第12話


 * * *


 遠くから見る学寮は、夏のひざしを浴びて白く輝く、ありふれた研修施設にしか見えない。

 近づくとうごめいているように見えた魚の姿も、不思議とみられないままだ。遠くからだと、誰の気配も感じられない。

 やはり諸泉はいないのだろう。遠目からでもはっきりと那智は思い、足早に学寮の横を通り過ぎてゆく。

 防波堤はもう歩く場所がなくなっていて、那智はそこから降りようとしていた。

 細くなりつつある防波堤は、数歩歩くと唐突に消えてしまう。そこから先にあるのは、ごつごつとした岩肌だ。ここも、記憶で見たものと同じ場所のように思う。

 ここを過去の諸泉は走っていったのだろうか。恐怖で混乱していたとはいえ、ずいぶんと危ない道を行ったものだ。

 そんなことを考えたそばから、ごつごつとした岩につまずきかけて、ひやりとする。立ち止まり、額から垂れてきた汗をぬぐいながら前に目をむけると、岩場の陰に隠れるようにして、ひとりの男の姿があった。

 存在感のない、薄い背中。諸泉だ。

「せんせ……」

 那智は声をあげかけて、そして言葉をのみこんでいた。

 そこにいたのは、諸泉ひとりだけではなかったのだ。諸泉のまわりを漂う、何匹もの半透明な魚。それらは諸泉を襲うことはなかったが、すぐにも襲いかかりそうな雰囲気を漂わせていた。

 そして、諸泉と、諸泉のまわりを泳ぐ魚たち。

 彼らの向こう側には、もうひとり、男が立っているのが見える。否、海の上にいるのだから、浮かんでいると言うべきだろうか。

 もうひとりの男の姿は、時折揺らいでいるようにも見えた。半透明に揺らいで、向こう側の夏の空が見える。生きているものではない。しかもあの男の姿は、間違いない――音田だ。

 諸泉は那智がここにいることには気がついていないようだった。音田と向き合って、何かを話しかけているようである。

「なあ。お前、なんでそんなもんになっちまったんだ……」

 諸泉の言葉にこたえる音は無かった。ただ独り言を言っているだけのようにも聞こえるが、那智には音田の声が聞こえないだけなのかもしれない。

 那智の考えを裏付けるかのように、諸泉がちいさく笑ったのがわかった。

「そりゃあ仕方ないだろ。人は忘れる生き物なんだ。だけど俺は忘れない。それじゃあ駄目なのか」

 音田の表情はわからない。那智はただその場に佇んで、じっと諸泉の声を聞くことしかできないままだ。

「駄目か。なら……俺をもって行け。そもそも、本当なら死ぬべきなのは、俺だったんだから」

 諸泉はゆっくりと両手を広げている。全てを受け入れようという姿勢に、ひやりと冷たいものが背を伝っていた。

「先生……!」

 隠れていることは、もうできなかった。那智が声をあげながら、ごつごつとした岩を走り出すと、声に気がついたらしい諸泉が、ゆっくりと振りかえる。

 何も映さない、くらい目。それは、諸泉がすべてを拒むときの目の色だ。

 ゆらり、と諸泉のまわりを漂う魚たちが、諸泉に向けて一斉に動いたようだった。くらい目が那智をとらえて、そして口元がかすかに笑みを象ったように見えた。

 きっと諸泉は、音田のために、魚に記憶を喰わせるつもりなのだ。

 それが理解できた瞬間、身体は自然と動いていた。ごつごつとした足場を強く蹴って、跳躍する。

 足場が不安定なことだとか、目の前に半透明の音田の姿があることだとか、何も考えられなかった。

「那智!」

 諸泉と音田の前に割り込み、魚からかばうように、諸泉の腕を引く。

 瞬間、頭に鈍い衝撃がはしった。衝撃がきた方を見やると、そこには魚の顎があるのがわかる。

 いつもの、掌が熱くなる感覚とは、まったく違う感触だった。これがあの魚に襲われるということなのか。妙にさめた頭の片隅で冷静にそんなことを考えてしまう。

 頭の血が下がったような感覚があり、ふらりと身体が傾いでいくのがわかる。

 もう記憶は喰われているのだろうか。少し怖くもあったが、これでよかったという思いも強かった。

 ようやく、諸泉の助けになることができたのだ。

 諸泉が音田をなくしてからずっと、助けになりたいと思っていた。でも那智はひとりの生徒でしかなく、諸泉につきまとったところで、ただひとりの生徒として庇護される存在から、抜け出すことはできないでいたのだ。


 でも、卒業して、戻ってきたこの地でようやく、彼の助けになれたのかもしれない。

 真っ白になる思考のなか、ただそれだけを思っていた。



 * * *



 じわじわと浸食してくる、夏の温度。時折吹く風はすでに熱風であり、涼しさをもたらしてくることはない。

 夏の暑さは気力を削げ落としにかかってくる。だが千仁には、夏の暑さ以上のものに気力を削げ落としてくるものがあった。

 気まずい。朝からずっと気まずい。

 とたん、カメラを構えていた手が震えてしまい、千仁は猫を追うことをあきらめた。レンズから逃れた猫は、軽やかな足取りで防波堤を走ってゆく。その軽やかさが今はうらやましい。

 千仁は立ち上がりながら、カメラから手をはなしていた。首筋にずんと、重さがかかってくる。ネックストラップが首にぴったりと貼り付いて、べたついているようだった。

 振りかえると、そこには政志の姿があった。三脚から手をはなしていて、代わりにペットボトルを持っている。

「いつの間に」

 冷えているのだろう、スポーツドリンクの入ったペットボトルは、うっすら汗をかいていた。政志が買いにいったのだろうか。そんな気配はなかったが、それほど集中していたのかもしれない。

 千仁の疑問は、すぐに氷解した。

「さっき、那智さんが買ってきてくれた。飲む?」

「……うん」

 那智が来ていたのか。いつ来たのだろう。どうやら猫を追うことに熱中していたようで、まったく記憶にない。

 千仁は首を傾げながらも、政志からペットボトルを受け取った。麦茶のペットボトルだ。手にしたとたん、ひんやりとした感触が伝わってくる。

 蓋をあけて口に含むと、ほろ苦い、それでもどこか懐かしい味が口のなかに広がった。灼熱のなかに身を置いているので、冷たさが気持ちいい。

 千仁がペットボトルの中身をあけていく中で、政志は半分ほどに減ったペットボトルの蓋を閉めていた。こめかみから汗が浮き出ていて、それを彼は腕でぬぐっている。

 いつもと変わらない姿のはずであるのに、何故だろう、目がはなせない。今までは全く意識していなかったのに、政志の男としての部分を感じてしまうのだ。

「……ん?」

「何でもない」

 どれだけ政志を見ていたのだろうか。視線に気がついた政志が、ふっと目を合わせてくる。小首を傾げてみせるのに、千仁は慌てて首を横にふった。

 やはり気まずい。朝から感じていた気まずさを再び強く感じてしまい、千仁はぎゅっとペットボトルを握りしめた。ぺこ、と小さく音がして、ペットボトルがわずかにへこむ。

 朝から、政志と会話ができないままでいた。意識して会話をしようとすれば、なんとか会話はできるのだが、いつも交わしているはずの気軽な会話ができないのだ。

 気まずさを意識してしまうから、余計に会話ができないのだろう。千仁に対して、政志はそこまで気まずくないのか、いつも通りなのが悔しい。

 このままでいると、なぜか政志に負けた気がする。それは悔しいような気持ちもあって、千仁は気持ちを切り替えることにした。

「……それで、那智さんは?」

 ペットボトルを持ってきてくれたらしい那智は、ここにはいない。千仁が首を傾げると、政志は表情を曇らせていた。

「……先生を追っかけるって」

「そう……」

 政志のひとことだけで、なぜ表情を曇らせたのかという理由に思い至り、千仁も続く言葉をなくしていた。

 千仁たちについてきた諸泉はいつもと変わらないようでいて、どこかいつもと違っていた。仕事があるなどと言って戻っていったが、違うような気がしてならない。

 それでも、仕事を盾にされてしまえば、千仁たちには止める術がなかったのだ。

「どこに……行ったんだろう」

 ふたりのことを思うと、不安がにじみ出てくる。防波堤の上からまわりを見回しても、見えるのは海と寮だけだ。

「那智さんには、ここを動くなって言われたけどな」

 千仁の不安が政志にも感染したのだろうか。政志はぽつりとつぶやいていた。たしかに、那智だったら言いそうなことだ。もし千仁が那智の立場であれば、同じことを言ったのかもしれない。

「……探しに行ったほうが、良いのかな」

 那智が聞いていたら怒られそうだ。けれども、今日は空を泳ぐ魚の姿も少ない。探しに行っても平気ではないかと思えてしまうのだ。

「そう、だねぇ」

 政志はもとより、魚に対する恐怖心が薄い。千仁の思いつきにも臆したようすもなくうなずいていた。

 そうと決まればあとは行動するのみだ。だが、カメラを持ったまま移動はできない。となると、一度寮にカメラを置いてから動いたほうが良いだろう。

 政志はすでに動き出していた。三脚を片づけて、カメラを手にしている。千仁も置いていかれないように、政志のあとをついていく。

 防波堤にひびく、ふたつの足音。他に聞こえるのは、遠くからの波の音だけだ。歩いていくうちに学寮が見えてくるが、誰かがいるようには見えない。

「誰もいない……よね」

「……いや」

 誰もいない。那智たちはどこにいってしまったのだろう。途方に暮れるような気持ちだったのだが、政志はそれを否定していた。

 否定した理由は、すぐにわかった。政志の視線のさきに、人の姿があったのだ。

 人の姿は、諸泉のものだ。どこに行っていたのだろう。

 諸泉はうつむきがちに歩いているようだった。千仁たちがいることには気がついていないようである。

 うつむきがちの首に、誰かの手がまわっていることがわかる。よく見ると、諸泉は誰かをおぶさっていることに気がついた。

 誰だ、なんてわかりきっていた。おぶさっている誰か――那智の腕は、ぴくりとも動かない。

 何があったのだろう。ぴくりとも動かない那智に、すっと汗がひき、背が冷たくなるようだった。

「先生!」

 おもわず躊躇した千仁にかわり、政志が声をあげていた。諸泉は政志の声に気がついたようで、ゆっくりと顔をあげる。

 千仁たちを見ているようで、何も見ていない表情。なにも映さない、暗い目。

 ぞっとした。千仁たちを見ているのに、何も映していないのだ。

 だがその暗い目はほんの一瞬で消え、困ったように笑う諸泉の表情が浮かび上がる。

「ああ、いたのか」

「いたのか、じゃないですよ! どうしたんですか! 那智さんは……」

 諸泉の声には、いつもの力強さは感じられなかった。隣に立っていた政志が、飛びかからんばかりの勢いを付けて問いかける。

「那智は……大丈夫だ、意識を失ってるだけだ」

 不安な面はあるが、と続けながら、諸泉は那智を見やった。顔色は悪くなさそうだが、瞼は閉ざされたまま、ひらくようすはない。

「悪い。中に入ってもいいか」

「あ、はい」

 今まで千仁たちを導く役割であった那智がぐったりしていると、なんだか不安になってしまう。

 千仁たちが戸惑っていると、諸泉が学寮を指さしながら、そちらへ歩こうとしている。千仁も慌ててうなずいていた。

 諸泉は答えを聞く前に歩きはじめていて、千仁たちも慌ててついていく。

 学寮の玄関付近には、魚の姿はない。白い壁の色が太陽の光にまばゆく輝く、いつもの学寮だ。

 何度か玄関で魚の襲撃にあっている身としては、どこか拍子抜けする気もしてならない。

 魚の姿はまったくないが、それでもきょろきょろとまわりを見回しながら、千仁は中へと入っていった。

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