第13話
* *
諸泉は、いつもと変わらないようすだった。冷静すぎるほど冷静。それが逆に、薄い彼の背をくっきりと浮き上がらせているようだった。くっきりとした諸泉の背中が、なぜか見慣れない。
千仁はまわりを気にかけながらも、諸泉の背中から目を離せないでいた。
いつもよりもくっきりと浮き上がっている背中と、かすかに上下する那智の身体が、どうしても気になってしまう。
那智は普段からぼんやりしていることが多かったが、そうして諸泉の背で揺さぶられていると、まるでつくりもののように思えてしまう。どれだけぼんやりしていようと、やはり那智はいきているひとなのだ、と思えたし、意識をうしなったままの那智が心配にもなった。
千仁も、意識がないときはこんな風だったのだろうか。目を覚ましたとき、近くにいた政志はどこか心細くも見えた。政志も、同じような心持ちになっていたのだろうか。
ふらりと政志を見ると、政志はあたりを警戒しているようだった。窓から外をじっと見やっている。彼の背中からは、何かを読みとることはできない。
諸泉が廊下を歩いていったさきは、諸泉と那智が泊まっている部屋だった。
部屋のなかは物が雑然とまとめられており、生活感がにじみでている。生活感が残っていることに、どこか安心するようなこころもちになる。
諸泉は手慣れたようすで那智をベッドに寝かせていた。ベッドに横たえられた那智は、穏やかな顔で眠っている。瞼がうごくようすもなくて、本当に心配になってしまう。
「本当に大丈夫なんですか……どこかにぶつけたとか」
「それは平気だ。なんとか直前でつかまえたから」
諸泉はタオルケットを胸のしたまでかけてやると、そっと額をなでていた。それからゆっくりと立ち上がる。
「何かすることは、ありますか」
千仁はいままで、ただその場に立ちすくんでいるだけだった。このままただ立っているのもよくないと、何かやることを申し出る。
諸泉はそうだな、とまわりを見回して、息をついていた。
「食堂へ水をとりにいくから、那智のことを見ててほしい」
「それなら、俺がいきますよ」
諸泉の話を遮ったのは、政志だった。政志はいつもと変わらないようすで、申し出てすぐに食堂へ向かおうとする。
そんな政志を諸泉は、強く遮っていた。強い口調が、部屋のなかに響きわたる。
政志の動きが、ぎこちなく止まっていた。
「いや。食堂へは、俺が行く」
諸泉は口調も粗野なところがあるし、今までにも口調が強かったことはあった。だがここまではっきりと響いたことはなかった。
そう、まるで、「先生」を押し通そうとしているような。
「でも」
どこかぎこちないまま、それでも政志が諸泉を止めようと声をあげる。だが、諸泉はゆるく首を横にふっていた。そのまま軽く肩を叩き、部屋の外へと出て行ってしまう。
後に残されたふたりは、つい目を見合わせてしまった。政志は戸惑ったような顔をしていて、きっと千仁も同じ顔をしているのだろうと思っていた。
「先生、やっぱり動揺してるよね」
千仁は、ふいと政志から目をそらした。ずっと見ていると、なんだか変な気持ちになりそうだったからだ。
政志は当たり前だろう、と低く呟く。
「何があったのかはわからないけど……、少なくとも、那智さんが目の前で魚に攻撃されたことは間違いないだろうし、動揺するよな」
「そうだよね……」
動揺した諸泉のことは心配であったが、追いかけるのも嫌がりそうだったので、おとなしく残るしかないだろう。
千仁は那智が横たわっているベッドまで近づいて、そっと膝を折る。近づくとかすかな呼吸音が聞こえてきて、那智が眠っているということがはっきりとわかった。
生きている。ただそれだけで、こわばっていた何かがほどけるような気がするのだ。
政志は入り口近くに立ち、外をちらちらと窺っている。諸泉が戻ってきているのかどうか、確認しているのだろう。
どこか手持ちぶさたな時間。そんな時を破ったのは、那智のうめき声だった。
「う、……」
「那智さん!」
今まで動くことのなかった瞼がひくひくと動き、そしてひらかれる。千仁はベッドに身を乗り出していた。
「あ、先生! 那智さんが!」
千仁の背中では、政志が廊下に向かって声を張り上げていた。次いで廊下から、駆け寄ってくる足音が聞こえる。
「どうした」
部屋の中に飛び込んできた諸泉は、声こそは冷静だったが、息をはずませていた。手には水の入ったペットボトルと、プラスチックのコップがある。
諸泉が飛び込んできたちょうどそのとき、那智の身体がごそごそと動いていた。
「……あれ?」
那智のどこか間抜けな声が聞こえてくる。那智は完全に目覚めたようで、ゆっくりと起き上がっていた。
だが、どこか様子がおかしい。戸惑ったようすで、あたりを見回している。
「……ここは、学寮?」
那智が戸惑ったまま、ぽつりと落とした言葉。とても嫌な予感がする。
「……那智」
千仁が感じた嫌な予感。それは諸泉も感じていたことらしい。那智を呼ぶ諸泉の声には、焦燥のようなものがにじみ出ている。
諸泉の呼んだ声に、那智は諸泉へと焦点を合わせていた。そして、那智は困ったように、眉を寄せている。
「……誰、ですか?」
那智は諸泉の顔を見て、はっきりと告げた。どこかぬるい部屋の温度が、ひといきに下がったような気がした。
今までずっと教師としての顔をしていた諸泉が、ぴたりと動きを止める。那智はしばらく困ったように諸泉を見上げて、そして首を横に振っていた。
「いや、違う。誰なのかは知っているはずなのに……どうしても思い出せないんです。先生ですよね……俺は……魚に記憶を喰われた……」
那智は諸泉から視線をはずすと、千仁、政志と順繰りに眺めていた。
「野内に、政志。二人はわかる。俺が写真部のOBであることもわかる。だけど、どうして、どうやって学寮に来たのか、そのあたりがどうにも曖昧で」
「そうか」
那智は額を左手でおさえて、うめくような声をあげた。その間に諸泉はいつもの彼へと戻っていて、那智へと水を差しだしている。
「調子はどうだ? 気持ち悪いとかはあるか」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
那智はプラスチックのコップをおとなしく受け取り、水を喉へと運んでいた。
諸泉は、那智が水を飲むさまをじっとながめていたが、やがてふいと顔をそむけ、踵をかえす。
「先生?」
「那智はしばらく休んでろ。具合が悪くないとはいえ、急に倒れたからな。二人とも、しばらくついていてくれないか」
「え、でも先生は」
諸泉はどこへ行くのだろう。千仁に皆まで言わせることなく、諸泉は部屋をあとにしてしまう。
千仁と政志は、思わず顔を見合わせていた。政志の目に、千仁と同じ気持ち――諸泉をこのままにしてはおけないという思いが宿っているのを見たとたん、千仁は諸泉を追いかけて部屋を飛び出していた。
「先生!」
諸泉は、廊下の先を歩いていた。千仁が声をかければ、ぴたりと足を止める。
「先生。どこへ行かれるんですか」
千仁が問いかけると、足を止めた諸泉はちらりと千仁を振り返った。その目は冷静なようでいて、何も映し出していないようだった。
「どこへって……食堂?」
諸泉は手を掲げてみせる。そこにはペットボトルがあった。たしかに諸泉の言う通り、食堂へ行くのかもしれない。だが、千仁にとってはどうしても心配でならなかったのだ。
「先生。前に言ってましたよね。どこにも行かないって。だから、どこにも行かないでくださいね」
「どこもって……行くつもりはないよ」
「本当ですね。もし先生がどこかに行くのなら、私、どこまでも追いかけますから!」
千仁の強い口調に、諸泉の目に、はじめて光が宿ったようだった。諸泉は目が覚めたように瞬くと、困ったように笑ってみせる。
「それは困るな」
「私、本気ですよ」
「野内が言うなら、きっとほんとにやるだろうな。……大丈夫さ」
諸泉は先ほどよりはっきりした声で告げると、ふたたび千仁に背を向けた。ひらひらと手をふって、そして食堂へと遠ざかってゆく。
彼の背中はやはり生気がなくて、そしていつもと変わらぬようすだった。すこし心配になるが、深追いするのも気が引けて、諸泉の背を見送るまでにとどめていた。
部屋にもどると、ふたりの視線にむかえられた。
「どうだった?」
政志が、すこしぎこちなく問いかけてくる。千仁は大丈夫そうだということが伝わるように、うなずいてみせた。
「食堂へ行ってくるって。釘をさしておいたから、どこかに行くってことはないと思う。たぶん」
自信はあまりなかったが、ひとまず千仁はうなずいてみせた。政志はわずかな間、悩んでいるようだったが、やがて首を縦に振っていた。
「千仁が言うなら、大丈夫だろう」
問題はこれからどうするかだ。部屋のなかに、重苦しい沈黙が落ちる。夏の生暖かな空気とあいまって、どんよりとした空気が広がっていた。
言葉にはしないが、千仁も、政志も考えていることは同じだ。
那智の記憶をどうすればいいのだろう。
那智はおとなしく横たわっている。顔だけが千仁たちを見ているようだった。何かを口にすることはないが、探るような目が必死に記憶をたどっているようにも感じられる。
言葉にならない沈黙。沈黙を破ったのは、那智の声だった。
「先生は……えっと……」
「諸泉先生。写真部の顧問です」
「顧問。そうだ、音田先生はもういないんだよな……」
那智はやはり混乱したようすで、頭を抱えている。過去の記憶をたどっているようだが、どうしても思い出せないらしい。
頭を抱える那智を見ると、なんだか可哀想になってきた。
「那智さん、まだ調子も戻ってないから、ここはまだ無理しないほうがいいですよ」
千仁は、頭を抱える那智へ、休むように声をかけた。政志も同じ意見らしく、うなずいている。
「そうそう。千仁もひょんなことから記憶を取り戻しましたし、大丈夫ですって」
「そっか。そうだよなあ」
那智はまじまじと千仁を見て、少し安心したように表情をゆるめていた。なぜそこで表情がゆるむのか、納得がいかない。だが、せっかくゆるんだ表情もすぐにふっと消えてしまった。
「でも……いろんなところが穴だらけなんだ。ここに来たきっかけだって思い出そうとしても、ぼんやりと霞がかかったようで思い出せない。ただ、思い出せるのは部室とカメラがあったことだけ……」
那智は腕を持ち上げて、目をおおっていた。
「大事なひと、だったんだよな。……あんなに大事な人だってわかってるのに、何もわからない」
ぽつりとこぼした独白が、隠された本心を暴き出しているようにも感じられて、千仁はただ見守ることしかできなかった。
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