第9話
* * *
真夏の夜は、いまだに蒸し暑さをはらんでいる。
学寮のなかにいても、暑さから逃れることはかなわないようだった。廊下には冷房などないからかもしれない。
千仁が廊下を歩くたび、額には汗がにじみ出てきていた。昼間は陽の光が差し込んできた廊下も、いまは蛍光灯の光が弱々しく照らしだすだけだ。
千仁は、食堂へともどっているところだった。食事を終えたのち、いったんは食堂から離れていたのだが、忘れ物があったことに気がついたのだ。
学寮のあちこちに記憶を喰う魚が出没するので、部屋の外へ出るのは一抹の怖さがある。それでも食堂は、他の場所ほど魚が現れないこともあって、いっときの憩いの場ともなっていた。
もう誰の姿もないと思っていた食堂には、電気がついていた。
誰かいるのだろうか。部屋のなかをのぞいてみると、そこには諸泉の姿がある。
彼は食堂の席に腰かけて、ぼんやりとしているようだった。傍らにはカメラが置かれているので、一度部屋に戻ったらしいことは、なんとなくわかる。
諸泉は、千仁が立てた足音に気がついたようだった。ゆらりと彼の顔があがる。
「……どうした?」
ひとりか、とたずねてくるのに、千仁はひとつうなずいてみせた。
「座っても?」
「あ? 良いけど」
千仁の申し出に、諸泉はぽかりと口をひらいている。意外に思ったのだろうか。
千仁も諸泉に対して同じことを思っていたので、座ると同時に口をひらく。
「意外ですね」
「何がだ」
「先生がひとりなの」
千仁の問いかけに、諸泉は目を見開いていた。もしかすると、自覚がなかったのだろうか。
「ここに来てから、だいたい那智さんと一緒じゃないですか。てっきり、危ないから一緒に行動しているものかと思ってましたけど」
「いや……それは……たぶん向こうが気にしてるんだな……」
諸泉は遠くを見つめて、ぼそりと口にしていた。
諸泉は危うさをもつ教師だが、ここに来てからより一層危うさが増しつつある。
そのせいだろう、諸泉がふらふらとひとりで学寮のなかをさまよっていたりしたら、すぐにでも那智が飛んできそうだ。それくらい、ふたりは共に行動していた。
那智はいつもはどこか気怠そうな態度でいることが多く、誰かの面倒をみるよりかは面倒を見られるタイプだ。写真部ではOBとして面倒を見てくれているが、教えることに関してのやる気はあまり感じられない。
だが、学寮に来てからはいつも諸泉や千仁たちを気にかけ、面倒を見ていることが多い。
どうしてそこまで入れ込むのか、ということは聞いていないのだが、聞いていなくても、なにか強い思いがあることはうかがえるのだ。
そんな那智が諸泉と一緒に行動をしていない。これは二人の間に何かがあったことだけはたしかに分かることだった。
「何か……あったんですか?」
「わかるか」
千仁がおそるおそる問いかけると、諸泉はかすかに苦笑してみせる。苦い笑みはどこか力がなく、やはり何かがあったのだという思いを強くするしかない。
もし、諸泉がいつもと同じであろうと装っていたとしても、千仁にはきっとわかっただろう。だって、諸泉の背中を見てから今まで、ずっと諸泉のことばかり追っていたから。
諸泉はかたわらのカメラに目を落とすと、わずかに眉尻をさげていた。
「まあ何かはあったな。……今は反省中だ」
「反省? 先生でも反省することなんて、あるんですね」
「失礼だな。俺にだって反省することぐらいはあるさ。何せ今回迷惑をかけているのは、俺のせいでもあるからな」
軽く口にしているようだが、俺のせい、と告げる言葉が、どこか沈んで聞こえる。諸泉の言葉はいつも落ち着いた、水底のような色を持つが、今日は夜の海のような深さを感じさせた。
諸泉の言葉に、ふと昼間、魚にふれたときに見た記憶のことを思い出した。
怯えたような諸泉の表情。なにかから逃げている姿。
なぜ諸泉の姿が見えたのかはわからないが、おそらくあれは音田の記憶だ。これほどまでに声が沈んでいるように感じられるのも、あの記憶が関わっているのだろう。
諸泉のことを知りたいと思っていた。ずっと、ずっと。
なぜ、こんなにも存在感がないのか。生気のない背を千仁たちにみせるのか。
聞くなら今しかないだろう。この記憶のことを問いかければ、きっと諸泉は答えてくれるはずだ。
それなのに、聞くのが怖かった。いつもなら真っ先に聞くことなのに、肝心のところで声が出ない。
きっと聞けば、先生を傷つけてしまう。それがわかっているからかもしれない。
誰かのことが気になるということは、こういうことなのだろうか。
「先生……」
「ん?」
「……カメラがありますけど、何か撮ってたんですか?」
聞こうとしていた言葉は、別のものへと変わってしまった。諸泉はああ、とうなずきながら、かたわらのカメラを引き寄せる。
「魚が撮れるかと思ってな、探してみたんだが……こういうときは現れないんだよなあ」
ボタンに触れて、モニターに撮影した画像を表示していく。映し出される画像は、どれも見慣れた学寮のなかだった。
廊下からロビーを撮影したもの、寮室をつなぐ廊下、階段のうえ。魚を映し出すためだろうか、露出をプラスにしたりマイナスにしたりと、明るさを変えて撮っているようだ。
明るさが今と違うからだろうか、それともモニター越しだからだろうか。切り取られた一瞬は、全く別のものに見えた。
「この廊下は、魚がいたと思うんだが、写ってないな。やっぱりだめか……まるであいつみたいだな」
「……音田先生のことですか」
諸泉は、苦く笑ったまま、カメラを一度強くにぎりしめる。
「ああ。あいつは俺よりもずっと熱心だったよ。このカメラも、文貴のものなんだ」
「そうなんですか……いつも持ってますよね」
写真部での活動のときは、それぞれ自分のカメラを持っている。だがそれとは別に、写真部の部室にも、いくつかカメラが保管されていた。
諸泉が使うのは写真部としてのカメラがほとんどだ。だからこそ、てっきり諸泉自身のものだと思っていたのだが、音田のものとは知らなかった。
諸泉のことを知れば知るほど、彼が底知れぬ暗がりのなかにいることがわかって、言葉に詰まってしまう。
千仁はいつだって先走ってしまうから、こういうときにどうしたらいいのか、分からないのだ。
「よく知ってるな」
「そりゃあ、そうですよ」
だっていつも見ていますから。心の奥底にしまい込んだ言葉は、ふわりとほどけて消えていってしまう。
このままではいけない。心の奥底から焦りが浮かび上がるばかりで、思わず拳をにぎりしめる。
そんな千仁の気持ちなどいざ知らず、諸泉はおだやかな笑みをたたえている。
「そうか。野内も熱心に勉強してるもんなぁ。こっちでは写真、撮れてるか? こんな状況じゃ、なかなか難しいと思うが……」
何か撮れたものはあるか、と問いかけてくる諸泉は、いつもの教師としての目をしている。弱いものを抱えているだろう表情は、すっかり鳴りをひそめていた。
「……撮れてないです」
千仁は苦い気持ちで否定する。諸泉はすこし残念そうな顔をしていた。
「そうか。まあこんな事が起きちまってるし、仕方がないことなのかもしれないな。もし撮りたいものがあれば、遠慮せずに声を掛けろよ」
諸泉の声は穏やかなものだった。そこには水底のような暗さなど欠片も見られない。教師としての諸泉の声を聞くたび、自分に対するもどかしさで焦りそうになる。
彼にそんなことを言わせるつもりはない。そうではないのだ。
「ちがう」
「ん?」
「違うんです」
思っていることが、反射的に口をついて出てしまった。諸泉が怪訝な顔になるが、口をついて出てしまったことは、もう取り返せない。
でも、言いたいことはあったのだ。千仁は身をのりだしてみせる。
「私も心配なんです。ずっと見ていたから」
「……野内」
「だって先生、ここに来てから、ずっと苦しそうなんです。私たちでも何か手伝えることがあればっ」
千仁の言葉は、諸泉がゆるく首を振ったことで途絶えていた。
「大丈夫だ。気持ちだけもらっておくわ」
諸泉は、どこかに視線を向けたのち、すこしだけ微笑んでいた。
嬉しそうにも、どこか寂しそうにもみえる笑みだ。
「先生……」
「お前は、お前のことだけを考えればいい。記憶はもどったと聞いたが、身体は本当になんともないのか」
先生が優しくしてくれるのは嬉しいことだった。けれども、優しくされるだけ、教師として接してくれているのがわかって、辛くなってしまう。
辛くても、それをぶつけることは間違っている。千仁はうつむきながら、おそるおそる口をひらいた。
「先生……、先生は、消えないですよね」
「……、……当たり前だろ」
諸泉の口調は、ひどくやさしい。
どこか粗野なところがある彼だからこそ、つくっているということが分かってしまう、声色だった。
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