第15話

 * * *


 学寮の外には、夏空が広がっている。

 この学寮に来てから、ずっと晴れたままだ。ひとつの夕立だってなく、そう、まるで同じ景色を貼り付けたような天気だった。

 外に出たとたん、夏特有の熱気がぶわりと襲ってきた。額に汗がにじみでて、千仁は額を手の甲でぬぐっていた。

「それで、裏側にはどっちから……」

「こっちじゃない?」

 千仁たちは、いつも使う玄関ではなく、食堂の裏口から外へと出ていた。今日は学寮内の掃除を行っていて、諸泉は玄関近くの廊下を担当している。那智も彼の近くで掃除をしていたが、どうやらうまくかわしてきたようだ。

 かすかな風に乗って、潮の香りが漂ってくる。玄関にいるときよりもさらに強く感じるのは、裏口のほうがより海に近いからだろうか。

 三人は、声をひそめながら、裏側へと歩いていった。千仁はここまで来るのは、初めてだ。政志も同じらしく、戸惑っているのがわかる。

 那智には、このあたりの記憶は残っているらしい。特に迷うこともなく、裏の門を探り当てていた。

 門から外に出ると、目と鼻の先に防波堤がある。だが防波堤もすぐに途切れていて、その先は岩場だけの、ごつごつとした空間が広がっていた。

「うわ」

 岩場の近くには、ふわふわと小さな魚が泳いでいた。目を合わせなければいいのだが、それでも気になってしまうものだ。

「このあたりの魚がそうなのかな」

「うーん。記憶をもっていく魚って、それなりに大きいような……気がする」

 すぐに魚から目をそらしてしまう千仁とは違って、政志はじっと魚を見つめているようだった。魚のことが怖くないということは分かっているが、そんなにじっと見つめていると心配になってしまうものだ。

 千仁は、政志のシャツの裾を引っ張った。

「ねぇ」

「なに」

「そんなに魚を見て、平気なの」

 政志は、ゆっくりと振り返ってきた。少し色素の薄い目が、千仁をとらえる。これから魚と対峙するというときであるのに、どこか凪いだ色の目に、違和感を覚えていた。

「……政志?」

「そうだな。もしかしたら俺は、望んでいるのかもしれない」

「え?」

 政志がぽつりと呟いた言葉。聞こえているのに意味が理解できなくて、千仁はまぬけな声をあげていた。だが、政志はそれに何か言葉をかえすことはなく、ただじっと見つめるがままだ。その間に、じわじわと彼の言葉が浸透してくる。

「政志……」

 政志は魚を怖がったことが、ずっとなかった。時折、不思議なものを見てしまうせいだろうと思っていたが、怖くない理由はそれだけでは無いのかもしれない。

 ふと、諸泉の記憶とともに流れ込んできた記憶のかけらが、浮かび上がる。

 政志によく似た、あどけない少年の顔。

 あれは単なる幻でも、偶然でもないのだろうか。

「……あ」

 奇妙な沈黙は、那智の言葉によって消えていった。

 千仁が那智を見ると、那智はひとつのところに視線を向けている。視線の先にあるのは一匹の魚。那智がじっと見つめている理由はすぐにわかった。他の魚にくらべて、あきらかに大きさが違う。ひとを飲み込みそうなほど、大きな魚だ。

「見覚えが?」

 政志の問いかけに、那智はしばらくためらったのち、ひとつ頷いていた。

「ぼんやりとだけど……たしか、あれぐらいの大きな魚だったと、思う」

 魚は三人の視線などものともしないようすで、悠々と泳いでいた。あれだけの大きさになれば、魚もまわりのことなど気にならないのかもしれない。

 魚が三人を見ることはない。

 ぼんやりと魚を眺めていた三人のなかで、一番はじめに動いたのは、政志だった。

「それなら、俺がいきます」

 彼は何の気負いもないようだった。さらりと告げると、まっすぐに魚へと向かっていく。悠々と泳ぐ魚は政志に背を向けていて、未だ気がついていないようだ。

 恐れることなく、魚へと向かう政志の背を見ているうちに、急に恐怖がこみ上げてくる。

 政志は魚を恐れてはいない。口にはしていないが、記憶を失うことも恐れてはいない。

 もし、政志が魚と対峙して、記憶をなくしてしまったら。千仁とのさりげないやりとりも、気まずくなったことも、すべてなくしてしまったのなら、政志は千仁を振り返ってくれるのだろうか。

 半透明の魚は、ようやく政志たちの相手をする気になったらしい。尾びれが夏空にゆらりと揺れて、こちらを振り返った。

 政志の手が、ゆっくりと伸ばされる。

「……っ!」

 魚の目が政志をとらえた。それを理解した瞬間、千仁の足はふらりと動いてしまう。どうすれば良いのかなんてわからない。それでも、政志をひとりで魚と対峙させたくはなかったのだ。

 魚へとのばされた政志の腕をつかもうとしたとき、彼の手からりん、と鈴が鳴るのがわかった。

 りぃん、りぃん。涼しげな鈴の音が鳴る。

 ぐっと近づいてきた魚が、ふと動きを止めていた。

「那智さん……って、千仁」

 政志は那智の姿を確認するためか、ふらりとこちらを振り返ってきた。そして千仁をみとめて、驚いたように目を丸くする。

 丸くなった目と目が合ったとき、脳裏に割り込んでくるものがあった。



 無機質な白い壁。教室にも似た窓。アイボリーのカーテン。これは学寮でも、学校でもないどこかだ。どこなのだろう。どこか、懐かしさを感じる場所だ。

 学寮と同じリノリウムの床。床を見下ろす目線はとても低い。まるで、子どもの目線のような低さだった。

 長い廊下には均等に部屋への入り口があり、入り口の横にはネームプレートがある。入り口からちらりと見えるカーテンは、まるで部屋の仕切りにも感じられた。

 ここは――病院だ。

 廊下には、なぜか半透明の魚が泳いでいる。半透明の魚は廊下をいくつも泳いでいて、なぜかそれが、とても怖い。

 思わず逃げ出した先には、ひとりの少年が立っていた。

 まっすぐなまなざし。色素の薄い瞳。

 政志によく似た、少年だった。



「……っ」

 怒濤のように流れ込んでくる記憶に、思わず歯をくいしばる。それは政志も同じようで、掴んだ政志の腕はふるえていた。

 りぃん。再び鈴の音が鳴る。鈴の音を避けるかのように、魚がふいと向きを変える。

 空の彼方へと消えていく魚。いなくなってしまうのに、追いかけることができなかった。

 千仁はその場に佇んだまま、一歩も動くことができなかった。政志の腕もつかんだままだ。政志は、それなのに振り返ることをしない。ただじっと、魚を見つめている。

 鈴の音がやんだ。

「……政志」

 千仁は、金縛りから解けたように、ようやくのことで政志の名を呼ぶことができた。そっと腕から手を離す。はなした手には、政志の体温が残っている気がする。

 ずっと魚を見つめたままの政志が、ようやくのことでゆっくりと振り返った。

 色素の薄い目。まっすぐなまなざし。この目をずっと、遠い昔に見たことがあった。

 政志は、いつだって暴走する千仁についてきてくれた。怒りながら、それでも最後にはしょうがないと言う。写真部にふたり、入ってからずっとだった。

 巻き込まれ体質なのは、政志の性格なのだと思っていたけれど、それだけでは無かったのだ。

「……思い出しちゃった?」

 政志はすこしだけ困ったようにわらう。空を泳ぐ魚を怖くないという政志。

 怖くない理由は、あの記憶にあった。小さい頃。同じ魚を見たことがあったのだ。


 千仁がまだ幼い頃、肺炎で入院していた病院。病院の中には宙を泳ぐ魚の姿があった。それは千仁にしか見えない不思議なもので、ひとり怯えていた日々だった。

 そこで、出会ったのだ。

(どうしたの?)

 同じ魚が見える、男の子に出会ったのだ。


「どうして……忘れてたんだろう」

 千仁は呆然とつぶやく。政志の態度から、今の記憶は政志のものではなく、千仁のものであることがわかる。

 ふつふつと胸のうちにわいてくるのは、どうして忘れていられたのだろうという、後悔にも近いものだ。

「そりゃあ、喰われたからさ」

 政志は何でもないように言う。気負っていないようすが、逆に後悔を深めるばかりだ。

 なぜなら、あのとき、政志と約束していたから。

(……ぜったいに、わすれない。こまったら、たすけにいく)

 同じ病。同じものを見る目。ふたりだけの苦しみだったからこそ、ここからいなくなっても、ずっと友達でいようと約束した、幼き日の記憶。

 それなのに、千仁は退院するまえに、彼のことを忘れてしまった。ただひとり、記憶をもつ政志だけを残して、今日まで来たのだ。

「高校で千仁と再会したけど、覚えてないことにがっかりしたこともある。それでも、千仁を放っておくことはできなくて、でも覚えてなくて。……千仁は先生ばっかり気にしてて」

 笑みに彩られていた政志の口元が、かすかに歪んだように感じられた。政志は千仁から目をそらして、うつむいた。

「それでも……、やっぱり放っておけなかった。だってあのとき、千仁がいたから、俺はひとりじゃないって、知ったから」

 かすかに震える声。政志はどんな表情で、告げているのだろう。

 千仁は幼き日のことを忘れてしまっていて、諸泉のことばかり追いかけていて、政志を巻き込んで、そして振り回してばかりだった。

 ふと思い出されるのは、夜に政志がいらだちをぶつけてきた日だ。きっと毎日、政志はいらだちを抱えていたに違いない。

 それでも、いらだちをぶつけてきたのは、その一日だけだった。

 うつむいていた政志の顔が、ゆっくりと上がる。そこに震えているようすはなく、どこかまぶしそうに目を細めていた。

「少しでも、役に立てたなら、それでよかった」

「……政志」

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