第5話

 政志と並んで防波堤の上までのぼると、遠くに諸泉の姿が見えた。

 諸泉は千仁たちの姿をみとめると、小走りで駆け寄ってくる。

「はぁ、はぁ……いた、良かった……」

 軽く息があがっているところから見ると、どうやら長い距離を走ってきたらしい。諸泉はふたりの前で息をはずませながら立ち止まると、安堵の息をついていた。

「どうしたんですか」

 千仁が問いかけると、息を整えた諸泉が、強い視線を向けてくる。

「どうしたんじゃないよ。君たちね、メッセージぐらいは見てほしいんだけど」

「へっ?」

「あ」

 諸泉に言われてようやく、ポケットにしまったままのスマートフォンの存在を思い出していた。

 慌てて引っ張りだしてみると、画面にはいくつもメッセージが送られた履歴が残っている。

 いつもそうなのだが、ポケットに入れるとメッセージが送られたかどうか、分からなくなってしまうのだ。今日は特に誰からの連絡も無いだろうと思っていたせいもあって、余計に気がつかなかったのだろう。

「良かった……魚が増えてきたから、心配だったんだよ」

 諸泉はそれだけ告げると、千仁たちに背を向けて歩き出した。政志がおとなしく諸泉に付いていくので、千仁も置いて行かれないよう、すぐに二人を追いかけていく。

「魚が増えたって……、どういうことですか」

「どうもこうもないさ。昨日よりも学寮にいる魚の数が増えた。それだけさ」

 諸泉は何事もないかのように、それだけを告げる。諸泉の目には表情が浮かんでおらず、何を考えているのかは分からないままだ。

 ただ、諸泉の目はいつもよりも少し赤く見えていた。目の縁もすこしだけ赤い。

 眠れなかったのだろうか。聞いたところで、まともな答えが返ってくるとは思わないから聞かないけれど。

 諸泉の言葉の意味は、学寮に近づくにつれ、はっきりとわかってきた。

 今まで学寮の外にはいないと思っていた魚の姿が、ちらほらと見えるようになってきたのだ。相変わらず大きな体の半透明なさかな。

 魚の姿が見えるたびに体が震えてしまうが、襲ってくるほどの距離にいないことが、せめてもの救いだ。

 そう、思っていたのだが。

「うわ」

 学寮の玄関が見えるようになってきたところで、千仁は足を止めていた。隣に並んだ政志の口から、げ、と声があがる。

 数歩先を歩いている諸泉も足を止めた。千仁たちを振りかえってくる。

「な、増えてきただろ」

「本当ですね。昨日はあんなにいましたっけ」

「いないな。うん、いなかった」

 政志と諸泉がまるで緊張感のないやりとりを交わしている。そのせいで、自然と肩に入っていた力も抜けていくようだった。

 今までごく普通の朝の光景だと思っていたのだが、気がつけば、空の色が少し変わっているように感じられる。魚の数も増えていて、大きな魚からイワシのような小さな魚まで、いくつもあるようだ。

 この光景は、そう。空の水色と相まって、まるで――。

「水族館みたいだな」

 千仁が思ったことを諸泉が口にしていた。諸泉はぼんやりと空を見上げている。

「たしかに水族館みたいですけど……、これ、どうします?」

「どうしようかね……」

 政志の言葉に、諸泉はぼんやりとした声をあげるだけだ。

 空を見上げているようすも困っているというよりかは、ただぼんやりとしているだけのように見える。

 諸泉は、この魚たちに何を見ているのだろう。薄い背中は、何も語ってはくれない。

「とりあえず、俺の後ろに……」

 諸泉がため息をつきつつ、言いかけたときだった。

 ちょうど玄関の前のぽっかりとひらけた場所に、人がひとり、ふっと現れた。

 この場にいないのは那智だけだ。だからそこに立っているのは那智だけだと思っていたのだが、遠目からでも格好が違う。

 那智よりもすこし薄い茶の髪。優しげにも見える風貌は、那智よりも年上にしか見えない。

 あれは、一体、誰だろう。

 千仁の疑問を破るようにして、諸泉の声がぽろりと落ちてきた。

文貴ふみたか……」

「え?」

 風が強く吹けば消えてしまいそうな声音だった。ただ、その時だけ風が吹くこともなく、魚が泳ぐだけの静けさに満ちていたので、千仁にも聞こえたのだ。

 誰の名前なのだろう。訝しく思う千仁のまえで、男の姿はふっと消えていく。

 男の姿が見られたのは、ほんのわずかな間のことだった。それこそ幻を見ていたということで、片付けられてしまいそうなほどのものだ。

 だが、幻として片付けてはいけないような気がしてならなかった。千仁が横目で政志を見ると、同じことを思ったのか、政志もちらりと視線を投げてくる。

 これは、幻ではないのだ。

 千仁がはっきりと思ったとき、近くでゆらりと空気が揺れたような気がする。千仁の身体は思わず、震えていた。

「くそ……、ふたりとも、こっちだ」

 ぼんやりとしていた諸泉が、急にはっきりとした声をあげた。千仁はぐいと腕をつかまれて、諸泉の背中に追いやられていく。

 薄く、生気のない背中が目の前にある。

 離れた場所では生気のないと思っていた背中も、間近で見ると、うっすらと汗をかいていて、呼吸をするたびに上下するのがわかる。

 生きているという感覚がはっきりと目の前にあることに、どきりとしてしまった。

 諸泉の授業を受けているときも、部活動で顔を出したときも、彼の背中はやけに薄く、生気を感じることができなかった。だからこそ気になったし、こうして追いかけていたのかもしれない。

 でも、それはただの思い違いなのかもしれなかった。

 軽く混乱する千仁の前で、諸泉はどこかを一心に見つめているようだった。見ているのは、一瞬にしてかき消えた、あの男がいた場所だろうか。

「……文貴。持っていくのなら、俺の記憶を持って行け! お前も教師だったのなら、わかるだろう!」

 す、と息を吸った諸泉は、誰もいない場所に向かって大きく声をあげていた。よく通るはずの声は誰にも拾われることなく、静寂のなかへと消えてゆく。

 千仁は事態を飲み込めないまま、先行きを見守ることしかできない。

 そのかわり、諸泉の声に反応したのは、魚たちだった。空を泳いでいた魚のうち一体が進路を変えて、千仁のもとに近づいてくる。

「は……?」

 大きな、まるでマグロのような見た目の魚が、ゆっくりと泳いでくる。明らかに千仁を狙っているようだった。魚に正面からにらまれて、千仁の足が数歩、下がる。

「チッ」

 諸泉が舌打ちをしながら、一歩前に出た。魚とひとりで対峙するつもりなのかもしれない。

 玄関まで逃げられれば魚からも逃げられそうだったのだが、簡単に逃げられるとは思えなかった。

 ぐん、と勢いをつけて近寄ってくる魚。諸泉は右手を前にだして、止めようとしている。左手はポケットに突っ込んでいて、何かを探しているようにも見えた。

 魚は諸泉の前で動きを止めたかと思うと、ふたたび動き出した。彼の手をするりとすり抜けて、千仁の目の前に迫ってくる。

「ッ」

 千仁は息を呑んだ。魚を前にしても、はねかえす手段など浮かばないままなのだ。ただこうして、魚に記憶を喰われるのを見ていることしかできないのではないだろうか。

 焦りがこみあげてきた刹那、りぃん、と軽やかな鈴の音がした。音は間近から聞こえてくる。どこからだろうと思ったが、すぐにわかった。

 諸泉がポケットから出した左手に、鈴は握られていたのだ。正確には、どこかの鍵と、鍵に付けられた鈴の音だ。

 軽やかな鈴の音は、途切れることなく響いていた。そのとき、眼前まで迫っていた魚がふと動きを止める。鈴の音を嫌がるかのように身をよじり、くるりと向きを変えた。


 ふいに、眼前に鮮やかな「何か」が映り込んだ気がした。

 鮮やかな夏の空。はためく部室のカーテン。


 二つの光景をきっかけとして、頭のなかに、次々と映像が流れこんでくるのがわかる。その間にも鈴の音は響いていて、魚は少しずつ夏の空へと姿を薄れさせていた。

「……千仁?」

 おもわず額をおさえていたせいか、政志がいぶかしげな声をあげる。心配をさせたくはなかったが、うまく声が出ない。

 仕方なく手を上げて、政志の声にこたえようとする。

「……おい、平気か? 千仁?」

 政志がどう思ったのかは分からないが、千仁をのぞき込むようにしてくる。千仁から見える政志の姿は、ひどく不安そうな、千仁を心配しているものに見えた。

 もしかすると、記憶を喰われるまえの千仁も、こんな感じだったのかもしれない。なぜかそのあたりの記憶は不完全なようで、戻ってこないままだ。

 それでも、記憶が戻ってきたのは事実である。誤解させてはなるまいと、千仁は声をあげていた。

「平気」

「だけど」

「ほんとに。今度は記憶、もどってきたから」

「……ほんとか」

 なんとか事実をつたえると、心配そうにのぞきこんできた政志の目が丸くなる。それから安心したように息をついた姿に、心配させていたのだということを改めて思い知った。

 気が付いたときには、あたりを泳ぎまわっていた魚の数もずいぶんと姿を減らしている。千仁のまえに立つ諸泉は、その場に佇んだまま、己の手のひらをながめていた。

 ふと、学寮の入り口に立つ諸泉と那智の姿が、眼前に浮かんだ気がした。諸泉と那智が並んで立ち、誰もいない学寮を見上げている姿だ。

 これも、千仁が落としてきてしまった記憶だろう。戻ってきたばかりのせいか、いまだ記憶とはなじめないようだった。

「先生!」

 学寮の裏側から、那智の声が聞こえてくる。そこでようやく、ぼんやりとしていた諸泉がはっと肩をふるわせていた。

「こっちだ」

 諸泉が那智がいそうな方向を向いて、よく通る声をあげていた。声を張りあげている訳でもないのに、すっと遠くまで染み渡るように響く。

 声は那智にも届いたのだろう、那智はすぐに顔を出した。茶色の髪は乱れていて、息はあがっている。諸泉が千仁を探しにきたときと同じように見えた。

「いた……! よかった……! 魚が急に増えてきたから……って、あれ?」

 那智は焦ったような声を上げながら近づいてきて、そしてふと足を止めていた。太陽の光が降り注ぐ玄関前をきょろきょろと見回している。

 千仁たちは、静かに那智の様子を見守っていた。

「……、ここ、少なくないですか?」

 やがて、まわりを見回した那智が、ようやくそれだけをぽつりと呟いた。那智がそれを思うのは当たり前のことだろう。だが、今起きたことをどう説明すれば、那智に理解してもらえるのだろう。

 千仁が頭を悩ませるまえで、口をひらいたのは諸泉だった。

「……文貴がいた」

「え?」

「この魚、やっぱり文貴が原因らしいぞ」

 諸泉の口から、知らない者の名前が出る。那智はその者の名前を聞いたとたん、足を止めていた。

 すっと表情が消えて、那智は静かに諸泉を見上げる。

 ふたりが口を閉ざしたまま、互いの視線を通わせるのを、ただ見守ることしかできなかった。


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