えた気がして、千仁は思わず足を止めていた。

 流れるように、首からさげていたカメラをかまえる。

 ファインダー越しに見えるのは、防波堤と、その横を歩く政志の背中だ。夜明けの影をまとった背中。

 気がつけば、シャッターを押していた。小さな電子音がひびく。

 一度シャッターを切ってからは、もう、写真を撮ることに夢中だった。何度か絞り値を変え、構図を変えながらも、政志の背を追い続けている。

 政志はずっと振り返らなかったが、しばらくして、ふと歩みを止め、千仁をふりかえってきた。

「千仁?」

 朝の日差しが、政志の顔を強く照らす。

 ぽつりと落とされた呟きは思ったよりも強く響いて、シャッターを押す指が止まった。

 千仁はそっとカメラをおろす。

「……何?」

「もう撮ってるの? 海、まだだけど」

 苦笑まじりに言われて、千仁は自分が何をしていたかということに気がついた。

 無心に政志の背中を撮っていた。そのことを口にするのが気恥ずかしくなり、頬が熱くなる。

 そんな千仁をどう思ったのだろう。政志はかすかに口の端を上げていた。どこか優しく見える笑みが、何かと重なったように感じられる。

 落としてしまった記憶に、そんな瞬間があったのだろうか。だとすれば、記憶をなくしてしまったことがもったいないように思えて仕方がなかった。

 千仁はもてあましている感情をどう扱えばいいのかわからず、ふいと顔をそむけていた。ごまかすように口をひらく。

「政志ってさ」

「ん?」

「魚、怖くないの?」

 気がつけば歩みを止めていた政志の横にならびながら、千仁は問いかけていた。政志は考え込むように、少しだけ顔を俯けている。

「んー、怖くないかな」

「なんで?」

「なんでって……、だって昔から見てるし」

「そうなの?」

 千仁は思わず声をあげていた。千仁もあの魚のような不思議なものはよく見るが、それでも魚は初めてだ。初めての、はずだ。

 意外そうな声をあげた千仁を、政志は口をとざして、じっと見つめてくる。

 彼の目にこめられた意味を千仁は理解していた。

 何か物言いたげな目線。政志は千仁に、何か言いたいことがあるのだ。

 何を言いたいのだろう。

 千仁は政志の言葉を待ってみるが、政志は何も語らないまま、再び歩きだしていた。

 こういうときの政志は、何をしても決して口を割ることはない。問い詰めたい気持ちもあったが、千仁は黙ったまま、政志の横にならんでいた。

 防波堤の横を歩いていくと、少しずつ波の音が大きくなってくるのがわかる。海が近いのだろう。

 波の音に耳をすませながら歩き続けると、ふいに防波堤の壁がわれ、階段があらわれた。向こう側へと下りられるようになっているのだ。

 階段をのぼっておりていくと、目の前には砂浜が広がっていた。足の裏に、砂を踏む感覚がある。砂浜の向こうには、夜明けの海が広がっている。

 海の向こうには、遠くの陸地、そして水平線が広がっていた。かすかに見える船影は、漁に出ていた船のものだろうか。

「何を撮る?」

 政志はカメラの画面をのぞきこみながら問いかけてくる。

 撮りたいものはたくさんあった。波打ち際の光景。夏の空。水平線。

「うーん」

 撮りたいものがいくつもあると、迷ってしまうものだ。ひとまず寄せてはかえす波から撮ろうと、カメラの設定を確認しながら歩いていく。

 波打ち際まで歩いていくと、より強く潮の香りが漂ってきた。ざざ、と押し寄せてくる波の音が大きく聞こえてくる。

 カメラをかまえてファインダーをのぞけば、見えるのは四角に切り取られた海だ。透明な波が白くにごりながら打ち寄せてくるさまを何度も切り取っていく。

 しばらく夢中でシャッターを切る。ふと手を止めたとき、隣からシャッター音が聞こえてきて、千仁はゆっくりと顔をあげる。

 いつのまにか政志がならんでいて、しゃがみこんで撮影を続けていた。

 やがて、千仁の視線に気が付くと、立ち上がってすこし照れたような目を向けてくる。

「朝だと、夏空の濃い色が撮れないな」

「うん、そうだね」

 ふいと顔をそむけた政志は、海の向こうをながめている。千仁もつられて、海の向こうを見やっていた。

 夜明けまえの海は、透きとおった水色のようなうつくしさだった。けれども、あの夏のような濃い青とはすこしちがう。

 きっと、政志が撮りたいのは、息が詰まるような青い夏の空なのだろう。

「お昼とか、午後とかじゃないと難しいかもね」

「そうだな……」

 午後になれば、あの息が詰まるような空の色が撮れるような気がした。運がよければ、夏らしい入道雲も撮れるかもしれない。

 千仁は、政志へと顔を向けていた。政志は変わらず、海の向こうを見つめている。まっすぐなまなざしは、写真を撮るときのものだ。

 好きなものを追うときの、遠くをみつめるまなざし。横から見ているだけでも、心をつかまれるような気持ちになる。

「また来る?」

 政志のまっすぐな目に引き込まれるように、千仁はぽつりとつぶやいていた。前を見ていた政志の目がふらふらとゆらいで、考え込むようにうつむく。

「うん……、どうしようかな」

「来ないの」

「そりゃあ……、でも昼間は魚がどれくらい出てくるか、わからないだろう」

「あー……」

 政志の言うことはもっともなことだ。朝は魚の数が少なかったが、昼も同じくらいの数だとは思えない。

 朝ぐらいの少なさであれば突破も簡単だが、あれ以上増えた状態で、魚たちのあいだをくぐりぬけ、外に出るだけの勇気はない。

「ま、魚の数によるな」

 政志はまなざしをやわらげて、軽くつぶやいた。それから思いついたようにカメラをかまえて、千仁の方を向く。

 大きな丸いレンズが、千仁をとらえていた。

「……何」

「ちょっと思いついた。横向いて」

「は? ちょっと嫌なんですけど」

「はいはい、さっき俺を撮っていただろ」

 政志のまっすぐな視線がファインダー越しに注がれるのが気恥ずかしい。おもわず避けてみるが、政志は聞く耳をもたなさそうだ。

 まっすぐに向けられるレンズに耐えきれなくて、ふいと横を向いてしまう。

 とたんにシャッターを切る音が聞こえてくる。なじみ深い音も、自分に向けられているかと思うと、やけに大きく聞こえるようだ。

 カメラに顔が映ることをさけるように、ぷいと横を向く。政志は気にした様子もなく、シャッターを切り続けているようだった。

 波の音に混ざって、シャッター音が聞こえてくる。

 普段、どちらかをモデルにすることは、少ない。そのせいだろうか、いつもなら飛んでくるだろう指示も、今日は飛んでこなかった。

 会話もなく、ただ写真を撮るだけのひととき。今の政志は何を思って、ファインダーをのぞいているのだろう。ひとたび気になり出せば、ずっと気になってしまう。

 ついに我慢できなくなって、千仁は政志をふりかえっていた。

 ふりかえったときに、一度シャッター音が鳴る。そこで政志はかまえていたカメラをそっとおろしていた。

 朝焼けの光を浴びて、政志の頬が輝きを帯びる。

 まぶしく見える政志の姿は、やはりいつもとは違うように思えて、千仁は黙ったまま、ただ政志を見つめることしかできなかった。

「帰るか」

 ぽつりと落とされた呟きに、千仁は我にかえった。政志は返事を待っている様子はなく、千仁に背を向けて歩き出してしまう。

 潮風にはためく黒のシャツ。ふわふわと揺れる、焦げ茶色の髪。

 日差しを受けて輝くそれを見ているうちになぜか切ない気持ちになって、ごまかすように、千仁はカメラをかまえていた。

 一枚だけ、防波堤へと向かっていく彼の背中をとらえる。

 一枚だけカメラにおさめると、カメラを下ろし、すぐに政志を追いかけていった。

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