第10話

 * * *


 諸泉と別れ、本来の目的を達成したころには、ずいぶんと時間が経ってしまっていた。

 蛍光灯が照らす廊下を足早に歩いていく。急いで戻ってこなすような用事はないのだけど、いつ魚が出るとも限らないのだ。

 食堂を出るまえ、諸泉はとても心配しているようだった。部屋まで送っていくとも言われたのだが、千仁は平気だと押し切って、探しものに励んだのだ。

 諸泉が送ってくれるのは、とても心強い。だけど、心強さよりも辛さのほうが上回っている。

(当たり前だろ)

 いまだに、ひどくやさしげな声が、脳裏にこびりついて離れないままだ。

 頭の中で再生された声を聞いて、千仁はくしゃりと顔をゆがめていた。再生するたび、胸の奥がじくじくと痛むような気がする。

 どこか疲れた心地で廊下を曲がろうとしたとき、ふと目にはいったものがあった。

 廊下の曲がり角、張り出したスペースはちょっとした休憩場所になっている。古びたソファとローテーブルが置かれ、奥には海を臨める大きな窓もある。

 そんな休憩スペースの窓の前に、政志が立っていた。

 視界にはいったのは、彼の後ろ姿だ。政志は窓のまえに佇んでいて、窓の外をながめているようだった。

「……政志?」

 千仁が声をかけると、政志がゆらりと振り返る。

 振り返った彼の表情は、一切の表情をそぎ落としたものだった。どこか思い詰めたようにも見える表情に、どきりとしてしまう。

 そこに立っているのは政志のはずなのに、政志でない、別の誰か――他人のように見えるのだ。

 政志は口をとざしたままだった。しんとした沈黙のなか、遠くから虫の音だけが聞こえてくる。千仁はこの場から立ち去りたい気持ちでいっぱいだったが、かろうじて踏みとどまった。

「政志? どうしたの?」

「……どうしたのって?」

 おそるおそる問いかけると、しごく不思議そうな返事がかえってくる。声だけはいつもの政志だが、表情が声についてこないのだ。いつもの彼のようで、いつもの彼ではない。

「……何か、……あったの……?」

 千仁は遠回りをして聞くことが苦手だ。おそれながらも直球の質問をぶつけると、政志の動きがぴたりと止まるのがわかった。

 政志はじっと千仁を見つめて、千仁からゆっくりと目をはずす。暗がりの光に包まれて、彼の表情は分からない。

「何もないよ」

 政志は目をそらしたまま、さらりとうそぶいていた。

 やはりおかしい。いつもの政志は、こんな風に目をそらすことはしない。いつだってまっすぐな彼は、考えていることだって、まっすぐにぶつけてくるのだ。

「嘘でしょ」

 千仁がたたみかけると、政志は今度こそ口をとざした。千仁の方を向いてくれることはなくて、つい、千仁は彼に近寄ってしまう。

「……政志?」

 千仁が名を呼ぶと、政志はようやく千仁をふりかえってくる。表情はどこか固いままだ。

「……、さっき……」

「ん?」

「先生と何を話してたんだ?」

 怖さを感じさせるほどの、真剣なまなざしで、政志は問いかけてくる。暗がりのなかに身体をひたしているからか、政志ではないように見えた。

 ときどき見せる、困ったように目を泳がせることも、千仁に振りまわされている政志も、そこにはいないのだ。

 背筋がひやりとする。

「何って……、音田先生のこととか……」

 じっと見つめられているからか、かえす言葉もしどろもどろになってしまう。後ろめたいことは言っていないけれど、政志には知られたくないような気持ちでもあった。

「そう……、あんな近くに寄ってたのに、それだけしか話してないの?」

 暗がりのなかでわらいながら、政志は一歩近づいてきた。千仁が距離を詰めていたせいもあるが、政志が一歩足を踏み込むと、ぐっと距離が近くなる。

 それでも、ふだん、政志と千仁が取る距離とはそれほど変わらないはずだ。

 諸泉とも同じくらいの距離、テーブルから手を伸ばせばすぐに相手に触れられるくらいの距離だったと思う。諸泉と話していたときは、互いの距離など気にならなかった。からだの距離よりも、こころの距離が遠いことを感じていたからかもしれない。

 けれども、こうして政志と向かい合っている今は、政志との距離の近さに、緊張してしまう。

 いつもと変わらないはずなのに、なぜなのだろう。

「それだけだよ……、ねぇ政志、どうしたの……?」

 千仁はおもわず後ろに一歩、下がっていた。胸の鼓動が速いことを悟られそうだったからだ。

 政志のことが、わからない。

 どうしてそんなに怖い顔をしているのか、そして政志が近づいてくることに緊張しているのか、わからないのだ。

 政志は千仁がおびえていることに気がついたのか、ちいさく笑ったようだった。

「どうしたって、……わからない?」

 政志の言葉が信じられない。政志は笑いながら、そんなことを言うような人ではないはずなのだ。

 ただ首を横にふる千仁に、政志は一歩近づいてくる。まるで千仁を追いつめるかのような動きだ。

 ぐっと近づいたところで、ふいに政志の笑いが引っ込んでいた。目を泳がせて、まるで困ったかのように、眉をひそめる。

「……先生のことはすぐわかるのに」

 政志はぽつりと呟くと、一歩、後ろへと下がった。一歩離れた政志は、また一歩下がり、少しずつ千仁から離れていく。

 弱々しい蛍光灯のした、政志の顔がやけに青白くみえた。

「ごめん、忘れて」

 政志はそれだけ言うと、千仁に背を向けて、自分に割り当てられた部屋へと消えていく。

 千仁はしばらく動くことができずに、ぼうっと政志の背を見ているだけだった。

 いつだって頼りになる背中。今日は千仁をはっきりと拒んでいるようにも見える。

 政志は、どうしてあんな態度を取るのだろう。ようやくまわりだした頭でじっと考えてみるが、答えは出ないままだ。

 ここに来るまでは諸泉のことでいっぱいだった気がするのに、今は、政志の表情が脳裏を埋め尽くしている。

 先生のことはすぐわかるのに、と言っていた。政志の言葉を思い返して、千仁はゆるく首を振った。

 誰のこともわからない。諸泉のことだって、政志のことだって、わからないままだ。

 どうして、あんなことを言ったのだろう。

 まるで別人のような政志の表情に、なぜか頬が熱くなるのを感じていた。


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