第6話

 数年ぶりに足を踏み入れた学寮は、どこか懐かしい匂いがした。

 那智が学寮を使ったのは、学校での研修、それと部活でのほんの数回のことだ。それなのに懐かしさを感じるとは、ずいぶんと現金なものだと思ってしまう。


 那智は学寮でも教室にあたる部屋のなかに佇んでいた。学校の教室とほぼ同じつくりで、研修の授業で使われている。

 那智も、入学したあとに研修で使った覚えがある部屋だ。まだクラスメイト全員を覚えていないころの、すこし緊張した記憶が残っているのだ。

 夕暮れどきの教室は、濃い影がさしていた。机の脚から影が長くのびている。

 誰もいない、がらんとした教室。窓の向こうには、夜の色に染まっていく青空が広がっていた。


 ここには、那智の気配しかない。しばらく立ち止まって気配を探っていたが、那智以外に何かが増える気配はなかった。

 ここには、「あれ」はいないようだ。

 本当に何もいないことがわかって、安堵の息をつくと、身体がこわばっていることに気がついた。思った以上に緊張していることに、つい苦笑いがこぼれてしまう。

 覚悟は決めていても、やはりいざものを目の前にすると、緊張してしまうものなのだろう。情けないが、これが現実だ。


 那智はドアの窓から廊下をうかがう。

 四角に切り取られた空間からは、教室よりも薄暗くなっている廊下が見えた。誰が通る様子も無い、静まりかえった空間。

 だがその静まりかえった廊下にひらり、宙を泳ぐものがいる。半透明の、巨大な魚だ。

 こっそりと様子を窺っている那智のことなどものともせず、ゆったりと廊下を泳いでいっている。魚の身体は透けていて、廊下の向こう側が見えていた。

 魚は一匹だけで、こっそりと見ている那智を気にすることもなく、廊下を泳いでいく。

 魚の姿が消えると、今度こそなにもない廊下に戻っていた。

 那智はひとつため息をつくと、そろりそろりと扉に手を掛けていた。


 学寮で変わったのは、この部分だろう。

 卒業してから、ふたたび戻ってきた学寮は、不思議な魚のような生き物が泳ぐ空間へかわっていた。まるで水族館のようだ。

 あの半透明な生き物は、大部分の人には見えないようだった。那智に見えるのは、昔から不思議なものを見る性質だからだろう。

 廊下を食堂へと歩いていくなかでも、ときどきクラゲや小さな魚が泳いでいた。小さな魚は、今のところ害はないように感じられる。分かったことは、まだ少ない。


 警戒しながら食堂へと歩いていく。食堂は、百人以上がいっぺんに集まることができるだけの席がある、広い場所だ。

 廊下から食堂にはいると、蛍光灯の無機質な明かりに照らされる。

 食堂はベージュ色で彩られた、四角い部屋だ。白い机がいくつも並べられている。中央には小さいステージがあり、マイクスタンドが置かれていた。

 広々とした空間には、魚の気配はない。片隅のテーブルに座っている男の姿があった。


「お、来たか」

 テーブルに座ってひらひらと手を振っているのは、諸泉だ。眼鏡がずれているからか、疲れているようにも見える。実際に疲れているのだろう。

「平気だったか」

「はい。うまく避けてきたんで」

「そうか」

 諸泉はほっとしたように、息をついた。テーブルには地図のようなものが広げられている。何かと思えば、学寮の図面が描かれている紙のようだった。


「魚がいた場所を教えてくれるか」

 地図には、青色で魚のマークが書き込まれていた。諸泉と那智は学寮のなかを回って、魚が泳いでいる場所を調べていたのだ。

 諸泉は寮を見回り、那智は教室を中心に見回りをしている。

「教室にはいませんでした。……廊下には魚が泳いでいました」

「そうか」

 諸泉の手で揺れているボールペンをひょいと取り上げて、那智は廊下に魚のマークを描いていった。

 諸泉よりも不格好な魚が、地図のうえを泳いでゆく。


「こうして見ると、泳いでいるのは廊下が多いんだな」

「ただ、規則性はないですね」

 魚が泳いでいる場所を見定めようとしたが、地図をにらんでもわからないままだ。

 廊下だけ泳いでいるかと思いきや、部屋のなかを泳いでいたりする。地図だけで見るならば、魚が泳げない場所は無さそうであった。

「わかったことは少ないな」

「はい……記憶を持って行かれるってことぐらい、ですね」

 ふたりは同時にため息をついた。諸泉は右手でぐしゃぐしゃと髪の毛をかきまわしている。顔色はあまりよくなかった。


「まさか、あの子の記憶が無くなるとはなあ」

 諸泉の声音は沈んでいる。諸泉と那智は覚悟を決めて来ていたのだが、まさかあの二人がついて来るとは思わなかった。

 それに、狙われたのが自分たちでないということが、さらに気が滅入る要因のひとつとなっている。

「あの魚、俺の記憶を持っていくことはしないんだよなあ」

「……俺もです。今のところ」

 那智は手を広げていた。掌にはうっすらと赤い痕がある。

 たまたま魚に触れてしまったときにできたものだ。やけどに近いだろうか。痛みはあったが、それだけだった。あれこれ思い出してみるが、記憶が抜け落ちているようには感じられない。記憶がないことに気がついていないだけかもしれない、はっきりと分からないのが、少しだけ怖かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます