第10話

「……帰らない」

「どうして」

 政志の疑問は、当然のものだろう。だが、問いかけてくる政志の顔は、いつもと同じだった。まるで、千仁がこう答えるということを分かっているような。


「だって、記憶をなくしたままっていうの、いやだもん」

 千仁の忘れてしまった、ここに来るまでの記憶。

 だいたいのことは政志が知っているようだったし、このまま帰るのが一番良い。それはわかっているが、それでも、記憶をなくしたまま帰るというのは、嫌だった。

 千仁の答えを聞いた政志は、ふっと小さく笑っていた。

 薄暗いなかで見たせいか、いつもと違う顔に見えてどきりとしてしまう。


 政志はテーブルの上へ手を伸ばしていた。テーブルの上にあるカメラを手にすると、さっと立ち上がって入り口へと歩いていく。

 突然のことに、ただ口を開いて見守っていただけの千仁に、ドアに手を掛けた政志は振りかえって、口をひらいていた。


「どうした。行かないの?」

「へ?」

「撮影、行くんだろ」

 政志の言葉に、千仁は弾かれたように立ち上がる。

 そうだ。ここに来た本来の用事は、撮影に行くことなのだ。

 扉がひらくときの軋む音が、部屋のなかに響いていた。



 * *



 政志は半透明の魚を怖がってはいないようだった。

 千仁の前を歩く政志は、遠くに魚が出てもおそれることをせず、的確に魚に狙われないところへと避けていく。夜明けすぎの時間帯だからだろうか、魚の姿は少ない。


 ほどなくして、学寮の外へと抜け出した二人は、すぐ近くの砂浜へと歩いていった。夜明けまえ、かすかに冷たい風が吹き抜けている。

「……学寮の外には、魚はいないんだな」

 政志が、あたりを見回しながらぽつりと呟いた。

 彼の言葉を受けてはじめて、千仁も魚の姿を見ないことに気がつく。学寮のなかに漂っていた、あの水のような色もついていないようだった。


 政志は千仁の答えをとくに求めてはいなかったのか、答えを待つことなく、すいすいと先に進んでいってしまう。黒のシャツをまとった背中が、いつもよりも広く見えた気がして、千仁は思わず足を止めていた。

 流れるように、首からさげていたカメラをかまえる。

 ファインダー越しに見えるのは、防波堤と、その横を歩く政志の背中だ。夜明けの影をまとった背中。


 気がつけば、シャッターを押していた。小さな電子音がひびく。

 一度シャッターを切ってからは、もう、写真を撮ることに夢中だった。何度か絞り値を変え、構図を変えながらも、政志の背を追い続けている。

 政志はずっと振り返らなかったが、しばらくして、ふと歩みを止め、千仁をふりかえってきた。


「千仁?」

 朝の日差しが、政志の顔を強く照らす。

 ぽつりと落とされた呟きは思ったよりも強く響いて、シャッターを押す指が止まった。

 千仁はそっとカメラをおろす。


「……何?」

「もう撮ってるの? 海、まだだけど」

 苦笑まじりに言われて、千仁は自分が何をしていたかということに気がついた。

 無心に政志の背中を撮っていた。そのことを口にするのが気恥ずかしくなり、頬が熱くなる。

 そんな千仁をどう思ったのだろう。政志はかすかに口の端を上げていた。どこか優しく見える笑みが、何かと重なったように感じられる。

 落としてしまった記憶に、そんな瞬間があったのだろうか。だとすれば、それはとてももったいないように思えて仕方がなかった。


 千仁はもてあましている感情をどう扱えばいいのかわからず、ふいと顔をそむけていた。ごまかすように口をひらく。

「政志ってさ」

「ん?」

「魚、怖くないの?」

 気がつけば歩みを止めていた政志の横にならびながら、千仁は問いかけていた。政志は考え込むように、少しだけ顔を俯けている。


「んー、怖くないかな」

「なんで?」

「なんでって……、だって昔から見てるし」

「そうなの?」


 千仁は思わず声をあげていた。千仁もあの魚のような不思議なものはよく見るが、それでも魚は初めてだ。

 意外そうな声をあげた千仁を、政志は口をとざして、じっと見つめてくる。

 彼の目にこめられた意味を千仁は知っていた。

 何か物言いたげな目線。政志は千仁に、何か言いたいことがあるのだ。


 何を言いたいのだろう。

 千仁は政志の言葉を待ってみるが、政志は何も語らないまま、再び歩きだしていた。

 こういうときの政志は、何をしても決して口を割ることはない。問い詰めたい気持ちもかすかにあったが、すぐに思い直すと、千仁は黙ったまま、政志の横にならんでいた。


 防波堤の横を歩いていくと、少しずつ波の音が大きくなってくるのがわかる。海が近いのだろう。

 波の音に耳をすませながら歩き続けると、ふいに防波堤の壁がわれ、階段があらわれた。向こう側へと下りられるようになっているのだ。

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