第7話

「それ……魚にやられたのか」

「はい」

 那智がうなずくと、諸泉は顔をしかめた。そして勢いをつけて立ち上がる。椅子が床を滑る音がひびく。

「冷やしたほうが良いぞ。ちょっと待ってろ」

 諸泉はそれだけ言うと、食堂の隣にある調理室へと消えていった。調理室からごそごそと音が聞こえてきたかと思うと、すぐに戻ってくる。

 諸泉の手に、保冷剤が握られていた。

 諸泉は顔をしかめたまま、タオルで巻いた保冷剤を渡してくる。那智はありがたく受け取って、掌に当てていた。ひりひりと痛んでいた掌が、冷やされて気持ちいい。


「気持ち悪いとかはないか?」

「はい。本当に手が赤くなっただけです」

「そうか」

 諸泉はため息をついて、椅子に座る。安堵しているような、困っているような、そんな顔だ。


「先生」

「ん?」

「俺は覚悟を決めてきてるんで、俺のことまで気にしないでください」

「だが、そうは言ってもな……お前が俺の教え子であることは事実だぞ」

「わかってますよ。だからこそ、です」


 こういうとき、諸泉が強情なことを那智は知っている。やわらかな口調のままだが、こちら側に一歩も立ち入れまいとする心。その頑なさを知っているから、那智は強く口にしていた。

 諸泉は口をつぐみ、目を細めている。

 眼鏡の奥にひそむ眼光は鋭く、いつもの穏やかさはなりをひそめていた。そんな諸泉を見るのは珍しくて、那智は思わず息をのんでしまう。

 だがそれでも負ける訳にはいかないのだ。那智のために。何よりも、諸泉のために。


 しばらくにらみ合いを続けていた二人だったが、やがて諸泉があきらめたように、ため息をついていた。

「わかったよ。俺の負けだ、負け」

 困ったように苦笑を浮かべる表情の穏やかさは、いつもの諸泉だ。

 諸泉の強情さに押されないと決めていたとはいえ、いつもの姿に戻ってもらえると、安心するものがある。

 那智も自然と笑みをこぼしていた。


「先生、ため息ばっかりついてますよ」

「誰のせいだと思っているんだ。誰の」

 諸泉の声が低くなる。彼は指をひゅっと伸ばしてきて、額を軽くはじいてきた。

 静かな食堂に、指の音が響きわたる。軽くても痛みはそれなりにあり、那智は掌で額をおさえていた。


「って。痛いんですけど」

「おう、覚悟あるって言ったのは誰だ?」

「ひどい……まあ、痛いくらいなら良いんですよね」

「ああ……。問題は、野内だな」


 ロビーへやってきた時の、きょとんとした千仁の顔が思い出される。

 まっすぐな黒髪は横たわっていたせいか、すこし癖がついていた。大きな瞳は何故ここにいるのか分からず、どこか不安に揺れているようだった。

 千仁は写真部で合宿をすることに憧れていたらしい。

 偶然、那智たちの話を聞いていた千仁が政志を巻き込んでついてきたらしいが、その記憶もすべて抜け落ちているようだった。


 学寮の入り口、塀に隠れるようにしてへばりついていた千仁たちの姿は、驚きとして記憶にこびりついている。那智たちに見つかったあと、空を泳いできた魚に、急に襲われたときのことも、記憶に焼き付いていた。

「……どうすれば、戻るんでしょうね」

「わからん。そもそも戻るのかどうか……」


 宙を泳ぐ魚について、わかったことは少ない。

 目を合わせると襲いかかってくること。

 那智たちが触れると、やけどのような症状を負うこと。ただ、平気なときもあり、法則性はよくわからない。

 記憶を抜かれる者と、抜かれない者がいること。

 二人はわかったことをそれぞれ挙げていったが、あまりの少なさに愕然とし、思わず机に伏していた。

 

「せめて俺の記憶を持っていってくれれば良かったのに……」

 諸泉はうなだれたままそうつぶやくと、ゆっくりと顔をあげる。

 その目は、那智を見つめているようで、何も見つめていないようだった。


 諸泉は、時々そんな目をする。何も見ていない、まるで死んでしまったような目の色。

 彼がそんな目つきのときは、きっとあの日のことを考えているのだろう。


 諸泉はどこか虚ろな目のまま、ゆっくりと唇をひらいた。

「俺の記憶をもっていかれないってことは……、魚の向こうに、あいつがいるんだろうか……」

「……どうでしょう」

 那智の脳裏に、うっすらとよみがえるものがあった。

 カメラを持つ、諸泉ともうひとりの教師。諸泉と同い年ということもあり、那智の目からは、二人は友人のようにも見えた。

 あの時はまだ、諸泉は今よりもくっきりとした存在感があったはずだ。


 少しの間、ぼうっとしていた那智の目に、なにかが揺れたような気がした。

 ほんの一瞬、まるで水面が揺れたかのような――。

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