第14話

 * * *


 那智が眠ってしまったあと、千仁たちは束の間の自由を得たが、撮影に行く気持ちにはならなかった。

 学寮の廊下のつきあたりにある、椅子やソファなどが置かれた休憩スペース。部屋に戻る気にもならず、千仁は休憩スペースに佇み、学寮の窓から外を眺めていた。

 学寮の窓から見える外は、まさに夏の空だった。抜けるような青空。空に浮かぶ入道雲。

 窓ガラス越しの夏のひざしは、どこかぬるいようで、まるで水のなかにいるような気がする。

 千仁のすぐ隣には、政志がいた。政志もずっと黙したまま、外をじっと眺めている。言葉がないという点は撮影のときと変わらなかったが、こころもちがずいぶんと違っていた。

「……どうしよう」

 千仁はぽつりと呟いていた。なんとか平静を保とうとしていた心の、本当のなにかがあふれ出てしまったようだ。

 政志が視線をちらりと寄越してくる。いつもと変わらない、穏やかな顔。そんな政志の穏やかさに、焦りのようなものが消えていくのがわかる。

「どうしような」

 政志も、同じようにぽつりとこぼしていた。窓からはなれた彼は、ゆっくりとソファに腰かける。ソファは窓から差し込む強い日差しの影になっていて、政志も影のなかへと入ってしまう。

 影のなかに佇む政志の横顔は、ひどく大人びて見えた。気がつけば千仁より一歩も、二歩も先に進んでしまったようで、どきりとする。

「このままじゃあ、まずいよな」

「……うん」

 政志の言葉に、千仁も頷いていた。

 諸泉は何も言わずに那智のそばについている。那智は未だ眠っているが、じきに目覚めるだろう。

 那智のなかから諸泉の記憶がなくなってしまったことについて、諸泉は、気にするなと口にしそうだ。だけど、それでは駄目なのだ。那智のあの苦しみを見てしまったからには、放っておくことなどできやしない。

「やっぱり、何とかするってなると、魚を捕まえて何とかするしかないよね」

「お前な……言ってる意味、わかってるのか」

「わかってる」

 この言葉を政志が言うのは何度目だろうか。心配して言っているのだろうということも分かるし、今までとは違う意味を込めて口にしているようにも感じられる。

 政志のまっすぐな瞳が、じっと千仁を見つめてくる。今日はずっと気まずかったが、今ばかりは千仁も目をそらす訳にはいかないのだ。

 やがて、政志は口元をゆるめていた。

「……しょうがないなあ」

 それはいつも千仁にふりまわされる政志が、意見を曲げたとき、きまって口にする言葉だった。

「……いいの?」

「そりゃあ、しょうがないだろ」

「まあ、そうなんですけど」

 千仁としてはひとりで行く覚悟を決めていたので、政志がしょうがないと言ってくれることは、予想から外れたことでもあった。

「千仁ひとりにいかせたら、心配すぎて胃に穴があきそう」

「うっ」

 政志の言うことはもっともなことで、千仁は反論できずに黙り込むばかりだ。

 政志はゆっくりと顔をあげた。廊下へと視線をめぐらせている。どうやら今は姿をみせない魚を追っているのかもしれない。

「那智さんの記憶を奪い返すとなると、もし魚を捕まえても、その場に那智さんがいないと駄目ってことだよな」

「そうだね」

 それは千仁も心配していたことだった。この数日間の経験では、記憶を奪われた本人が魚の近くにいることで、記憶を取り戻している。つまり、この方式が正しければ、千仁たちがどれだけ奮闘しても、那智に何とかする気がないと、どうしようもないのだ。

「どうやって那智さんに、その気になってもらおう」

「言われずとも、もうその気になってるよ」

 千仁がぽつりとこぼした言葉に、思わぬ返しがあって千仁は驚いていた。

 振り返ると、そこには那智の姿があった。廊下の壁にもたれかかるようにして佇んでいる。

「那智さん? いつからそこに」

「少し前からかな? トイレに行こうと思って部屋を出たら、ふたりがこそこそ話をしてるから気になってこっそりと聞いてた」

 那智は決まり悪そうな顔をして、前髪に触れていた。どうやら千仁たちは話に夢中になって、那智の気配に気がつかなかったようだ。

「俺のことを気にかけてくれて、ありがとうな」

 那智は決まり悪そうな顔で、笑っていた。ガラスによって和らいだ夏の日差しが、那智の身体をやわらかく照らしている。

「俺は記憶を取り戻したい。だが、ふたりを巻き込みたくはないんだよな」

 那智はどこか困ったように首を傾げた。那智がそう言うことはわかりきっていたので、千仁はぐっと拳をにぎりしめる。

「それはだめです。ひとりでなんて、行かせませんから」

 那智と諸泉たちの間に何があったのか、千仁は詳しく聞いていない。だがそれでも、ひとりで行ってしまったら危ないということは、千仁にもわかっていた。

「だけどなあ」

「それ、俺からもお願いしたいですね。もしここで那智さんを見送ってしまって、また那智さんの記憶に何かがあれば、俺は悔やんでも悔やみきれない」

「政志」

 千仁に加勢するように、政志が口にする。そんなことは滅多にないことだ。千仁はおもわず政志を振り返っていた。

 政志は身体の半分を影に浸したままだ。だが那智をふりかえる顔には、ひとつの迷いも見られない。

 政志の変わらぬまっすぐさにつられるように、千仁もひとつ頷いていた。

「そうです。そりゃあ、私が行ったところで何も変わらないかもしれないですけど、それでも一人よりは二人、二人よりは三人の方がいいはずです」

 政志に加勢するように千仁が熱弁すると、那智は困ったように口元をゆるめた。

「……しょうがないなあ。それじゃ、お願いしますかね」

「よし、決まりです」

「あ、でも今作戦会議すると先生に見つかるから、それは後で」

 那智はトイレに行くため、部屋を出てきたのだと話しているし、もしここで諸泉が那智を探しに出てきてしまっては、せっかくの作戦が台無しになる。

 三人はそのことをよくわかっているので、すばやく目配せをしあい、ふたたび那智は部屋へと戻っていった。


 * * *


 夏はとにかく暑さにうんざりする季節だが、いいことだってある。そのうちのひとつが、日が長いことだ。

 夕暮れが近づきつつある頃。千仁たちは政志の部屋に集まっていた。那智も体調がもどってきたとのことで、やってきている。

「さて、わかったことをまとめよう」

 共有スペースに座った三人は、小さなテーブルと向き合っている。政志がまじめくさった顔をしながら、テーブルの上にルーズリーフを取り出していた。

「わかったこと……」

 千仁がぽつりと呟きながら、ルーズリーフを見つめる。

「たいしてないよね。いや、俺が覚えてないだけかも」

 那智は首を傾げると、麦茶の入ったペットボトルを傾けていた。数秒の沈黙ののち、三人は吹き出してしまう。妙に真剣な場の雰囲気に、耐えられなかったのだ。

「まじめくさっても、なにも出てこないですね」

 政志はため息をついて、絨毯のうえに転がっている。千仁もつられて転がりたくなるのをこらえるように、テーブルに肘をついていた。

「とりあえず、わかることを伝えよう」

 千仁が軽くテーブルをたたくと、転がっていた政志が、ごろりと起きあがってくる。

 三人はおとなしくテーブルに向き合って、それぞれ知ったことを出し合った。三人のなかではきっと那智が一番知識のあるはずなのに、手持ちの情報は一番少なかったのだ。この学寮に来てからは、よく諸泉と共にいるから、記憶として喰われてしまったのだろう。

 記憶を喰われながらも、テーブルに置かれたルーズリーフは、少しずつ埋まっていた。

 学寮のなかでも、泳いでいる場所といない場所があること。規則性はないこと。

 記憶を取り戻すのなら、同じ場所の魚に触れる必要がありそうなこと。時をどれくらい置いたらいいのかはわからないこと。

「これくらいか……」

 千仁は上の部分が埋まったルーズリーフを見ながら、ため息をつく。持ち寄った知識は曖昧で、決定権に欠けるものだ。まるで、神出鬼没な魚のようである。

「いや、大事なことを聞いてない」

 魚についてはこれぐらいだろう、と思っていたとき、不意に政志が真剣な声をあげた。

「大事なこと?」

「そう。那智さんがどこで魚に喰われたのか、その情報がない」

「あ……」

 そうだった。千仁たちが那智を見たのは、諸泉に背負われて戻ってきたときで、それまでどこにいたのかは、誰の口からも語られていない。

 ただ、諸泉がふだんとは違う場所から出てきたことは、確かなことである。しかし、ただそれだけだった。

 千仁たちの視線が、自然と那智に集まる。那智は困ったように眉をよせて、首を傾げていた。

「うーん。場所かあ……」

 目を泳がせて、記憶を掘り起こしているようである。しばらく考えこんでいたが、やがてあきらめたらしく、ゆるやかに首を横に振っていた。

「だめだ。何にも出てこない」

「いや、でも欠片くらいは残っているかも。それじゃあ、昼下がりに、那智さんが飲み物を買ってきてくれたことは覚えていますか?」

「それは……ん? 覚えてるな」

 気まずい夏の昼下がり。那智が差し入れてくれた飲み物が、癒しとなっていたのだ。

「あのとき、那智さんは諸泉先生のことを気にされてて、一度寮に戻ったんです」

「気にした……うーん、だめだ。そんなことを話したんだったか。覚えてないなあ」

 魚は容赦なく諸泉に関する記憶を奪っていったようだった。それならば、千仁たちとのやりとりも、その後のことも記憶にないだろう。そう思ったのだが、那智はいや、と顔をあげていた。

「何を話したのかは覚えてないけど、その後のことは覚えてるぞ……何かを追いかけようとして、寮の裏側に行って……そこで、誰かの背中を見つけた。その後のことは……覚えてない」

 那智は力なく肩を落とした。どうやらそこで記憶は途切れているらしい。

 だが、それだけ覚えていれば十分だろう。千仁はテーブルに置いた手に、ぐっと力を込めていた。

「それだけで十分です。那智さんが向かった場所がわかります」

「そうだな」

 政志もうなずいていた。那智はかすかに首を傾げていたが、すぐに千仁たちの言うことを理解しているらしい。ひとつうなずいていた。

「寮の裏側か」

「そうですね。そこで記憶を奪った魚と出会えるかはわからないですけど……行きますよね」

「行くよ」

 千仁の問いかけに、那智は強く頷いていた。ためらうことのない、いさぎよい決断だ。

「後は諸泉先生にいかに見つからないようにするか、だな」

「難しいね」

 政志が言うことは、ある意味では魚をとらえることよりも、難しいことであるような気がする。

 あれから、諸泉はいたって普段と同じ態度を崩さないように、千仁たちに接していた。だが、千仁たちが何を考えているかはどうやら伝わっているらしい。諸泉のいる場所で千仁が何かしようとするたび、彼の目がついてきているような気がしてならないのだ。

 諸泉も那智の記憶を取り戻すことを手伝ってくれないかと思ったが、彼ならば、ひとりで取り戻しに行ってしまうに違いなかった。那智が寮の裏側まで行ったのも、間違いなく諸泉を追いかけるためだろう。

 諸泉がひとりで何を知っているのか、未だに何も聞いていない。

「もし見つかったら、無理矢理巻き込むしかない」

「またそういうことを言う……」

 諸泉には、ごまかすよりもこのまま隠し通して、もし三人が見つかってしまったら、強引にでも引っ張り込むしかないだろう。もうそれしか思いつかない。

 千仁がこれは妙案と呟くと、政志があきれたような声をあげる。そういえば、強引に引っ張り込む手はここにくるときも使ったのだったか。ここにくるときだけでない、よく使う手だ。

 千仁が目をそらすと、那智がくすくすと笑みをこぼしていた。

「ふたりはいつもそうなんだな。いや、分かってるんだけど、改めて感じたというか」

「残念ながらその通りです。昔から……ずっと昔から、ね」

 政志の言葉はその通りなのだが、どこか引っかかるものを感じた。彼が言う昔からというのは、一体いつのことなのだろうか。写真部に入ってからのことだけでは無いように思える。

 千仁がちらりと政志を見ると、視線に気がついた政志が、千仁を見返してくる。何も語らない、だが彼の目は何かを雄弁に語っているようなつよさがある。

 先に耐えられなくなって、目をそらしたのは千仁だった。

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