第9話

 スマートフォンで送ったメッセージが読まれたことをたしかめて、千仁は寮室の扉を叩いていた。

 明け方すぎの廊下には、誰の姿もない。ひんやりとした夜明けの空気が、足元をさらっていくようだ。

 扉を叩いても、向こう側の反応は無かった。メッセージは既読になっているのに、扉を開けないとは何ということか。千仁はむっとしながら、ドアノブに手をかける。

 ドアノブは鍵が掛かっているかと思ったが、触れてひねってみたところ、あっさりと開いていった。隙間から覗くことのできる部屋は、薄暗い。


「失礼しまーす」

 おそるおそる、千仁は部屋のなかへと足を踏み入れた。

 部屋のなかは、千仁がいる部屋とほぼ同じだ。二段ベッドが両側の壁にそって並び、奥が絨毯敷きの共有スペースになっている。

 寮室にいるはずの政志は、絨毯敷きのスペースに腰を下ろしていた。

 あぐらをかいて、手にはスマートフォンを持っている。千仁が入ってきたことに気がつくと、あからさまに表情をこわばらせていた。


「おはようございまーっす」

「お前……、勝手に入ってくんなよ」

「はぁ? 既読付いてるのに居留守使うそっちが悪いんじゃないの?」


 政志の声は心底不機嫌そうだ。なぜ機嫌が悪くなるのか。むしろ、居留守を使われたこちらの方が怒るべきではないのだろうか。

 次第に千仁も苛立ちを覚えていた。苛立ちに任せて勢いよく歩いていく。リノリウムの床をべたべたと歩く足音は、荒く響いていた。

 絨毯敷きのスペースには、ローテーブルが置かれていた。まるでおもちゃのような、白く塗られたテーブルだ。

 テーブルの上には、ノートが数冊、そしてカメラが置かれていた。千仁とは違うメーカーの一眼レフだ。

 千仁の首にも、一眼レフのカメラが提げられている。ずっしりとした重さを首に感じるのは、いつものことだ。


「……で、何しにきたの」

 政志はスマートフォンをテーブルの上に置いて、千仁へと向き直った。顔には不機嫌そうな表情を貼り付けたままだが、声はいつもの調子だ。

 すとんといつもの彼に戻ったことに毒気を抜かれた気分になる。千仁はすっと腰を下ろしていた。


「いや、ずっと閉じこもっているのも飽きてきちゃったし。それに私たち、一応合宿で来たわけじゃない。だから撮影にいこうと思って」

「……お前、自分の立場、わかってんのか?」

 千仁が目的を告げたとたん、政志が唸り声のような低さで告げる。

 政志が怒ることはわかっていたので、千仁は首をすくめるしかなかった。


「わかってるわよ。だからこうして、政志についてきてもらおうとしてるんじゃないの」

「いつもと何ひとつかわらないだろ……」

 政志はため息をついた。言われてみれば、千仁は何かをしようとするとき、いつだって政志を巻き込んでいるような気がする。だが今は気がついてはならない。

 

「そうかしら?」

「そうだろ」

「まあそうだとしても。ほら、政志だって撮影に行きたくなってるでしょ?」

 千仁はテーブルに置いてあるカメラを指さした。

 カメラを鞄から出したのは、単純に湿気をさけるためなのかもしれないが、政志の複雑な表情は、ただカメラを出したというものだけではないようだった。


 政志は黙ったまま、じっと千仁を見つめると、もう一度ため息をついていた。

「お前、自分の立場、わかってるのか」

 ため息をつきながらこぼれ落ちた言葉は、同じものだ。だが違うのは、呆れではなく怒りを含んでいるところだろう。

 政志はよく怒る。だが、今までの半ばじゃれるような怒りとは、少し違う気がした。

 本気の怒りというべき気配に、千仁は思わず正座をしてしまう。


「わかってるわよ」

 わかっている。

 学寮のあちこちで、半透明の魚が泳いでいることも。魚が千仁たちを襲ってくることも。記憶を奪われることも、そして千仁に奪われてしまった記憶があることも。


「だから……、来たのよ……だって怖いじゃない……」

 つい本音がこぼれ落ちてしまったのは、明け方すぎの薄暗い部屋だからだろうか。

 しんとした部屋に、千仁の声は思いのほか、響いていた。思わぬことに恥ずかしくなってうつむいてしまう。

 うつむいているさなか、政志の表情はうかがえない。だから政志が苦笑をこぼしたとき、どんな表情を浮かべて笑っているのか、わからなかった。

 彼がこぼした苦笑に、はじかれるように顔を上げる。

 だが顔を上げたときには、政志はふっと真顔になっていた。


「……なら、帰るか?」

 真剣な口調だった。

 笑うために言っている訳ではなく、心の底から千仁のことを心配して言っているのだろう。

 政志が言うことは、もっともなことだった。

 

 謎の半透明の魚が学寮のなかを泳いでいて、さらに千仁たちの記憶を喰うのであれば、ここから一刻もはやく立ち去ることが望ましいだろう。

 政志の言っていることは、正しい。

 薄暗いなか、千仁をまっすぐに見つめてくる政志の目は、強く輝いているように見える。何となく、彼のまなざしに負けたくなくて、千仁もじっと政志を見つめていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます