第3話

 闇の底に落ちていた意識が、一瞬にして浮きあがってくる。

 瞼をこじあけたとき、千仁の視界は斜めになっていた。どうやら横になっていたようだ。だけど、なぜ横になっているかはわからない。

 ゆっくりと身体を起こすと、タオルケットが身体からふわりと落ちていった。誰かが掛けてくれたのだろうか。

「千仁?」

 ごく近いところから、政志の声が聞こえてくる。


 千仁が眠っているのは、二段ベッドの下のようだった。視界の向こうに、古びた二段ベッドが見える。きっと千仁が眠っているのも同じベッドだろう。

 ベッド脇にくくられたカーテンもどこか古びた灰色をしていた。つるりとしたリノリウムの床は蛍光灯の光を浴び、不健康そうに光っている。

 この場所は見覚えがある。すこし前に見たような気がする。どこだろう。

 ぼんやりと記憶をたどっていく千仁の前に、政志がひょっこりと顔を出した。


「千仁? 平気か?」

 政志は怒っているようなしかめ面をしていた。けれども語尾はかすかに震えていて、怒ったような表情が、心配しているものだということがわかる。

「平気だけど……、ねえ、ここ、学寮よね」

「……そうだけど」

 たどっていった記憶は、ひとつの欠片を思い出していた。

 ここは高校に上がってすぐに行った、海近くの学寮ではないだろうか。よく研修に使われる宿泊施設だ。

 千仁の問いかけに、政志はどこか面食らったような顔をしながらも、うなずいてみせる。


「なんで、ここにいるの?」

「……は?」

 学寮であることは思い出したのだが、なぜここにいるのかがさっぱり分からない。

 政志がいるということは、部活動関係なのだろうか。

 政志は、ぽかりと口をあけていた。そしてしばらく固まっている。

 政志の反応を見て、どうやら千仁は何かを忘れているらしい、ということに思い至った。たしかに、なぜここにいるのか、思い出そうとしても思い出せないのだ。まるで黒い靄が頭にかかったようだった。


「なんでって、千仁が言い出したんだろ?」

「言い出した? 何を?」

 自分が何を言い出したのか。おぼろげに輪郭はつかめるが、信じたくない気持ちもあった。政志は驚きに瞬きをくりかえしながら、ごくりと唾を飲み込んでいる。

「先生たちがこそこそ学寮で何かしようとしてるから、追っかけて合宿するって言ったんだぞ、千仁が。……思い出せない?」

「あーそれって妄想で終わらなかったの? 本当に?」

 政志の言葉は、信じたくないという気持ちをあっさりと打ち砕いていった。


 たしかに千仁は、部活動の合宿というものに憧れていた。先生に話そうと思ったことも数知れずある。けれど、本当に先生をつかまえて言うなんてことは……しなかっただろうか。

 かすかに、部室の窓際で話す、諸泉と那智の姿が思い浮かんだような気がして、考えることを止めていた。


「終わらなかったよ。……なあ、なら、魚は覚えてるか?」

「さかな?」

 政志の言い出す言葉の意味がさっぱりわからない。政志は薄い茶色の瞳を泳がせていた。そして乱雑に、髪の毛をがしがしとかきまわしている。

「うーん……」

 政志は説明することをあきらめたようだった。ただ困って、どうするべきかと視線をさまよわせている。

 常日頃、政志をふりまわしている千仁であったが、はっきりとわからない理由で困らせてしまっているのを見ると、申し訳ない気持ちになってしまう。

 居心地のわるい沈黙がふたりの間に広がった。ただ沈黙は長くは続かず、廊下からこつこつと近づいてくる足音が、沈黙を上書きしていく。


「大迫? 入るぞ」

 ベッドの向こうには部屋の入り口がある。扉のむこうから、諸泉の声が聞こえてきて、千仁は思わず肩を揺らしていた。

 なんで諸泉先生が、ここにいるのだろう。

 そんな千仁の驚きに気がついた様子もなく、政志はどうぞ、なんてのんびりと返事をしている。


 部屋の入り口から、ひょっこりと顔をみせたのは、やはり諸泉だった。いつも掛けている銀縁の眼鏡も、眼鏡の奥にあるどこか生気のない目も、諸泉のものだ。

「お、起きたか」

 諸泉は起き上がった千仁の顔をまえに、どこか安堵した表情だった。政志のとなりに腰を下ろすと、筋張った細い腕をのばしてくる。

 のばされた腕は千仁の前髪をかきあげて、額へと触れた。ひんやりとした感触のやわらかさが額に触れて、胸がどきりとはずんだような気がした。


 政志は困ったような顔で、諸泉の動きをながめていた。

「熱はないみたいだな」

「身体の調子はわるくないみたいなんですけど、困ったことがあって」

 政志がぼそりと呟くと、諸泉の手がゆっくりと離れていった。諸泉が政志を見ると、政志は彼の視線から逃れるようにうつむいている。

「どうした」

「……あの、変なことなんですけど……」


 政志は切り出し方で悩んでいるようだ。諸泉はただひとつ、うん、とうなずいていた。癖のつよい黒髪が、ふわふわとゆれる。

「変なことでもいいよ」

「千仁、ここに来た記憶をまるっとなくしているみたいで……」

「記憶を?」

 諸泉の声はおだやかだったが、いつもよりも硬質さを帯びているようだった。かすかに眉をひそめている。

 政志は申し訳なさそうにしていて、千仁も肩身がせまくなっていた。

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