第3話


 * * *


 数年ぶりに足を踏み入れた学寮は、どこか懐かしい匂いがした。

 那智が学寮を使ったのは、学校での研修、それと部活でのほんの数回のことだ。それなのに懐かしさを感じるとは、ずいぶんと現金なものだと思ってしまう。

 懐かしさの原因は、机かもしれない。

 那智は学寮のなかでも教室にあたる部屋のなかに佇んでいた。学校の教室とほぼ同じつくりで、研修の授業で使われている。

 那智も、入学したあとに研修で使った覚えがある部屋だ。まだクラスメイト全員を覚えていないころの、すこし緊張した記憶が残っていた。

 夕暮れどきの教室は、濃い影がさしていた。机の脚から影が長くのびている。

 誰もいない、がらんとした教室。窓の向こうには、夜の色に染まっていく青空が広がっていた。

 ここには、那智の気配しかない。しばらく立ち止まって気配を探っていたが、那智以外に何かが増えるような気配はなかった。

 ここには、「あれ」はいないようだ。

 本当に何もいないことがわかって、安堵の息をつくと、身体がこわばっていることに気がついた。思った以上に緊張していることに、つい苦笑いがこぼれてしまう。

 覚悟は決めていても、やはりいざ本物を目の前にすると、緊張してしまうものなのだろう。情けないが、これが現実だ。

 那智はドアの窓にぴたりと両手をつき、廊下をうかがった。

 四角に切り取られた空間からは、教室よりも薄暗くなっている廊下が見えた。誰が通る様子も無い、静まりかえった空間。

 だがその静まりかえった廊下にひらり、宙を泳ぐものがいる。半透明の、巨大な魚だ。

 こっそりと様子を窺っている那智のことなどものともせず、ゆったりと廊下を泳いでいっている。魚の身体は透けていて、廊下の向こう側が見えていた。

 魚は一匹だけで、こっそりと様子をうかがう那智を気にすることもなく、廊下を泳いでいく。

 魚の姿が消えると、今度こそなにもない廊下に戻っていた。

 那智はひとつため息をつくと、そろそろと扉に手を掛けていた。

 学寮は、いつから姿を変えてしまったのだろう。

 卒業してから、ふたたび戻ってきた学寮は、不思議な魚のような生き物が泳ぐ空間へかわっていた。まるで水族館のようだ。

 あの半透明な生き物は、普通の人には見えないようだった。那智に見えるのは、昔から不思議なものを見る体質だからである。

 廊下を食堂へと歩いていくなかでも、時折クラゲや小さな魚が泳いでいた。小さな魚は、今のところ害はないように感じられる。分かったことは、まだ少ない。

 警戒しながら食堂へと歩いていく。食堂は、百人以上がいっぺんに集まることができるだけの席がある、広い場所だ。

 廊下から食堂に足を踏み入れると、蛍光灯の無機質な明かりに迎えられた。

 食堂はベージュ色で彩られた、四角い部屋だ。白い机がいくつも並べられている。中央には小さいステージがあり、マイクスタンドが置かれていた。

 広々とした空間には、魚の気配はない。部屋の片隅、テーブルに座っている男の姿があった。

「お、来たか」

 テーブルに座ってひらひらと手を振っているのは、諸泉だ。眼鏡がずれているからか、疲れているようにも見える。実際に疲れているのだろう。

「平気だったか」

「はい。うまく避けてきたんで」

「そうか」

 諸泉はほっとしたように、息をついた。テーブルには地図のようなものが広げられている。何かと思えば、学寮の図面が描かれている紙のようだった。

「魚がいた場所を教えてくれるか」

 地図には、青色で魚のマークが書き込まれていた。諸泉と那智は学寮のなかを回って、魚が泳いでいる場所を調べていたのだ。

 諸泉は宿泊のための寮室を見回り、那智は教室を中心に見回りをしている。

「教室の中にはいませんでした。……廊下には魚が泳いでいました」

「そうか」

 諸泉の手で揺れているボールペンをひょいと取り上げて、那智は廊下に魚のマークを描いていった。

 諸泉が描いたものよりも不格好な魚が、地図のうえを泳いでゆく。

「こうして見ると、泳いでいるのは廊下が多いんだな」

「ただ、規則性はないですね」

 魚が泳いでいる場所を見定めようとしたが、図面をにらんでもわからないままだ。

 廊下だけ泳いでいるかと思いきや、部屋のなかを泳いでいたりする。図面だけで見るならば、魚が泳げない場所は無さそうであった。

「わかったことは少ないな」

「はい……記憶を持っていかれるってことぐらい、ですね」

 ふたりは同時にため息をついた。諸泉は右手でぐしゃぐしゃと髪の毛をかきまわしている。顔色はあまりよくなかった。

「まさか、あの子の記憶が無くなるとはなあ」

 諸泉の声音は沈んでいる。諸泉と那智は覚悟を決めて来ていたのだが、まさかあの二人がついて来るとは思わなかった。

 それに、狙われたのが自分たちでないということが、さらに気が滅入る要因のひとつとなっている。

「あの魚、俺の記憶を持っていくことはしないんだよなあ」

「……俺もです。今のところ」

 那智は手を広げていた。掌にはうっすらと赤い痕がある。

 たまたま魚に触れてしまったときにできたものだ。やけどに近いだろうか。痛みはあったが、それだけだった。

 今までのことをあれこれ思い出してみるが、記憶が抜け落ちているようには感じられない。記憶がないことに気がついていないだけかもしれないが、那智には分からない。

「それ……魚にやられたのか」

「はい」

 那智がうなずくと、諸泉は顔をしかめた。そして勢いをつけて立ち上がる。椅子が床を滑る音が響きわたった。

「冷やしたほうが良いぞ。ちょっと待ってろ」

 諸泉はそれだけ言うと、食堂の隣にある調理室へと消えていった。調理室からごそごそと音が聞こえてきたかと思うと、すぐに戻ってくる。

 戻ってきた諸泉の手には、保冷剤が握られていた。

 諸泉は顔をしかめたまま、タオルで巻いた保冷剤を渡してくる。那智はありがたく受け取って、掌に当てる。ひりひりと痛んでいた掌が、冷やされて気持ちいい。

「気持ち悪いとかはないか?」

「はい。本当に手が赤くなっただけです」

「そうか」

 諸泉はため息をついて、椅子に座る。安堵しているような、困っているような、そんな顔だ。

「先生」

「ん?」

「俺は覚悟を決めてきてるんで、俺のことまで気にしないでください」

「だが、そうは言ってもな……お前が俺の教え子であることは事実だぞ」

「わかってますよ。だからこそ、です」

 こういうとき、諸泉が強情なことを那智は知っている。いつもと変わらぬやわらかな口調のままだが、こちら側に一歩も立ち入れまいとする心。その頑なさを知っているから、那智は強く口にしていた。

 諸泉は口をつぐみ、目を細めている。

 眼鏡の奥にひそむ眼光は鋭く、いつもの穏やかさはなりをひそめていた。そんな諸泉を見るのは珍しくて、那智は思わず息をのんでしまう。

 だがそれでも引く訳にはいかないのだ。那智のために。何よりも、諸泉のために。

 しばらくにらみ合いを続けていた二人だったが、やがて諸泉があきらめたように、ため息をついていた。

「わかったよ。俺の負けだ、負け」

 困ったように苦笑を浮かべる表情の穏やかさは、いつもの諸泉だ。

 諸泉の強情さに押されないと決めていたとはいえ、普段の姿に戻ると、安心するものがある。

 那智も自然と笑みをこぼしていた。

「先生、ため息ばっかりついてますよ」

「誰のせいだと思っているんだ。誰の」

 諸泉の声が低くなる。彼は指をひゅっと伸ばしてきて、額を軽くはじいてきた。

 静かな食堂に、指の音が響きわたる。軽くても痛みはそれなりにあり、那智は掌で額をおさえていた。

「って。痛いんですけど」

「おう、覚悟あるって言ったのは誰だ?」

「ひどい……まあ、痛いくらいなら良いんですよね」

「ああ……。問題は、野内だな」

 ロビーへやってきた時の、きょとんとした千仁の顔が思い出される。

 まっすぐな黒髪は横たわっていたせいか、すこし癖がついていた。記憶のない大きな瞳は何故ここにいるのか分からず、どこか不安に揺れているようだった。

 千仁は写真部で合宿をすることに憧れていたらしい。

 偶然、那智たちの話を聞いた千仁が政志を巻き込んでやってきたらしいが、その記憶もすべて抜け落ちているようだった。

 学寮の入り口、塀に隠れるようにしてへばりついていた千仁たちの姿は、驚きの感情と友に脳裏にこびりついている。那智たちに見つかったあと、空を泳いできた魚に襲われたときのことも、目の奥に焼き付いていた。

「……どうすれば、戻るんでしょうね」

「わからん。そもそも戻るのかどうか……」

 空を泳ぐ魚について、わかったことは少ない。

 目を合わせると襲いかかってくること。

 那智たちが触れると、やけどのような症状を負うこと。ただ、平気なときもあり、法則性はよくわからない。

 記憶を抜かれる者と、抜かれない者がいること。

 二人はわかったことをそれぞれ挙げていったが、あまりの少なさに愕然とし、思わずテーブルに伏していた。

「せめて俺の記憶を持っていってくれれば良かったのに……」

 諸泉はうなだれたままそうつぶやくと、ゆっくりと顔をあげる。

 その目は、那智を見つめているようで、何も見つめていないようだった。

 諸泉は、時々そんな目をする。何も見ていない、まるで人形のような目。

 彼がそんな目つきのときは、きっとあの日のことを考えているのだろう。諸泉はどこか虚ろな目のまま、ゆっくりと唇をひらいた。

「俺の記憶をもっていかれないってことは……、魚の向こうに、あいつがいるんだろうか……」

「……どうでしょう」

 那智の脳裏に、うっすらとよみがえるものがあった。

 カメラを持つ、諸泉ともうひとりの教師。諸泉と同い年ということもあり、二人は友人のようにも見えた。

 あの時はまだ、諸泉は今よりもくっきりとした存在感があったはずだ。諸泉は今よりも生気に満ちていたと思う。

 少しの間、ぼうっとしていた那智の目に、なにかが揺れたような気がした。

 ほんの一瞬、まるで水面が揺れたかのような――。

「ッ、先生!」

 揺れた水面の正体を理解したとき、那智は椅子を蹴って立ちあがっていた。

 ゆら、と揺らいだ空気は、すばやく魚のすがたへと形を変えていく。

 那智が何を見つけたのか、諸泉にもわかったらしい。諸泉もすぐに椅子から立ち上がり、後ろへと振りかえる。

 食堂のちょうど真ん中あたり、空気を切るようにして、魚は姿をあらわした。

 ずんぐりとした胴体。背びれまわりの色が濃いので、もしかすると、シャチなのかもしれない。

 魚はゆうゆうと食堂の無機質な明かりの下を泳いでいく。蛍光灯の下を半透明の背びれが泳ぐたびに、背びれに光が反射しているようにも見えた。

「那智、目を合わせるな」

 諸泉の冷静な声が飛んできた。だが、少し遅かったのだ。

 諸泉が叫ぶ前、那智は魚と目をあわせてしまっていた。

 まともに異形のものと目をあわせてしまったからか、それとも「魚」と目をあわせてしまったからか。那智の足は金縛りにあったように動かなくなってしまった。

「おい那智、はやく!」

「……、ッ」

 諸泉は那智のまえに出て、かばう姿勢をとっていた。薄い背中を前にして、ようやくこわばっていた身体が動きだす。

「っ、せんせいっ」

 諸泉は、自身の身体をもって魚を止めるつもりなのだ。捨て身の行動をまえに、那智にできたことは、ただ諸泉の腕を引くことだけだった。

 半透明のシャチはいつの間にか目前にせまっていて、口をひらいていた。口がひらかれていくさまが、やけにゆっくりとしているように感じられる。

 諸泉はシャチの動きを止めようと、右手を前にかざしていた。ぐっと掌がシャチの顎をおさえたらしく、ひらかれはじめていた顎の動きが止まっていた。

「うっ……」

 那智のまえで、うめき声が低く上がる。じゅう、と肉が焦げるような音が部屋のなかに響きわたった。

「先生っ!」

 諸泉の身体が、一歩うしろに下がる。ごく近くから、小さな鈴の音がしゃらりと涼やかな音を立てた。諸泉が何か音の鳴るものを持っているのかもしれない。

 那智は諸泉が倒れないよう、背中をおさえる。

 交代しようと思うものの、諸泉は足を踏ん張って立っており、立ち退く気配がない。何もできない歯がゆさに、唇をかみしめることしかできなかった。

 このままだと、先生の身が危ない。那智の手が、おそれに震えたときだった。

 今まで那智たちに向かっていた魚が、不意に向きを変えていた。反動でよろめいた諸泉から、ふたたび鈴の音が鳴る。

「ん……?」

 那智たちが呆気にとられる前で、こちらに尾を向けた魚は、勢いをつけて泳いでいった。半透明ということもあって、姿はすぐに薄れ、そして見えなくなっていく。

 あとに残されたのは、なまぬるい夏の夜の空気と、呆然としている諸泉の姿だけだった。


 しばらく、那智は宙をぼうと眺めていた。

 時間をあけても新たな魚が来ることはなさそうだ。ただ静寂が広がるだけの空間をまえにして、ようやく固まっていた足が動き出した。

「せ、先生! 大丈夫ですか!」

「うーん、ちょっとやばいかも……」

 那智は強引に諸泉の腕を引いて、掌を広げさせる。

 ひらかれた掌は赤く腫れていた。水ぶくれなどは無かったが、見た目が重傷に見える。掌は赤かったが、伝わってくる温度は低かった。

「とにかく、冷やしたほうが良いですよ」

 諸泉は那智に対しては心配しているのに、自身のこととなると動きが鈍くなっているようだ。那智はぼんやりと突っ立ったままの諸泉の背を押して、調理室へと向かう。

 調理室の水道を勢いよくひねって、流水に諸泉の手を触れさせる。冷たい水を浴びて、どこかぼんやりしたままの諸泉が動きだした。

「つめて」

「冷たくしてるんですから」

「ああ……」

 諸泉は冷たい水を浴びつづける手をしばらくながめていた。それから、思い出したように顔をあげる。

「さっき、魚に触れたとき……、変な感じだった」

「変な感じ?」

 諸泉は流水を流したままの手を開いては閉じ、開いては閉じている。

「こう、何かをつかんだような感じがしたんだ。魚に触れているというよりは、熱い何かに触れているような……」

 諸泉の言葉は、水音に溶けて消えていった。それきり先は何も口にせず、じっと記憶をたどっているようである。

 魚には那智も触れていた。ほんの一瞬だったが、熱いと思った感触もある。

 だが、何かに触れた感触があったかと聞かれると、自信はなかった。

「もしかすると、あれが記憶なのかもしれない……」

 諸泉がぽつりと呟いた言葉は、ふたたび水音にかきけされていく。

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