第16話

 いたずらめいて笑った政志は、すぐにふいと振り返る。

「まあでも、役に立ってはいないかな。魚は逃げちゃった訳だし」

「あ……」

 そうだった。千仁も政志が見ている空を見上げていた。鈴を鳴らしたおかげで、夏空を泳ぐ魚は、ぐっと数を減らしていた。

 これでは、那智の記憶をもつ魚は捕まえられないのではないか。そんなおそれが心を満たしていたときだった。

「いや、まだいる」

 千仁のおそれを取り除いたのは、那智のひと声だった。那智を見ると、彼は千仁たちとは違う一点を見つめていることがわかる。

 それは、防波堤が途切れ、ごつごつとした岩肌が見えるところだ。そこには未だ魚が残っていて、空をゆらゆらと泳いでいるのが見える。

 那智が見つめる先には、たしかに一匹の魚がいた。他の魚よりも大きな、マグロのような見た目の魚。

「あれは、そうかもしれない」

 那智はぐっと睨みつけるようにして魚を見つめると、一歩踏み出していた。

「あ、那智さん!」

 勢いづいて歩き出した那智は、千仁が声をかけても止まることがなかった。まるで引き寄せられるかのような姿に、千仁もあわてて追いかけてゆく。

 那智は、迷うことなく岩場へと足をかけていた。千仁も少し不安定な岩場に足をかけながら、ふと既視感を抱いていることに気がつく。

「ん?」

 ここに来たのは初めての場所のはずだ。それなのにどうして、来たことがある気がするのだろう。おまけに、恐怖をも感じる。足場が不安定だからだろうか。いや、それだけではないような気がしてならない。

 そんな千仁の疑問は、政志の言葉で氷解していた。

「ここ、先生が逃げ込んだ場所じゃない?」

「……っ」

 暗い夜。不安定な足場、すぐ近くで立つさざなみ。

 夜という条件をのぞけば、一度だけのぞきみた記憶にそっくりの場所だった。

「じゃあ、もしかすると……」

 ここは、音田先生が海に落ちた場所なのではないだろうか。そんな千仁の疑問にこたえるかのように、岩場の向こう、動く影があった。

 那智が動いたのかと思ったが、那智は千仁たちの前で、ただ佇んでいる。

 そんな那智の前で、ふたたび動く影があった。それは陽炎のように揺らいで、人の姿をとる。

 諸泉くらいの男。ただ諸泉よりは少し優しいように見える。一度見たことのある男。

 あの男は――音田だ。

 音田は岩場の向こう、海のうえに浮かんでいるようだった。彼のまわりには、数匹の魚が泳いでいる。そのうちの一匹は、那智がじっとまなざしを注いでいた、大きな魚だ。

「……先生」

 那智の声が、ぽろりとこぼれおちる。彼の声に反応するかのように、音田がかすかに笑ったようだった。

 瞬間、音田のまわりをゆらゆらとまわっていた魚が、向きを変えていた。ゆったりとした動きが、勢いのあるものになる。

「っ、なち、さん!」

 千仁たちのまわりを、ごうと熱風が吹いていった。那智をかばおうと動きだした足が、思わず止まってしまう。

 不安定なこの場所で、一歩でも動けば、転んで海に落ちてしまいそうだったのだ。

 千仁のすぐ近くで、政志が鈴を鳴らしていた。だが熱風が壁のように音を遮り、軽やかな鈴の音はすぐに消え去ってしまう。

 そんな中、那智はまっすぐに立ったままであった。まっすぐに立ったまま、右手を突き出している。間をおかず、那智の右手から、じゅう、と何かが焼けるような音が聞こえてきた。魚と那智の右手がふれあっているのだ。

「那智さん!」

 千仁はおもわず叫んでいた。だが千仁が叫ぼうと、那智は手をおろすことをしなかった。振り返ることすらせず、じっと魚に手を伸ばしている。

 ふわりと夏の風に、那智の髪がそよいでいる。記憶に手を焼かれながら、那智には記憶が戻っているのだろうか。すぐ近くに立つ千仁には何の記憶も流れ込んでこないので、戻っているのかが分からないのだ。

 もしかすると、この魚ではないのかもしれない。そうしたら無駄足になってしまう。

 焦った千仁が、那智へと一歩近づいていった。身のおきどころが変わったことで、那智の右腕がはっきりと見えてくる。

 那智の右腕は、手の甲から腕の付け根まで、赤く腫れているように見えた。魚へと向ける横顔は厳しいものだ。

 それでも、那智は魚から退こうとはしない。

「那智さん、もうやめてくださいッ!」

 千仁は、彼の腕をつかもうとした。だが腕に近づいたところで、那智がはっきりと拒否を示してくる。

「大丈夫だ」

「大丈夫に見えません!」

「それでも、そう思っていないと。この記憶だけは、取り戻したいんだ」

 どこか気の抜けたところのある普段の彼からは、想像もできない険しい声が聞こえてくる。

 横顔の厳しさに、千仁の手の力はゆるんでいた。那智が記憶を取り戻したい、そう願っていることは分かっていても、ここまでの険しさを持っているとは思わなかったのだ。

 そんなひとときの間にも、那智の手は赤くなってゆく。

 千仁は唇をかみしめた、そのときだった。

 りぃん。遠くから、涼やかな鈴の音が聞こえてくる。幻聴かと思われた音は、重ねて鳴り響いていた。

 りぃん。りぃん。

 鈴の音が鳴るたびに、千仁たちを取り巻いていた、熱風が落ち着いてくる。

 鈴の音は、千仁の背中から聞こえてくるようだった。政志が鳴らしているのかと振り向けば、政志もさらに後ろをふりかえっているようだった。掌は握りしめられていて、鈴が鳴るような音はない。

 いったい、誰が。

 政志が見ているだろう視線を追ってみると、そこにはひとり、佇んでいる男がいた。

 岩のうえに立ち、こちらをじっと見据えてくる男、諸泉。片手には鈴を握りしめていて、一定の間隔で揺れているようだった。

 あの鈴はふたつあったのか。ひとつだけではなかったのか、なんて、しょうもない考えが浮かんでくる。

 りぃん、りぃん。

 音に呼応するかのように、目の前をとある出来事が駆け抜けていった。


 夏の青空。海の上に広がる入道雲。しゃがみこんだ先の足下には、寄せては返す波がある。

 おい、とぶっきらぼうに呼ばれて振り返った先には、今より精悍な顔つきの諸泉の姿があった。

 そして、彼の向こうにふわふわと泳ぐのは、半透明の魚だ。


「せんせい。諸泉、先生」

 那智の声で、彼方に飛んでいた千仁の意識は呼び戻されていた。那智は、まっすぐに諸泉を見つめている。彼と対峙していたはずの魚の姿は、いつのまにかなくなっていた。

 諸泉は那智の声に目を細めて、困ったように唇をねじまげた。

「ったく……。影でこそこそしてると思ったら……」

 諸泉はぎゅっと鈴をにぎりしめると、一歩ずつ千仁たちに近づいてきた。

 魚は消えたが、いまだ男、音田の姿が消えずに、海に浮かんでいるのだ。諸泉が歩いてくるからか、吹き荒れていた熱風もしずまったままである。

「だって、先生のことを忘れたままでいるなんて、できないですから。……記憶が穴だらけで、気持ちわるいったらないです」

「……そうか」

 千仁の頭を駆け抜けていった出来事は、那智と諸泉との思い出なのだろう。那智は、記憶を取り戻すことができたのだ。

 諸泉はゆっくりと歩いてくると、那智の隣に立つ。諸泉はじっと音田を見つめていた。

 今まで無表情であった音田は、かすかに微笑みをたたえているように見えた。少しだけ、姿もはっきりしたように感じられる。気のせいだろうか。

「文貴。お前、寂しいんだな」

「……寂しい?」

 諸泉が口にした言葉は予想外なものだった。思わず声を上げていた千仁に、諸泉がちらりと振り返って、唇をつりあげる。

「そうさ。文貴、いや音田先生は、いつも明るくて生徒にも好かれていたけれど、本当は俺たちと同じだからなぁ。隠していた本性が、出たのかもしれないな」

 諸泉の言葉に音田が、唇をぱくぱくと動かしている。何かを伝えようとしているようだったが、千仁には聞こえなかった。

 だが、諸泉だけには聞こえているらしい。

「はぁ? 寂しいわけないって? んな強がったって、魚を使って記憶を集めてるところとか、丸わかりだろう」

 諸泉は、どこか楽しそうな口調だった。楽しそうな口調なのに、表情は眉をよせ、どこか寂しそうにも感じられる。

 音田は、諸泉の言葉に、すこしだけ悔しそうに唇をゆがめていた。

「……なあ、文貴。寂しいなら、俺を連れて行け。そのかわり、他のやつらには手を出すな」

 諸泉は、楽しそうな顔のまま、衝撃的なことを口にしていた。目の前の文貴も驚いたのか、目を見開いている。

「そんなに驚くことじゃないだろう。この前も言ったはずだ、俺にしとけって」

 諸泉はいつもどこか消えそうな気配をまとっていた。生気のない背中。どこか遠くを見ているような視線。

 もしかすると、彼はずっと、連れていってほしいと思っていたのかもしれない。垣間見えた諸泉の苦しみに、千仁は何も言うことができない。

 連れていってほしくなんかないのに、口が貝のように閉ざされたままだ。

 不意におとずれた奇妙な静けさ。それを破ったのは、那智だった。

「先生。それは駄目です」

「……那智。駄目なことはわかってるさ。それでも、俺は」

「わかってますよッ! それでも、嫌なんです!」

 那智の荒らげた声が、強く聞こえる。普段、那智はあまり大声を上げたりはしない。ここまで感情を込めた声を聞くのは、珍しいことだった。

 那智は諸泉に近づいて、腕をぐっとつかんだ。赤く腫れた右手が、強く諸泉の腕を握りしめている。

「音田先生がうかばれないとか、そんな理由じゃないです! 俺が嫌なんです! 俺のエゴです。俺のことをこっち側に引き留めたのは先生なのに、先生まで逝かないでくださいよ……」

 まくしたてるような声が次第に勢いを失っていく。声は震えていって、やがて顔をうつむけてしまっていた。

 諸泉は那智へと顔を向けたまま、何も言わなかった。しばらくただ佇んでいたが、やがて左手が、彼の右手にそっと触れる。

 そのとき、音田がなにかを口にしたようだった。たった数音の動き。

 何を言っているのかはわからないが、千仁には音田が「ばーか」と言っているように見えた。

 諸泉がゆっくりと顔を上げる。

 今まで幽霊のように、ぼんやりと浮かんでいた音田だったが、腕を組んで、どこか悪そうな笑みを浮かべていた。幽霊らしくない姿だ。なぜだかそうすると、音田は急に先生らしくも感じられる。

 音田が何かを口にすると、諸泉が深くため息をついた。

「うるせぇ。俺だって先生のまえにひとりの人間だ。お前だってそうだろうが」

 諸泉の言葉に、音田は目を丸くしていた。やがてその口元が、そうだなと動いたように感じられる。

「気が変わった。悪いが、お前とは一緒にいけねぇよ。だけど、俺は絶対に忘れない。他の誰が忘れたって、俺だけはお前のことを忘れないから。それで許しちゃあくれないか」

「諸泉先生だけじゃない! 音田先生のこと、俺だって忘れない」

 諸泉と音田の間に那智が割って入った。

 音田は諸泉や那智が言ったことをゆっくりと吟味しているようだった。やがてひとつうなずく。

「よし、決まりだな。え? だが、それじゃあ、お前のことを知るやつは……」

 音田は諸泉に何かをお願いしているようだった。諸泉は戸惑っている。何を話しているのだろう。しまいには、音田は両手をあわせていた。

 そこまでされて、諸泉は音田のお願いを受け入れることにしたらしい。しょうがないな、と小さく呟いている。

「音田先生は、いったい何を」

 千仁のこわばっていた口が、ようやく動きだした。諸泉は困ったようにかすかに首を傾げると、苦笑する。

「ん? お前たちには、忘れてほしいんだってさ」

「……え」

 ぶわりと、熱風がふたたび吹いたようだった。気がつけば、どこかから泳いできたらしい魚が、音田のまわりを泳いでいる。

「それ、ひどくないですか」

 今まで千仁と同じように沈黙を続けていた政志が、低い声で告げてきた。振り返ると、怒りを帯びているような政志の目と目が合う。

「俺たちにとっても、忘れたくない、大事なことなんです。それを忘れろと言うのは、許せません」

 千仁も、政志と同じ気持ちであった。ここまでの不思議な、そして諸泉の背を追うばかりだった日を忘れろというのは、見過ごせないものだ。

 諸泉は、唇の端をあげてわらった。

「許さなくていい。これは俺たちのエゴだ」

「……っ」

 諸泉の言葉には、ためらう様子が欠片もない。きっぱりと言い切った諸泉に、戦慄がはしる。

 ざざ、と波の音が耳に響いたようだった。かすかな水しぶきが飛んできたようで、頬が冷たい。ほんの一瞬、ほんのわずかな間をついて、ぐん、と魚が近寄ってくる。

「せんせ……!」

 諸泉たちを呼ぼうとしたさなか、目前に迫っていた魚と目が合ったかと思うと、まるでブレーカーが落ちたかのように、視界が真っ暗になっていた。

 先生。

 意識が闇に溶ける寸前、ただ、諸泉の名を呼ぶことしかできなかった。

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