第8話
* * *
水の流れ落ちる音がする。
誰もいない食堂横の調理室。夕暮れが近くなっているのか、あたりは少しずつ薄暗くなっている。ステンレス製のシンクからは、一定の間隔で水が流れ落ちていた。
那智は右腕をのばして、流れ落ちる水に腕をさらしていた。
はじめはぬるく感じていた水も、流しているうちに冷たく感じられる。さらに長い間さらしているせいで、右腕の感覚はなくなりつつあった。
水音だけが聞こえる調理室。ぼうと水をながめていると、廊下から駆け足で足音が聞こえてくる。
重い足音。それだけで誰が来たのか、わかってしまう。
「おい、那智」
調理室の入り口に顔をみせたのは、諸泉だった。千仁と政志は軽い足音だから、重い足音だけで諸泉ということがわかってしまう。
「先生……」
諸泉は急いでここまでやってきたのか、息を切らせていた。那智が何をしているのかに気がつくと、表情を険しくさせていた。
「やられたのか」
「ちょっとだけですよ」
水にさらされている右腕は、薄らと赤くなっていた。諸泉にはどこまで見えているのかわからない。だがさらに表情を険しくさせている。
「深追いはすんなって言っただろ」
「えへへ……」
確かに言われた。千仁、政志たちのまえに魚があらわれて追いかけようとなったとき、もう一匹の魚が那智たちのまえに現れたのだ。
どうするかと判断に迷ったふたりだが、はじめに動いたのは那智だった。諸泉の背を軽く押すと、那智は反対方向へ向かう。
那智の声を呼ぶ諸泉に、そっちに行ってほしいと後押しして、そして那智は魚を追ったのだ。
そのとき、たしかに諸泉は深追いをするなと言ったと思う。那智も深追いをするつもりはなかった。
だが予想をこえて、魚が那智へとせまってきたのだ。
ざざ、と水は流れ落ちている。耳にせまる水の音が、強くなった気がした。流れ落ちる水の音が、何かと重なったような気もする。
重なって聞こえたのは、そう、海の底に落ちていくときの、濁流の音。かすかに見えていたはずの視界は、真っ暗なものへと変わっていた。
何も見えない、動くことすらかなわない恐怖に包まれて――。
「那智?」
「……ッ」
諸泉の声に、闇へと沈んでいた視界はひといきに引き上げられていた。
今、目の前にいるのは諸泉だ。諸泉は、流れる水にさらされている那智の腕をつかんでいる。
これは現実だ。学寮での、夕暮れ前の光景だった。
では、たった今まで見えていたものは何だったのだろうか。問いの理由は答えずともわかっている。
あれは、那智が魚を見たときに流れ込んできたものだ。
暗い、海のなかに落ちていく映像。
あの映像が誰かの記憶だとして、誰の記憶ということかは、すぐにわかっていた。海に落ちる直前、諸泉のおびえた顔が見えたからだ。
あれはきっと、音田の記憶だろう。
那智の考えていることなどいざ知らず、諸泉は腕をひきあげ、しげしげと眺めていた。
「手当てするぞ。たしか食堂に救急箱を置いてたはず……」
諸泉はそれだけ言うと、調理室を出て行った。那智は近くに置いていたタオルで腕を拭い、後を追う。
食堂には、窓からの日差しが差し込んでいる。夕暮れどき、橙色の薄暗いひかりだ。
他にはテーブルと椅子だけの空間。その片隅で、諸泉はかがんで棚と向き合っていた。棚をあけては物をとりだし、目当てのものを探しているようだ。
那智はその場に佇んだまま、じっと諸泉の背を見つめていた。
どこか覇気のない、細い背中。今となってはようやく見慣れた背中だ。昔とは違う。
かつて音田が隣にいたときの諸泉は、こんな人ではなかった。
諸泉は、もっと存在感のある生命力にあふれた人だったように思う。ただ、人を遠ざけるようなところがあった。そんな、諸泉に対する近づきにくさを消していたのが、音田だった。
同期だからだろうか。ふたりは学内でも共に行動していることが多かったように思う。特に部活では、音田が体の良い荷物持ちだと諸泉を引き込んでから、諸泉もカメラに興味を持っていたように思うのだ。
あのとき、諸泉はどこか刃を思わせるような、鋭い雰囲気を背負っていた。そんな鋭さを丸くしていたのが、音田なのだ。
そんな彼が、存在感のない背中になってしまったのは、音田を失ってからだった。
「あった」
諸泉は探していたものを見つけたらしい。棚から何かをひっぱりだして、那智をふりかえってきた。
彼の手に抱えられていたのは、救急箱だ。まだ真新しいそれは、夕暮れ時の光を反射してぴかりと光っている。
諸泉は食堂のテーブルに救急箱を置くと、軽くテーブルを叩いてみせた。
「ほら、すわりなさい」
「……はい」
那智が腕に負った怪我は、手当てをされるまでのものではない。本当は断ってしまいたかったが、断ったところで、那智は強引に手当てをするようにも思えた。
那智はおとなしく椅子に腰かけ、腕をさしだす。諸泉は救急箱をあけ、目当ての薬を探しているようだった。
「……ところで、あの魚のやけどに、薬とか効くんでしょうか」
「……さあ」
那智が抱いた素朴な疑問をぶつけると、諸泉の動きがぴたりと止まった。食堂内に、沈黙がおとずれる。
諸泉はしばらく無言のまま固まっていたが、やがて、気を取り直したように動き出した。救急箱から軟膏を取り出して、塗り込んでいく。
「痛むか?」
「今はそれほど」
「……そうか」
諸泉はそれだけを呟いていたが、口元はすこし緩んでいる。那智の目から見ても傷はそれほどでもないので、安心したのだろう。
ごく間近に、諸泉の顔がある。すこし伏せられたまぶたの下には、うっすらと隈ができていた。
那智の記憶にとびこんできた諸泉の顔にも、隈はあったような気がする。ひどく憔悴して見えたのはたしかだ。
「……先生」
「ん」
「先生は、何に怯えていたんですか?」
那智の問いかけに、諸泉の手がぴたりと止まった。彼の表情がごく近くに見えるため、はっきりと驚きに彩られているのが見えてしまう。問いかけたことに少しだけ後悔していた。
「見たのか」
「……はい」
諸泉はよほど驚いたのか、しばらく固まっていた。あまり見ない表情なので、すこし珍しくも感じられる。だがすぐに、いつもの諸泉として唇をゆがめていた。
いつもの、と考えたところで、いつもの諸泉とは違うようにも見えることに気がついた。
彼は音田が死んでから、どこか影を背負っているようなところがあったが、今、目の前にいる彼はより暗い影を抱えているように見える。
こういうときは、あの日のことを思い出しているのだ。
「……魚だ」
「魚? 魚って、あの」
思わぬ答えに、那智はおうむ返しにしてしまう。那智の指が空中を指し、諸泉は苦く笑っていた。
「そうだ。言っただろ。あのときも、今ほどじゃあないが空を泳ぐ魚がいたんだ。もちろん学寮だけじゃない。あちこちでだ。俺はそんなに見たことはないが」
見たことはあるか、と聞かれて、那智はゆるく首を横にふっていた。
那智も今まで、この世ならざるものを見たことはある。だがそこに空を泳ぐ魚はなかったはずだ。
かすかに、那智の手をつかむ諸泉の指の力が強くなる。
「あのときも、魚は泳いでいた。俺以外に気がつく奴はいなかったから、魚は俺を狙っていたんだと思う」
「俺もいたはずなのに……なんで、俺には……」
那智はぽつりとこぼしていた。
まだ音田が生きていたあの夏の日、那智も写真部の合宿にいたはずだった。だが那智には、魚を見た覚えがない。
それだけではない。魚を見た覚えもなければ、合宿中、諸泉と会話をした記憶すらない。まったく顔を合わせていなかったのだろうか。そこまで考えて、とある可能性に至る。
「もしかして……」
気がつかないうちに、自分も魚に記憶を喰われてしまっているのだろうか。
そんな、声にならない那智の叫びを諸泉は汲みとったようだった。
「……那智が喰われたのは、その日じゃない」
「え?」
諸泉の思わぬ言葉。那智は聞き返すが、諸泉はゆるく首を横に振ったまま、何も語らない。これ以上は何を聞いても語らないだろう。那智はあきらめるしかなかった。
諸泉は遠くを見つめながら、ぽつりと呟いていた。
「俺はあのとき熱を出していたから、お前達とは離れていたんだ。魚が襲ってきたのは、そのときだ」
「そういえば……」
諸泉の言葉に、よみがえる記憶があった。
音田が事故で亡くなったあの夏の合宿。諸泉はいつもより覇気がなかったのだ。
学寮に着くまでの道すがら、那智は諸泉と何度か会話をしていたと思う。いつもなら諸泉は快活な態度で、那智と接してくれるはずだった。だがあのとき、諸泉は言葉すくなにかえしてくれるだけだったのではないだろうか。
あのときは朝も早かったので、眠かっただけなのではないかと思っていたのだが、本当はあのときから具合が悪いのではないだろうか。今になってようやく気がつくことだ。
そのあと、本当なら諸泉と音田がそろっているべき場面でも、諸泉は姿をあらわすことはなかった気がする。
合宿独特のうわついた気持ちがつよかったので、そこまで気がまわらなかったのだろう。
「いつもだったらもっとうまく立ち回ることができたんだと思う。だがあのときは、夏の暑さと、熱にやられて、どこかおかしかったんだ」
だから、魚が襲ってきたとき、なぜかとても怖くて。――怖くて。逃げ出したんだ。
諸泉は顔をうつむけて、そっとこぼしていた。彼の声はかすかにふるえているようで、那智はぐっと拳を握りしめている。
「俺が逃げ回っていることに、文貴もすぐに気が付いていた。あいつもこの世ならざるものが見えるからな。だが俺はあいつが宥めてくれた記憶を……なくした」
うつむいた諸泉の表情はうかがえない。
ただ表情を隠しているだけなのに、なぜか拒絶しているようにも感じられる。
「それからはきっとお前の見た通りだ。何もわからなくなった俺は逃げて逃げて……そして、すんでのところで……」
「せんせ……」
諸泉の声がはっきりとふるえていることがわかって、那智はおもわず彼の言葉を遮っていた。
那智にとって諸泉は不屈の強さをもつ先生だ。いつまでだって、卒業しても印象は変わらない。
だが今、那智の前にいる諸泉は、くっきりとした弱さを持つ男のようにみえた。
「先生、ごめん。こんなことを聞いて、ごめんなさい」
諸泉の手は、いつの間にか那智の腕からはなれていた。残された腕には、うっすらと赤いあとが残っている。
諸泉はゆっくりと首を横にふって、顔をあげていた。
その目は那智を見ているようで、何も映していないようにみえる。
「いや。巻き込んだのは俺だからな」
諸泉はかすかに笑う。音田が亡くなってから何度もみせる、どこかもろい笑顔。
この時の諸泉は、すべてを拒むのだ。
「だからな、これ以上は深追いするな。何かあれば俺を呼べ」
「せんせ……」
おもわず息が詰まりそうになる。那智は諸泉の名を呼びかけたが、それ以上に早く諸泉は口をひらいていた。
「深追いは、俺がする」
かすかに笑う諸泉は、夕暮れの弱いあかりに照らされていた。
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