第11話
* * *
かすかに鼻に漂ってくるのは、珈琲のかおりだ。香ばしい匂いは、那智がぐっと傾けているコップから、漂ってくる。手のひらにはコップの温度が伝わってきて、ひやりと心地の良い冷たさだ。
珈琲のかおりは温かいものに比べれば、かすかなものだった。それでも、起き抜けの頭を醒ますには十分なものだ。
「那智」
コップから唇をはなした那智のそばに、諸泉が寄ってきた。
朝食を終えたらしく、手には皿を持っている。少しだけ気まずさを感じたが、諸泉の表情に、気まずさも消えていってしまう。
そう、気まずさを上回るほどの気になることが、二人にはあるのだ。
諸泉は那智が立つ、調理場のシンク近くまで歩いてくると、ちらりと食堂を見やる。
「おい……あれ、どういうことだ?」
「俺が知りたいです」
諸泉の問いかけに、那智は淡々とかえした。
那智たちの視線の向こう、食堂には、千仁と政志が座って朝食をとっている。それだけならいつもと変わらない光景だ。
だが、いつもと違うところは、ふたりの間に会話がまったく無いことだった。
普段だって、会話がないときぐらいはある。だがそれでもここまで沈黙が続いていることがあっただろうか。
何よりも、ふたりの席は離れているのだ。手前に千仁が座り、千仁からすこし離れたところに、政志が座っている。
ふたりは時折視線を向けているようなので、互いに意識しているらしいことはわかる。夕食時はこんなことは無かったはずなので、何かが起きたのはそれからだろう。
「喧嘩でもしたのか?」
諸泉は首をかしげながらも、水道に手をのばす。水を流すと、そのまま皿を洗いはじめた。奇妙な静けさを水道の水が破ってくれ、すこしだけ緊張がほどけていた。
「喧嘩だったら、もっと怒っているような気もしますけど」
「そうだよな……だとすると……、……どう思う?」
諸泉は、ふたりの間に何があったのか、わかっているけれど理解したくないという表情をありありとにじませている。
「先生、それ以上続けると、馬に蹴られますよ」
「おいやめろそれ以上は言うな」
諸泉は皿を落としそうになり、あわてて拾いあげた。
大方、かわいい教え子たちが互いのことを気にしているというシチュエーションに耐えられないのだろう。もしかすると千仁は無意識なのかもしれないが、政志など気持ちが丸見えだ。
さすがに諸泉だって気が付いているに違いない。気が付いているはずなのに、こういうところで慌てるのが、ついおかしくも感じてしまう。
落としかけた皿は、諸泉の手によって綺麗に洗われ、水切り籠に置かれていた。白い皿に窓から差し込む朝陽が反射して、白く輝いている。
朝陽を見つめながら、那智は気持ちを切り替えることにした。二人のことは気になるが、那智にできることはなさそうだ。
「今日は何をします?」
諸泉が何の仕事を引き受けてきたのか、那智はくわしいところを知らない。
ただわかることは、二人でさばくには随分と大量の仕事であることだった。四人で仕事をこなしても大変なのである。
そのため、今日もある程度話を聞いておこうと思ったのだが、諸泉は眼鏡の奥の目をさっとそらしたようだった。
いつもと違うことに、違和感を覚える。だがそれが何かを問いつめる前に、諸泉は口をひらいていた。
「……今日はそんなにやることはないな。洗濯も掃除もしちまったし……」
「……先生?」
「今日ぐらいは、合宿らしく過ごすか……まあ、そうは言ってもこの状況じゃ、なかなか気持ちが入らないかね」
「それは……そうですけど……」
穏やかな口調はいつものもので、話していることも教師らしいものだ。
だが、なぜだろう。どこか違和感を覚えてしまう。
どこだ。どこにおかしなところを感じるのだ。那智はできるだけ悟られないように気をつけながら、諸泉のようすをうかがっていた。
「まあでも、合宿らしい一日も過ごしておかないと、あいつらに悪いからなぁ」
どこなら安全だろうか、と考える諸泉を見て、那智はようやく違和感の原因をつかむことができた。
魚についての――強いては文貴についての話題が、欠片も出てこないのだ。いつもの諸泉なら、あれほど気にかけていた事なのだから、まっさきに口にするだろう。
顧問であるから敢えて話さないようにしているのかはわからない。那智が何をするのかと聞いたのがいけなかったのかもしれない。
那智は、おそるおそる問いかけてみる。
「音田先生のことは、どうするんですか。探します?」
那智の言葉に、諸泉はかすかに動きをとめる。すこし考えるように目が動いて、それからやんわりと否定してみせた。
「いや。こちらから探しにいかなくても、きっとあいつはやってくる。それを……待とうと思う。探しにいったところで、あいつが出てくるかは分からないしな」
「そう、ですね」
今度は、あきらかにおかしいと思った。確かに音田がこちらにやってくるのを待つということは、おかしいことではない。
だが、諸泉はただそれを待つような人ではないのだ。一体、何を考えているのだろう。先生は一体、どこに行くつもりなのだろう。
深く問い詰めたいが、問い詰めたところで、はぐらかされることはわかりきっている。
那智は本当のことをたずねたい気持ちをぐっとこらえて、拳を握りしめるほか、なかった。
* * *
見上げた空は、濃い青が広がっている。
学寮の向こうは海であり、空を遮る建物は何もない。
那智が歩く防波堤の向こうには、打ち寄せては返す波、そして遠くに緑がかった陸があるだけだ。陸の切れ目には灯台が建っているのがわかる。遮るものがないからこそ、真昼の日差しがじりじりと頭を焼いてくる。帽子を持ってくればよかったと思うも、あとの祭りだ。
那智は額からにじんできた汗を不快に思いながら、両手に握りしめていたコンビニの袋を握り直した。袋のなかには、スポーツドリンクと麦茶のペットボトルが入っている。暑いなかでの撮影なので、水分補給にと買い物に行っていたのだ。
防波堤をしばらく歩いていくと、豆粒のようだった人物が、次第に大きくなってくる。豆粒のように見えていたときから訝しく思っていたのだが、姿が大きくなってくるにつれて、那智は顔をしかめていた。
「あ、那智さん」
遠くで三脚をつかんでいた政志が、那智をみとめて手を振ってくる。
そこには今朝のぎこちなさは見られない。政志の傍らでしゃがみ込んでいる千仁は、防波堤を歩く猫を追うのに夢中であるようだった。
そしてそこには、買い物にいくときは確かにいたはずの、諸泉の姿が見当たらない。忽然と、夏空の下から消えてしまったように感じられた。
那智は政志のそばに寄ると、そっと買い物袋をおろす。重いものから解放された手が、じわじわと痺れていた。
「ありがとうございます」
政志は三脚から手をはなして、那智のそばにしゃがみ込んだ。スポーツドリンクを取り出して、政志に渡してやる。
政志はスポーツドリンクを受け取ると、すぐに蓋をあけて傾けていた。ごくりごくりと喉を鳴らして飲んでいる姿に、那智も喉がかわいた感覚に陥る。
那智もスポーツドリンクを手にとった。まだペットボトルは冷えていて、掌をじんわりと冷やしていく。
喉をうるおしたところで、那智は口をひらいた。
「先生はどこ行ったんだ?」
那智の問いかけに、政志も眉をひそめていた。どうやら政志も不審に思っているらしい。
「しばらくスマホ見てたんですけど、急な仕事が入ったからって、寮に戻っていきました……」
「急な仕事、ねぇ」
「……嘘だと思いますけど」
政志は学寮を見やりながら、ぽつりと呟いた。
つられて那智も学寮を振りかえる。
今日は魚の攻撃がなく、穏やかな夏の一日そのものだった。だからこそ写真部の合宿らしく、撮影ができているのである。
こうして外から見るかぎりでは、学寮に異変があるようには感じられなかった。どこにでもあるような研修施設である。
諸泉はあの学寮のなかにいるのだろうか。すこし考えてみたが、なんとなく違うような気がしていた。
那智は手にしていたペットボトルの蓋を強くしめていた。学寮をしばらく見つめたあと、政志たちをふりかえる。
「せっかくのところ、悪いけど……様子を見てきてもいいかな」
「もちろん」
この状況のなか、生徒であるふたりを残していくのは気がひける。それでも、どうしても諸泉のことが気になって仕方がないのだ。
那智のそんな想いを汲み取ってくれたのか、政志はこくりと頷いていた。彼の目をじっと見つめて、那智もうなずく。
「悪い。何かあったときには迎えにくるから、無理して動くんじゃないぞ」
「大丈夫ですよ」
「大丈夫じゃない。いいか、絶対だぞ。二人にまで何かあったら、さすがに困るからね」
政志は軽く受け流そうとするので、那智はぐっと近づいて念押ししていた。
政志もさすがの気迫に負けたらしく、こくりと頷いてくる。ようやく那智も安心できて、彼らから離れて歩き出した。
学寮に向かって歩きながらも、諸泉がどこにいるのかを考え続けていた。急な仕事が入ったというのが嘘なのは、那智も察していた。だとすると、学寮にはいないのかもしれない。
それならば、どこにいるのだろう。那智は汗ばむ掌をつよく握りしめる。
ひとりでいくところ。かつ、誰かを遠ざけようとする気持ちが強くなるような場所。
ふと、脳裏に浮かぶ光景があった。魚に触れたときの、夜の記憶。
あの場所は、すぐそばに海があった。街灯もなく、ただ岩のようなものがあった暗い海の近く。
諸泉は学寮に現れた魚から逃げていたと話していたから、きっと学寮からそこまで離れていないのだろう。
そして遠くに灯台がみえる、暗い場所。そこまで考えたところで、ふいにひらめく光景があった。
ちょうど政志たちがいる場所の反対側、学寮の建物に隠れた向こう側にも、海をのぞむことのできる場所はある。
ただそこは、人が歩くようには設計されていないので、人が立ち入ることがまずないのだ。
人が立ち入るように作られていないあの場所も、暗く、そして遠くに灯台をのぞむことのできる場所である。
もしかすると、諸泉が向かったのも、あの場所ではないのだろうか。ふと閃いてから改めてかすかな記憶をたどってみると、学寮の向こうと記憶の海は一致しているようにも感じられた。
行ってみよう。そう決心したあとの足取りは、軽くなっていた。
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