第6話

 * * *


 諸泉は写真部の夏合宿、という名目でここに来ているが、誰もいない学寮に来るにあたり、いくつも仕事を請け負ってきたらしい。その仕事が何かは、千仁たちも身をもって知ることとなった。

 いま、千仁たちの目の前には、白いかたまりがある。

 かたまりの正体はふんわりとした白い布。シーツ類だ。それが乱雑に畳まれたまま、いくつもいくつも積み重なっていた。高さは千仁の胸のあたりまでくるぐらいだろうか。

 さらに、ごく近くから洗濯機がまわる、ごうんごうんという音が聞こえてくる。

 それもひとつだけではなく、いくつか重なって聞こえてくる。洗濯機は三つあるから、重なって聞こえるのは道理だろう。おまけにあるのは洗濯機だけではなく、乾燥機もあるのだ。

 洗濯機とシーツに埋め尽くされた部屋は、ずいぶんと狭い。

 この狭い部屋のなかに四人は閉じこもって、シーツの山と格闘していた。

「……、これ、まだ続くんですか」

 乾燥機から取り出されたシーツを畳みながら、千仁の口からは愚痴がこぼれおちていた。

 なにせ、朝食を食べてからずっとシーツと格闘しているのだ。

 千仁たちが写真を撮りにいっているあいだ、諸泉たちは各部屋のシーツを集めていたらしい。それを洗濯機にいれて、洗い終わったら乾燥機にいれて、乾燥が終わればきっちりとたたんで。またシーツを洗って、乾燥機にいれて、シーツをたたんで、エンドレスエンドレス。ずっとこのくりかえしだ。

 こらえ性のない性格と相まって、千仁はすでに仕事を放り投げたい気持ちでいっぱいだった。

 そっと政志を見るが、彼は飽きたようすもなく、洗濯機にシーツを放り込んでいる。なんで耐えられるんだ。おかしい。

「続くぞ。何せ学寮には俺たちしかいないからな」

 千仁の口からこぼれおちた愚痴を諸泉はさらりとかわしてくる。ただ、まだまだ続くとか言いながら、諸泉はすでに疲弊したようすだ。証拠に乾燥機からシーツを取り出している手つきがずいぶんと投げやりである。解せぬ。

 千仁が心の中で愚痴を言っているなか、政志がふと手を止めていた。

「学寮、俺たちだけかと思ってましたけど。違いましたね」

 政志の言葉に、諸泉の手が完全に止まっていた。千仁と背を向けている那智の動きもぱったりと止まったように見える。

 なんとなく気がついてはいたが、あの「文貴」と呼ばれる男の存在は、この二人にとって、触れてはならない存在のようだった。

 千仁も気になって仕方がなかったのだが、二人の沈黙を見てしまったあとでは聞くにも聞けない状況だったのだ。

「俺たちは押しかけたやつらかもしれませんけど。話を聞かせてもらう訳にはいかないんですか?」

「っ、まさ……」

 千仁は政志を止めようとしたのだが、政志がちらりと投げてよこした目に、続く言葉が止まってしまっていた。

 政志の目は、真剣なものだった。からかうまでもなく、ただ、まっすぐな目。

 いつだって、政志はまっすぐな目をしている。千仁は彼がまっすぐな目をみせるたびに、少しだけ追いつめられたような気分になるのだ。

 今だって、この場を切り抜けるために止めようとしたことを見透かされたような気持ちになっていた。だから、喉まで出ていた言葉が止まってしまっていたのだ。

 政志のまっすぐな目に宿る気持ちは、諸泉たちにも伝わったようだ。

 手を止めていた諸泉は、ため息をひとつ、つく。

「そうだな。このままじゃ不公平だ」

 諸泉はぽつりとつぶやくと、休憩するかと呟きながら腰を下ろす。仕事は山のようにあるのだが、仕事をこなしながら話すことではないようだ。

 千仁たちも諸泉に合わせて、作業の手を止める。

 諸泉はすこし遠くを見るように目を細めると、そっと口をひらいた。

「音田文貴。聞いたことあるか」

 諸泉が口にした名前は、はじめて聞くものだった。芸能人や有名人では無いようだ。千仁はゆるりと首を横にふる。

「さっきは名前で呼んでしまったが……本当は音田先生と呼ぶべきだったのかもしれない。俺と同期、国語の先生だ」

「先生……なんですか」

 諸泉がいう「さっき」とは、魚の群れのなかに立っていた、あの男が現れたときのことだろう。あの男は、先生だったのか。

 諸泉の同期ということは、高等科の先生なのだろう。だが、千仁は名前すら聞いたことがないのだ。

「音田は写真部の顧問だった。人がいないからって俺もよく付き合わされてなぁ……」

 諸泉は懐かしそうに笑っていた。近くに座って話を聞いていた那智もうなずいている。那智も写真部と言っていたから、その頃の写真部を知っているのだろう。

「部員は今よりもいてな。夏はここで合宿をしていた。……もう、あれから三年になるのか」

 諸泉の言葉に、なぜだろう、背筋がひやりとするのがわかる。


「三年前の夏合宿。文貴は死んだ。海で溺れて死んだんだ」


 諸泉の声は、冷たさを帯びている。部屋のなかにじわじわと響いていくようだ。

 予想はしていたが、想像するのと、現実を目の前に突きつけられるのは、重みが違う。

 彼が死んだのなら、千仁たちが目にした幻はこの世のものではない「何か」なのだ。

 背景を理解するにつれ、今起きている現象が何か、諸泉たちがどうして怪奇現象と騒がれている学寮に乗りこんできたのか、少しずつ分かってきた気がする。

「どうして……なんですか」

 政志がぽつりと問いかけるように、呟いていた。ひとりごとにも似た声音だったが、なぜだろう、部屋のなかに響いているようだった。

 政志の言葉を聞いたとたん、諸泉の表情がはっきりと変わっていた。眼鏡の奥に見える目は、さっと翳りを帯びたようにも見える。はっきりと、千仁が見ていた生気のなさが浮かび上がっているように感じられるのだ。

 諸泉はあきらかに沈んだようすだったが、それでも話を続けてくれる。

「この学寮に魚が出るのは、昔からなんだ。こうして人を襲うってことは滅多になかったが……あの日、俺は魚に追われていた。追われて、岩場を走りまわって……海に落ちたんだ」

 淡々と、感情をおさえた声。

 無理をしているのはわかっていた。だがそれでも、諸泉の言葉を止めることなんて――できない。

「俺のすぐあとを追ってきたのが、文貴だった。海に落ちた俺を助けるために飛び込んで、それで……」

「先生。もう、いいですよ……」

 淡々と話す諸泉を遮ったのは、那智だった。うつむいた諸泉の表情はうかがえない。ただ震える掌が、隠された表情を知らせてくれるようだった。

 諸泉たちの過去をまえに、誰もが口を閉ざしたままだった。洗濯機がまわる音だけが静寂を埋めていたが、洗濯機もやがて高い電子音をたてて止まってしまう。

 完全に静寂が包み込むなか、諸泉は顔をあげていた。そこに映る面はもういつも通りのもので、翳りはきれいに拭いさられている。

「悪いな。後味の悪い話で」

 存外さっぱりとした声音だったが、つくっているのはすぐに分かった。千仁は黙ったまま、首を横に振る。

 諸泉を追いつめるつもりは欠片もなかった。

 諸泉がどうしていつも生気のない背中を見せているのか、気になっていたから、話を聞けたことは良かったのかもしれない。

 けれど、こんな話だとは思っていなかったし、こんな顔をさせるために追いかけていた訳では無かったのだ。

 じわじわと後悔がたちのぼってくる。諸泉たちが何故ここにいるのかを知らなかったとは言え、もっときちんと考えていれば、彼らが抱えているものが重いものであると気がついたに違いないのだ。

 今はただ、じわじわとたちのぼる後悔をかみしめることしかできない。

 千仁が後悔をかみしめている間に、諸泉は気持ちを切り替えているようだった。腰をあげ、動きを止めた洗濯機に歩みよる。洗濯機から取り出されたのは、いくつも皺を寄せたシーツだ。

「学寮で怪奇現象が起きているって話を聞いたのは、去年あたりからだったかもしれない。はじめはほんの噂で済むぐらいのかわいいもんだったが、いつの間にか、人がいなくなるぐらいのもんになっちまった」

 カゴに取りだされたシーツは、いつの間にか山と積まれていた。それを乾燥機のまえに運び、乾燥機に放り投げていく。それを見ていくうちに、千仁も何かしなければという気持ちが戻ってくる。

 千仁も腰をあげて、シーツをたたみ始めた。その間にも、諸泉の話は続いている。

「はじめは気にしちゃあいるぐらいだったが、男の幽霊を見たって聞いたあたりから、どうしても真実を確かめたくなってな。学寮は閉鎖したし、代わりの仕事を請け負うことにした訳よ」

「はあ……、それでこんなに大量の仕事を……」

 隣で政志も手の動きを再開させながら、思わずといった体でぼやき声をあげていた。政志の表情は暗く、彼もまた暗い気持ちを抱えているだろうことがうかがえる。

 それでもこの大量のシーツをまえにしては、愚痴のひとつでもこぼれてしまうのだろう。それは千仁も同意できることだ。

「まあ、俺もこんなにあるとは思わなかった」

 仕事を引き受けてきた本人も、うなずいている。どうやらここに来て、後悔しているようだ。

「だけど、引き受けただけの価値はあった」

 ようやく腰をあげた那智が、ぽつりと呟いた。那智の言葉に、諸泉もうなずいている。諸泉は乾燥機の蓋を閉めて、腰をのばしていた。

「そうだな。男の幽霊ってのが文貴だとはっきりしたし、魚の原因が文貴ってこともわかった。それがわかっただけでも良かった」

「俺は見てないですけどね」

 那智はすこし不満そうだ。言われてみれば、このなかで文貴と呼ばれる男の姿を見ていないのは那智だけなのだ。なぜだったかと考えて、理由に思い至る。

「そういえば、あのとき、急に魚の数が減ったような……」

「……言われてみれば、そうだな。俺は文貴で頭がいっぱいだったが……野内の記憶も戻ってきたんだったか?」

 千仁はうなずいていた。なぜかは分からないが、魚が近づいて遠ざかったとき、記憶がいくつもよみがえってきたのだ。

「ふうん……」

 那智は話を聞きながら、何事かを深く考え込んでいるようだった。

 那智の考えこむ仕草をまえに、千仁もあのときのことをふりかえってみる。

 あのとき、千仁に記憶が戻ってきたのは偶然だと思っていたのだが、もしかすると、なにか条件があるのかもしれない。そこまで考えたところで、とある可能性にたどりつく。

「もしかして、先生の声を聞いたからとか」

 あのとき、諸泉は幻に向かって声をあげていた。

 幻は諸泉の声に反応していたようだったし、ひょっとすると彼の声で何かが起きるのかもしれない。

 諸泉は千仁の話にうなずきつつも、未だ納得のいっていないようすだった。しばらく考え込んでいた那智が、そうだ、と声をあげる。

「そういえば、俺と先生だけのとき、食堂で魚に会いましたよね」

「……そうだな」

「あのときも、こっちに向かってきた魚、途中で方向を変えませんでした?」

「……そういえば」

 千仁の知らないところで、どうやらこの二人は魚と遭遇していたらしい。二人は揃って天井を見上げている。

「あのときと共通なことって、何かありませんでした?」

「共通なことね……」

 諸泉はそう呟いたきり、しばらく黙っていたが、やがて何かを思い出したかのように声を上げた。

 ポケットのなかを探ったかと思うと、何かを取り出してみせる。

 ちりりと音の鳴るそれは、鈴のようだ。何かの鍵が鈴に付けられているようで、鈍く銀色に輝く鍵が、光を受けて反射する。

 千仁はそれを見たとき、男の幻と遭遇したときのことを思い出していた。

「あ」

 そういえば、魚がこちらに向かってきたとき、諸泉は鍵を取り出していたのだ。あたりにりぃんと鈴の音が響いていたのを覚えている。

「先生、魚がきたときにそれ、取り出してましたね」

「ああ……無意識だったが、もしかするとこれのおかげだったのかもしれないと思ってな」

「言われてみれば……食堂のときも鈴の音が鳴ってたなあ」

 諸泉に近づいてきた那智も、鈴の付いた鍵をのぞきこんでいる。のぞき込みながらも、どこか不思議そうに首を傾げたままだ。

「しっかしその鍵と、いったいどんな関係が……」

 那智の疑問に、諸泉は広げた掌を握りしめていた。握りしめたあと、もう一度ゆっくりと掌を広げてみせる。

「この鍵は、あいつが最後に持ってた鍵だ……無茶言って預かっていたんだ」

 諸泉のつぶやきに、ふたたび全員が口を閉ざしていた。

 洗濯機と乾燥機だけが音を立てる空間で、諸泉は静かに鍵を見下ろしている。

「これが、突破口なのかもしれないな」

 ぽつりと何かを決意したかのような言葉が、こぼれ落ちていた。

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