第8話

「ッ、先生!」

 揺れた水面の正体を理解したとき、那智は椅子を蹴って立ちあがっていた。

 ゆら、と揺らいだ宙は、魚のすがたへと形を変えていく。

 那智が何を見つけたのか、諸泉にもわかったらしい。すぐに椅子から立ち上がり、後ろへと振りかえる。


 食堂のちょうど真ん中あたり、空気を切るようにして、魚は姿をあらわした。

 ずんぐりとした胴体。背びれまわりの色が濃いので、もしかすると、シャチなのかもしれない。

 魚はゆうゆうと食堂の無機質な明かりの下を泳いでいく。蛍光灯の下を泳ぐたびに、背びれに光が反射しているようにも見えた。


「那智、目を合わせるな」

 諸泉の冷静な声が飛んできた。だが、声は少し遅かったのだ。

 諸泉が叫ぶ前、那智は魚と目をあわせてしまっていた。

 まともに異形のものと目をあわせてしまったからか、それとも「魚」と目をあわせてしまったからか。那智の足は金縛りにあったように動かなくなってしまった。


「おい那智、はやく!」

「……、ッ」

 諸泉は那智のまえに出て、かばう姿勢をとっていた。薄い背中を前にして、ようやくこわばっていた身体が動きだす。

「っ、せんせいっ」

 諸泉は、自身の身体をもって魚を止めるつもりなのだ。捨て身の行動をまえに、那智にできたことは、ただ諸泉の腕を引くことだけだった。


 半透明のシャチはいつの間にか目前にせまっていて、ゆっくりと顎がひらかれていくのがわかる。

 諸泉はシャチの動きを止めようと、右手を前にかざしていた。ぐっと掌がシャチの顎をおさえたらしく、ひらかれはじめていた顎の動きが止まっていた。

「うっ……」

 那智のまえで、うめき声が低く上がる。同じ時に、じゅう、と肉が焦げるような音が部屋のなかに響きわたった。


「先生っ!」

 諸泉の身体が、一歩うしろに下がる。ごく近くから、小さな鈴の音が、しゃらりと涼やかな音を立てた。諸泉が何か音の鳴るものを持っているのかもしれない。

 那智は諸泉が倒れないよう、背中をおさえる。

 交代しようと思うものの、諸泉は足を踏ん張って立っており、立ち退く気配がない。何もできない歯がゆさに、唇をかみしめることしかできないのだ。


 このままだと、先生の身が危ない。那智の手が、おそれに震えたときだった。

 今まで那智たちに向かっていた魚が、不意に向きを変えた。反動でよろめいた諸泉から、ふたたび鈴の音が鳴る。

「ん……?」

 那智たちが呆気にとられる前で、こちらに尾を向けた魚は、勢いをつけて泳いでいった。半透明ということもあって、姿はすぐに薄れ、そして見えなくなっていく。

 あとに残されたのは、なまぬるい夏の夜の空気と、呆然としている諸泉の姿だけだった。


 しばらく、那智は宙をぼうと眺めていた。

 時間をあけても新たな魚が来ることはなさそうだ。ただ静寂が広がるだけの空間をまえにして、ようやく固まっていた足が動き出した。


「せ、先生! 大丈夫ですか!」

「うーん、ちょっとやばいかも……」

 那智は強引に諸泉の腕を引いて、掌を広げさせる。

 ひらかれた掌は赤く腫れていた。水ぶくれなどは無かったが、重傷に見える。掌は赤かったが、伝わってくる温度は低かった。

「とにかく、冷やしたほうが良いですよ」

 那智には心配していたのに、自身のこととなると動きが鈍くなっているようだ。那智はぼんやりと突っ立ったままの諸泉の背を押して、調理室へと向かう。


 調理室の水道を勢いよくひねって、流水に諸泉の手を触れさせる。冷たい水を浴びて、どこかぼんやりしたままの諸泉が動きだした。

「つめて」

「冷たくしてるんですから」

「ああ……」

 諸泉は冷たい水を浴びつづける手をしばらくながめていた。それから、思い出したように顔をあげる。

「さっき、魚に触れたとき……、変な感じだった」

「変な感じ?」

 諸泉は流水を流したままの手を開いては閉じ、開いては閉じている。


「こう、何かをつかんだような感じがしたんだ。魚に触れているというよりは、熱い何かに触れているような……」

 諸泉の言葉は、水音に溶けて消えていった。それきり先は何も口にせず、じっと記憶をたどっているようである。

 魚には那智も触れていた。ほんの一瞬だったが、熱いと思った感触もある。だが、何かに触れた感触があったかと聞かれると、自信はなかった。

「もしかすると、あれが記憶なのかもしれない……」

 諸泉がぽつりと呟いた言葉は、ふたたび水音にかきけされていく。

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