第7話


 * * *


 リノリウムの床は、遠くまで続いている。

 学寮は一学年全員泊まることのできる研修施設で、寮室もいくつもある。そのため、寮室をつなぐ廊下は延々と続いていた。

 千仁がはじめて研修で来たとき、ずいぶんと広い場所だ、と関心したものだが、今はその広さがどうにも憎く感じられた。

「……暑い……」

 廊下には冷房が設置されていないらしい。窓を開けてはみたものの、気休め程度にしかならなかった。

 何より、今の行動はどうしても暑さを呼び起こすものだ。千仁は手にしているモップを恨めしげに睨んでしまう。

 視線を先に送ると、そこには那智の背中が見える。ずっと遠くには、諸泉の姿もあった。

 那智は掃除機をかけていて、諸泉は千仁と同じく、モップを手にしている。ふたりとも、やる気は無さそうだったが、手は止まることなく動いていた。

 これも請け負った仕事のひとつだ。何しろ怪奇現象のせいで、学寮で働いていた人たちが皆逃げ出してしまったので、こういった仕事が滞っているらしかった。そのため、代わりに請け負うことにしたのだ。

 請け負うとはいっても、学寮のなかを魚がさまよっている以上、すべてのことができる訳ではない。できるならば一刻もはやく魚をなんとかしたいところだ。

 魚をなんとかしたいところなのだが、簡単に駆除して終わりにできないのがむなしいところでもある。何せ神出鬼没の得体のしれない代物である。おまけに触れると記憶を持っていかれることも多い。困ったものだ。

 諸泉の話を聞いてから、四人であれこれこれからの対策について話し合った。

 諸泉たちは千仁の記憶をすべて取りもどすことが重要だと語っていた。そんな中、那智が切り出したのは、千仁の記憶を奪ったと思われる魚を見つけ出して、鈴を鳴らして近づいたらどうかというものだった。

 千仁の記憶が戻ったときも、鈴が鳴っていた。言われてみれば那智の言う作戦はまっとうなものに思える。

 だが、それに猛反対したものがいた。政志だった。それまで黙って話を聞いていた政志が、顔を赤くさせて反発したのだ。

 それは危ない。もしもう一度接触して、せっかく取り戻した記憶をもっていかれたらどうするのだと言う政志の言葉は、もっともなことだ。千仁も同意できる。

 しかし、今は他に方法がない。だから千仁が作戦を行いたいと口にして、その場は収まっていた。

 収まっていたが、政志の機嫌は目に見えて悪くなっていた。

 今は遠くにいる諸泉のさらに向こう、米粒のような姿になっているので、表情はわからない。だが、千仁と向き合っているときの政志の機嫌は、とても悪かったことは間違いない。

 千仁がモップを手に突っ立っている間に、那智が掃除機をかける手を止める。那智は千仁の方向を振り返り、千仁を見て、きょとんと首を傾げた。

「……気になる?」

「え?」

 那智はかすかに笑っているように見えた。言葉の意味がわからず、千仁が思わず問い返してしまうと、次に那智は反対の方向をふりかえる。

 視線の先には、諸泉と政志の姿があった。二人とも黙々と掃除をつづけているようだ。千仁たちが見ていることには気がついていない様子である。

「珍しくぼんやりしてるから」

「そうですか? ぼんやりというよりはうんざりかも」

「あー、わかるわー。先生を放っておけなくて付いてきたは良いものの、こんなに仕事を頼まれてきたとは思わなかったし。うんざり」

 確かにぼんやりしているかもしれないが、もしかするとそれは暑さのせいかもしれなかった。それとも、この押しつけられた仕事のせいなのかもしれない。

 那智も同じことを思ってくれていたのか、強くうなずいている。

「でも、それだけじゃあないでしょ。気になるのは先生? それとも政志に?」

 那智は千仁の話にうなずきながらも、ずばりと要点をついてきていた。

 千仁は那智の顔を見つめたまま、口ごもってしまう。

 誰が気になっているのかを問われれば、ここにいる全員と答えるだろう。けれどもそれは表面上のものにすぎない。

 諸泉のことは、ずっと気になっている。けれども、諸泉のこと以上に、政志のことも気になっていた。

 いつからだろう。那智が言い出した作戦に猛反対したときだろうか。それとも、まっすぐに聞きたいことを口にした姿勢からだろうか。

 考えれば考えるだけ、なぜなのかが分からなくなっていた。

「那智さんは、どうなんですか」

「ん?」

「先生が気になって追いかけてきたんですよね。今もそうですか?」

 かすかに笑っていた那智は、ふと真顔になっていた。ふたたび諸泉へと視線を向ける。

 諸泉を見ているはずの目は、ずっと遠くを見ているようにも見えた。

「今も……そうかな。俺が気にかけてないと、先生のことを気に掛けてくれる人、いなくなりそうだし」

「だから、今も写真部に顔をだしてくれているんですか」

「ま、そうかもね。でもここにくれば、音田先生が残した機材があるし、それを貸してもらえるっていう気持ちはあるかも」

 千仁をふりかえった那智は、やわらかく笑う。そこには思慕の念がこめられているように見えた。

 諸泉や那智がここにたどりつくことになった音田先生は、どういう人なのだろう。

 話を聞くごとに、かつての音田がどんな人物なのか、気になってくるばかりだ。生前の姿は、千仁にもつかめるのだろうか。

 千仁が思いを馳せていると、のろのろと掃除していた諸泉と政志が急にふりかえってきた。ふたりが唐突にふりかえったので、後ろめたさもあり、千仁はおもわず肩をふるわせていた。

「え? 何?」

「何だ?」

 政志たちは真顔である。さらに千仁たちの声が聞こえているのかいないのか、真顔で走ってくるので、絵面は怖い。

「えっ何々、怖いんだけど!」

 千仁は抗議の声をあげるが、それすら聞いていないようである。ふたりとの間をかなり詰めてきたところで、ようやく政志が後ろを振り返った。

「出たぞ」

「え?」

 出たとは一体何か。そう思ったのはわずかな間だった。

 ふたりが慌ててやってきて、出たと騒ぐなら、それは魚に他ならない。

 千仁はおもわず那智と顔を見合わせていた。それから政志たちへと顔を向ける。

 政志を見たとき、彼はどこかこわばった表情をしていた。だがそれは一瞬で消えて、政志はすぐに後ろをふりかえる。

 そして、一点を指し示していた。

 政志が指さした先には、ゆらゆらと泳ぐ魚の姿がある。あれが千仁の記憶を奪った魚なのかは、ここからでは分からない。

 千仁はポケットにしまっていた鈴を掌に取りだしていた。掌にのせた鈴は金色で、軽やかな音が鳴る。

 軽やかな鈴を握りしめると、不思議と冷たさがあった。かの先生が持っていたという鈴。鈴の冷たさに背を押された気がして、千仁は廊下を歩きはじめる。

 魚のいる方向へ歩いていくと、少しずつ、視界が青に変わりつつあるようだった。まるで自分が水槽のなかへ取り込まれたような感覚にもなる。

 視界が青に変わるなかで、今度は魚の輪郭が、はっきりと象られつつあるようだった。形がはっきりとすればするほど、はじめに出会ったあの魚ではないかという思いが強くなってゆく。

「千仁」

 魚に気持ちを集中させていたせいか、ごく近くで声が飛んでくるまで、政志の存在に気がつかなかった。

 ぎょっとしてふりかえると、すぐ後ろに政志の姿がある。

 政志は真剣なまなざしで、目の前を泳いでいる魚を追っていた。ときおり手が前に出てくるのは、何かあったとき、千仁を止められるようにとのはからいだろうか。

 政志の行動に嬉しさを抱きながら、千仁は魚へと向き直る。

 気がつけば、魚との距離はぐっと狭まっていた。片手を伸ばせば、すぐにでも魚のうろこに触れられそうだ。

 触れてしまえば、記憶がもっていかれてしまうかもしれない。学寮で目覚めたときの、さまざまな記憶が抜け落ちてしまったことを思い出して、千仁はわずかにためらっていた。

 それでも、ここで引き返すことはできない。

 千仁はぐっと唾をのみこんで、掌を伸ばす。もう片方の手には鈴をもち、りんりんと鳴らしてみせる。

 薄く青みがかった部屋のなか、りぃん、りぃんと鈴の音が鳴る。

 ためしに鳴らしてみせた鈴の音。効果は絶大だった。

 ゆるやかに千仁へと泳いできていた魚は、鈴の音にふいと向きを変えていたのだ。そして勢いをつけて離れていこうとする。

「逃がすか!」

 唐突なことに、今までのためらいなど一瞬にして吹っ飛んでいた。

 千仁はぐいと手を伸ばす。気がつけば、半透明のうろこに触れていた。

 実体がないはずのうろこは、触れると奇妙な感触があった。ひんやりとした、ゼリーに触れているような感覚。

 これは何だろう。千仁が疑問を抱いたとき、その感触が「水」であることがわかる。


 暗い、暗い闇。そして、伝わるのは水の感触。


 暗い夜の海だった。街灯もない海辺で、ただ遠くに灯台のともしびがあるだけの暗い海。

 それでもかすかな月明かりが、目の前に立つのが諸泉であると知らせてくれる。

 今よりも少しだけ若い、諸泉の姿。彼はあらく呼吸をくりかえしていた。なぜかおびえたような目をしていた彼は――、唐突に表情を変える。

 驚きに目をまるくしたのち、ふっと、目の前から諸泉の姿が消えていた。

 魚のうろこが水であるとわかったのは、何かの記憶が流れ込んできたからだ。冷たいと思っていた感触が、たちどころに熱を帯びる。

「っ、痛っ……!」

 とつぜんのことに、千仁はおもわず手を離していた。すると、かろうじてのところでつかめていた魚が、すいと離れていくのがわかる。


「っ……!」

 遠ざかる魚の姿に、考える前に手を伸ばしていた。ふたたび魚のうろこをつかんだと思うと、熱い感触が伝わってくる。

「千仁!」

 横にいた政志が、千仁を止めるためか、腕をつかもうとしてきた。ぐっとつかんだ政志の手が、千仁の手から魚を離そうとしているのだ。

 今、腕を放すと、魚を逃がしてしまう。それは駄目だ。

 千仁は政志の腕をふりはらおうと、大きく身体を動かしていた。同時に、手にしていた鈴の音が鳴る。

 りぃん、りぃんと高くなる鈴の音。


 学寮の廊下を走ってゆく誰かの背中が見える。あれは、諸泉だ。

 待て、と発せられた言葉に、諸泉が顔だけ後ろを振り向いて、こちらを見る。おびえたような表情。

 悪い、と諸泉は言い捨てて、玄関へと走り去ってゆく。


 りぃん、と鈴の音がひとつ聞こえて、今度は別の映像が流れ込んできた。


 塀に隠れて、塀越しに諸泉たちをうかがう千仁。ふりかえると、どこかあきれたような政志の顔。

 あきれた政志の顔が、誰かの顔と重なっていく。

 重なった先は、少年の顔だろうか。今の政志よりもずっと幼く、あどけない表情だ。


「う、」

 記憶の奔流にのまれていた千仁は、政志のうめき声に、現実へともどってきていた。

 ごく近くで、政志は千仁の腕をつかみながら、うつむいている。面には苦しみが浮かんでいて、千仁は魚と触れていた指先をはなしていた。

 指先が離れていったとたん、しっかりと感じていた魚の気配は消え去っていった。

「政志」

 名を呼ぶと、政志はふらりと顔をあげていた。どこか憔悴したような表情。彼も、何かを見たのだろうか。

「……平気か」

 大丈夫なのと聞くまえに、政志が問いかけてくる。政志だってつらいだろうに、それでも千仁を気遣ってくれるのか。そう思うと、こわばっていた指先があたたまるような気がしていた。

 千仁はうなずく。

「うん。私よりも、政志のほうがひどい顔してると思う」

「そう……か?」

「うん、そうだよ」

 政志は驚いたかのように、瞬いていた。強めにつかまれていた手が、そろそろと離れていく。腕には、かすかに赤い痕が残されているようだった。

「うーん、ふらふらする……」

 政志は額に手をあてて、深く息を吸っていた。やはり、彼も記憶が流れこんできたのだろうか。

「政志も見たの?」

 記憶を。千仁も身体はすこしふらついていた。千仁も自身を落ち着けるように、ひとつ、深呼吸をする。

 そうしているうちに政志も落ち着いてきたようだった。顔色はずいぶんとよくなっている。

「見た」

 政志は言葉すくなにそれだけ呟いていた。政志は眉をよせて、千仁を見ている。

「顔色、悪いな」

「それは政志も」

 自分の顔色を見ることはできないが、政志と同じように悪くなっているらしい。

 ふたりとも顔色が悪いのは、同じものを見たからだろうか。それとも、千仁の――千仁のものなのか――記憶が急に戻ってきたからだろうか。

「……見たのって、音田先生の?」

「……うん」

 千仁が問いかけると、政志はぐっと喉をつまらせていた。やはり、同じものを見たのだ。

 きっとあれは、音田先生が死ぬ間際の記憶だ。

「野内、大迫」

 千仁のうしろから、諸泉の声が聞こえた。振りかえると、諸泉が息を切らせてやってくるところだった。那智の姿はない。

「大丈夫か」

「なんとか……那智さんは」

 諸泉はふりかえって、廊下の奥を指さした。

「あっちにも魚が出たから、追いかけてみるってな。深追いはするなって言ったが……」

 諸泉の表情は苦い。ひとりで行ってしまった那智のことを心配しているのだろう。

 苦い顔の諸泉と、たった今、記憶に流れ込んできた諸泉のおびえているような顔が重なっていた。

「先生……」

「どうした。具合が悪いのか?」

 諸泉はいつになく優しい声音で、ふたりの顔を交互に見やっている。

 純粋に心配されていることに、たった今見た記憶のことを伝えることは、できなかった。

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