第17話
* * *
どこかでアラームの音が鳴っているような気がする。
千仁が目を覚ますと、見慣れぬ天井が目に入った。天井にしてはずっと低い。そう、まるで二段ベッドの下のような。
「えっ……?」
そこでようやく、ここはいつもの自分の部屋ではないことに気がついて、千仁は飛び起きた。飛び起きた勢いで天井に頭をぶつけてしまい、おもわず頭をかかえてしまう。
「えっと……ここは……学寮?」
今度はそろそろとベッドからおりて、部屋のなかを見回す。古びた二段ベッド、リノリウムの床はどこか見覚えのある場所だ。研修で何度か来たことがあるはずの、学寮だろう。
奥の共用スペースにはテーブルがあり、そこには一眼レフカメラがのせられている。千仁の使っているカメラだ。
奥の窓からは、朝の日差しが差し込んできている。
ぺたぺたと床を歩きながら、千仁は共用スペースにあるカメラへと近づいた。
なぜ自分がここにいるのか、まるで思い出せない。カメラの近くには旅行用の鞄もあり、どうやら数日滞在しているようだった。
カメラがあるということは、写真部の合宿でもしていたのだろうか。それなのに思い出せない、それは一体どういうことだろう。
千仁は疑問を覚えながらも、カメラを手に取る。
今まで写真を撮った履歴を再生させていくと、そこには夏の光景が広がっていた。
朝の海。政志の背中。防波堤。
昼の夏空。防波堤を歩く猫。
政志が映っているということは、やはり写真部の合宿なのだろう。見知った映像に安堵して、同時にもの寂しさがこみ上げてくる。
魚の姿が、そこにはない。
「……え?」
脳裏に鮮やかに浮かび上がった映像。
それは、夏空を泳ぐ、半透明の魚だった。
なぜ魚なのだろう。魚が写っている写真は一枚もないのに、なぜそれだけがこんなにも鮮明に浮かんでいるのだろう。とても不思議で、不思議なのに、何ひとつ分からないことが、とても悲しかった。
気がつけば眦が熱くなっていて、涙がこぼれおちそうになっている。
千仁はぐっと歯をくいしばって、涙があふれないようにこらえる。カメラを手にしたまま、ぱたぱたと寮室の外へと歩いていった。
寮室の外、廊下は夏の生ぬるい空気が漂っているように感じられる。人の気配がまるでなく、しんと静まりかえっていた。
政志は、どこかにいるのだろうか。広い学寮のなか、探すことができるのだろうかと不安になったが、不安はすぐに解消された。
振り返った廊下の端から、政志が歩いてくるのが見えたのだ。政志はどこか沈痛な面持ちで歩いていたが、千仁の姿に気がつくと、ぱたぱたと歩を速めて近づいてくる。
「政志」
「……千仁も、覚えてないか」
政志の声を聞いたら、もう駄目だった。なぜだかわからないのに悲しくて、寂しくて、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちてしまう。
「……千仁」
「ごめ、わからないけど、泣けてきちゃって、……、ごめん、すぐ、とめるから」
「いい」
政志の声も、かすかに震えているようだった。彼は今にも落としそうだったカメラを受け取り、かわりにハンドタオルを押しつけてくる。
千仁がタオルに顔を埋めると、すこし湿っているようにも感じられた。
「俺たち、写真部の合宿に来てて……、人には見えない何かにおそわれて、記憶をなくしちゃったんだって」
「そう、なんだ……」
人には見えない何か。千仁が幼い頃からよくみるものだ。政志もそう、だっただろうか。
何かは人に対して様々な効果をもたらす。記憶をなくしてしまってもおかしくない。
仕方のないことなのだろう。けれども、とても悲しかった。
「わたし、大事な記憶をわすれちゃった気がする……」
「……そう、だな」
タオルに顔を押しつけたまま、くぐもった声で告げると、そっと肩に触れてくる掌があった。
彼の掌の熱だけが、ここが現実であると告げてくるようで、より寂しくなってしまう。
夏空を泳ぐさかな。
記憶に残っているのは、ただ、それだけだった。
* * *
久しぶりに歩く廊下は、よどんだ空気におおわれている。夏休みで生徒たちもおらず、窓がぴっちり閉められているせいだろう。
酷暑の日差しの下を歩いてきた身としては、より息苦しくなった気がして、つらいものだ。
はやくこのつらさから解放されたい。その思いから、那智は無心に廊下を歩いていた。
目指すは教職員棟にある端の部屋だ。
「失礼しまーす」
那智が目的の部屋にようやくたどり着き、ノックをしたが、返事はなかった。だが部屋の扉はぴっちりと閉められていて、さらに電気が点いていることから、人はいるのだろう。
これは入っても平気だろうと判断した那智は、容赦なく扉を開いた。途端に、顔を冷房の冷気が撫でていく。
「ん?」
部屋は壁面がねずみ色の棚と本棚で埋められており、真ん中に四つの机が並べられている。そのうちの三つは空いていて、残りのひとつ、一番窓に近い席に、目指していた人物、諸泉は座っていた。
椅子の背によりかかってだらけており、大層やる気のない姿である。手にうちわを持っているところからしても、やはりやる気がないのだと思われる。
「先生。仕事はどうしたんですか」
「んー? 明日の俺が頑張るって」
「この不良教師め……」
かつての教え子にだらけた姿を見られたところで、改めるつもりはないらしい。それでこそ諸泉だ。那智は一気に脱力して、そのまま近くの椅子を拝借した。
「那智こそ、こんなところまで来ていいのか」
「大学生は夏休みが長いもので」
「あー、そういやそうだったなぁ」
諸泉は天井を見上げながら、けだるげに呟いていた。
写真部の夏合宿という名目で学寮に行って、そして本当に写真部の合宿を終えてから、一週間が経とうとしていた。
合宿で過ごした数日間は短いものであったが、那智の人生に大きく関わる数日間であったことは間違いないだろう。
思い返せば、はじめに那智の生き方を変えたのも、写真部の合宿だった。あのときはまだ高校一年生で、ただ、息苦しい毎日を送っていたときのことだ。
息苦しい日々を変えたのは、諸泉と、音田だった。三人の共通点である、人には見えないものを見る目についての話から、カメラの話、そして自分についての話と、様々なことを語り合ったのだ。
先生たちの背中ばかりを追う、少し変わった生徒だったかもしれない。それでも楽しい日々だった。
音田が死ぬまでは。
音田が死んでから、諸泉は変わってしまった。存在感のある背中はすっかり細くなり、薄いものへと変貌を遂げてしまう。
それでも教師として、教壇に立つことをやめなかった。那智がそばにいると、諸泉は音田のことを思い出すからだろう、時々辛そうにしていたが、それでも「先生」という仮面を外すことはなかった。
だからこそ那智は、卒業して生徒という立場から解放されたあと、ただの青年として、諸泉に関わろうと思ったのだ。
そして――また合宿を経て、諸泉は変わった気がする。変わったというよりも、元に戻りつつある、だろうか。背中は相変わらず細いままだが、今にも消えそうな生気のなさは、もう見られない。
諸泉が変わっただけ、那智も変わっているのかもしれないと、ぼんやりと思う。
「それで? 何しにここまで来たの」
諸泉はよりかかっていた椅子の背から身体をはなし、座りなおした。真面目な顔付きになる。
那智は学校を卒業してからは、あまり職員室には近寄らないようにしている。もっぱら顔を出すのは部室だ。もちろん、今日ここに来たのには理由があってのことだ。
那智はごそごそと、鞄から目的のものを取り出した。大きめの封筒。そこには、写真がおさめられている。
「これ、この前の写真です。ふたりに見られたらマズイものだけですけど」
「ああ……」
諸泉は封筒を受け取ると、中身を取り出していた。そこには、那智が撮った写真が、何枚か入っているのだ。
諸泉がどこかを見上げている写真。視線の先に見ているものは写っていないが、魚がいたのは間違いないだろう。
千仁たちが何かを指さしている写真。そして四人で並んで撮った写真。
この写真のことを覚えているのは、諸泉と那智だけだ。千仁と政志のカメラには、記憶に関わりそうな、説明の難しい写真は残されていない。記憶を喰われたふたりが意識を失っている間、データだけ移して消してしまったのだ。
「……俺も記憶、喰われるかと思いました」
感慨深げに写真を眺めている諸泉は、那智の言葉に、写真から目を外した。相変わらずけだるそうな目であるが、眼光は鋭い。
「先生たちのことだから、また自分たちだけで背負いそうで」
許さなくて良い、ときっぱり告げてきたとき、戦慄がはしった。ああ、またふたりは抱え込むのかと思って、足が竦んだのは間違いない。
だが、音田のまわりを泳いでいた魚は、千仁と政志の記憶だけを喰って、消えていったのだ。
「那智のことだから、また無茶をして記憶を取り戻しにいくんじゃないかと思って」
諸泉はふっと目をやわらげる。口元にはからかうような笑みが浮かんでいたが、前科のあるものとしては反論できない。
「それに、俺以外にひとりぐらい、覚えてる奴がいても良いんじゃないかなって……、まあ、これもエゴなんだが」
海に浮かぶ音田の姿が、ふと思い出された。
音田はあれから何かを告げると、どこか満足そうな、それでも寂しそうな表情を浮かべて、その姿を薄れさせていった。まるで、記憶のようだ。
忘れない、と告げたが、どこまで覚えていられるのだろうとも思う。
人は大切な何かを、いつまで覚えていられるのだろう。少しずつ薄れていくのは声か、姿か――両方か。
そんなとき、思い出が残っていれば、忘れずにいられる助けになるのだろう。
「ま、でも記憶なんて曖昧で、だからこそ不思議なものじゃないですか?」
「ん?」
「意外と、思わぬきっかけで、隠してあった記憶なんかがよみがえったりして」
例えば、
* *
部室棟の冷房は、効きが悪い。理由は明確で、古いからである。
「暑い……」
どこか埃っぽい部室棟の一角、狭い写真部の部屋では、千仁の声が数分おきに同じ単語を繰り返している。同じ単語を発するたびにしまったと後悔して次は口にしないと思うのだが、身体は正直なようだった。
何度目かの単語を発したところで、千仁の集中力にも限界がおとずれた。千仁は向き合っていたパソコンの画面から目をはなす。
入り口近くに設置されているオンボロの冷房をにらみつけるが、にらみつけたところで、そこから吐き出されるのは生ぬるい風でしかなかった。
「はぁ……政志はよく平気そうな顔でいられるね」
千仁は部屋のなかほどに置かれた机を振り返った。そこには政志が座っていて、ひとことも暑いなどと言うことなく、アルバムのページを捲っている。
「平気じゃない」
千仁の言葉が不服だったらしく、政志はむっつりとしたようすだった。むっとしたまま上げられた顔には、ありありと、不満ですといった表情が浮かんでいた。
「まあ平気じゃなくてもいいや。変わって?」
「なんて強引な……」
政志は心底嫌そうな顔をしていたが、千仁が強引に椅子をよせると、あきらめたように椅子ごとパソコンの前へ移動していた。
「うわ、暑いなここ」
「そうでしょ」
涼しげな顔をしていた政志だったが、座って一分もしないうちに、例の単語が出てしまう。どうやらパソコンの排熱のせいか、それとも場所が悪いのか、パソコンまわりが特別に暑いようだった。
「やっぱりこの部屋で作業するの、良くないよね。でも家にこんなパソコン無いしなあ」
千仁たちは、この前の合宿で撮った写真を現像しているところだった。現像作業には、特別なデータ形式を扱える画像編集ソフトが欠かせない。だがこのソフトはそれなりのスペックがあるパソコンで無ければ動かないし、千仁の家には高スペックのパソコンなぞ置いていなかった。
どこか涼しいところで作業をしたい。となるとパソコン室だろうか。でも夏休みは使えないし、などと暑さでのぼせた頭でぼんやりと考える。
ふと、政志がマウスを動かす手を止めていた。
「じゃあ、家に来る?」
「え?」
政志が何を言ったのか理解できず、千仁はおもわず政志を見上げてしまう。政志はふたたびマウスを動かしはじめて、こちらを見ることはない。
「家、パソコンはあるし。来る?」
「……えっと」
政志がどんな気持ちでたずねてきたのか分からず、千仁は答えに詰まってしまう。不意に政志の横顔が大人びて見えた気がして、ぐっと息をのんでいた。
「……冗談だよ。アルバムが重すぎて持って行けないだろ」
「……そうだった」
政志はちらりとからかうような視線を向けてくる。そこでようやく硬直がとけて、千仁はどぎまぎと手元のアルバムに視線を落とした。
合宿から帰ってきてから、ここのところ、政志に調子を狂わされているような気がしてならない。合宿に行くまでは、ごくごく普通のクラスメイトとして接していたはずであるし、今もそのつもりであるけれど、どうしてもうまくいかないのだ。
もしかすると、合宿で消えてしまった記憶に、何かがあったのかもしれない。気になって仕方がないし、何度も思い出そうとしているのだが、ぼんやりと薄墨がかかったようになってしまって、どうしても思い出せないのだ。
千仁はアルバムのページを捲った。そこには過去の写真部での活動記録が残されていて、千仁たちと同じように、学寮で合宿をした記録も残されている。
何度かアルバムは見ていたが、こうして合宿を終えてから見ると、また新たな発見があるものだった。
「あ、那智さんだ」
ページを捲ると、大きく現像された写真がでてくる。どうやら夏合宿での部員の集合写真のようだった。この頃は人も多かったようで、今の六倍は部員がいるように見える。今が少ないせいもあるが。
政志も気になったのか、パソコンから離れてこちらへと近づいてきた。現像が進んでいないではないかと思ったが、暑いから仕方がない。これくらいは許してやるかと、政志にも見えやすいようにアルバムを半分ほど回転させる。
「ほんとだ。これ、諸泉先生じゃない?」
「あ、ほんとだ」
那智のすぐ近くには、諸泉の姿もあった。今よりも随分と威圧感を覚えるが、それでも癖のある黒髪と、眼鏡をかけた顔は、間違いなく諸泉だろう。
「へぇ……、あれ、この人は、先生なのかな」
「ん?」
諸泉とは反対側に、もうひとりの男の姿があった。生徒には見えないし、那智のようなOBにしては歳をとっているようにも見える。
「んん?」
そうすると、写真部にはもうひとり顧問がいたのだろうか。聞いたことはないが、なぜか見覚えがあるような気がしてならないのだ。
ゆら、と脳裏で、寄せては返す波のように、何かが浮かんだ気がした。
夏空を泳ぐさかな。学寮の玄関に漂うさかなたち。
さかなの向こうに佇む――ひとりの男。
「あ」
「……あ!」
(了)
忘却のブルー 志水了 @syusuirs
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