第8話
す、とうなじを冷気が這いました。
芽吹きの春を迎えても、陽が暮れれば空気は冷たく、まだ羊毛の上着は手放せません。そしてそれ以上に、緊張の走った室内は冷えこんでいました。蝋燭の火は時が止まったかのようにわずかも揺らがず、橙色の光で暗闇を照らしています。
「……どういう意味だ」
彼女の声は氷柱のようでしたが、彼は怖じけませんでした。ともしびに染まる瞳をひたりと向け、くちびるを動かします。
「あなたは、なぜ森の中にいたのですか」
「おまえには関係ない」
「ここから立ち去るためですか」
彼女の瞳の輝きが増したので、図星だと彼は判断しました。
どこからが計画の一環だったのか。
どちらにしろ、彼女が神殿へ行きたいと言った時点で、すでに城を去るのは決まっていたのでしょう。彼の目の届かない場所へわざわざ出向き、その隙に姿を眩ますつもりだったのです。だから彼女は夕暮れの森へ入り、人家も乏しい草原へと足を向けたのです。
「なぜ、おまえは私の居場所がわかった」
質問の答えはありませんでしたが、彼は正直に答えました。
「見えたのです」
「見えた?」
「感じた、の方が正しいでしょうか。まるで目印のように、あなたがどこにいるのかわかりました。あなたの存在は皓々としていたので見つけるのはたやすかったです」
あの光こそ、彼の知らない月の光なのでしょう。太陽のごとく明るいのに、それでいて燃えるような色ではなく、冴え冴えとした高潔な白光。彼女の内側からあふれ出る本来の姿。
彼女は瞠目したのち、なぜか悔しそうな表情をしました。かまわずにもう一度、彼はたずねます。
「なぜ、黙って出ていこうとしたのですか」
「……おまえたちが、私をいまだに神だと言い張るからだ」
「ですが、やはりあなたが女神としか思えません。私にはあなたが光に見えました。それは神威というものではないのですか?」
今でさえ、彼女は輝いていました。それはけっして比喩ではなく、事実、あわい光の衣を一枚まとっているのです。
「あなたは私から『気』と『名』を奪い、私のふりをして周囲の目を眩ました。私を小鳥に変えてしまった。そんなことができるのは、あなたが神だからではないのですか」
ゆらり、と部屋の隅に溜まる闇がうごめいた気がしました。
それは彼の中の海にひそむ塊であり、底に沈めてあったものでした。渦巻く流れに乗って浮上しはじめたそれは、心のもっともやわな部分をちりちりと焦がしていきます。
「我らの願いは、月の女神であるあなたに、ふたたび夜空に君臨していただくことです。弟が申したとおり、我らはあなたを何百年も捜しつづけてきました。情けないことにその方法は語り継がれていませんが、捜してきた意味はあると、私は思います。幾星霜の年月を重ね、数えきれない人々の想いを繋げてきた意義が、あなたにはあるのでしょう」
彼女はつやめく紅唇を、いびつに歪めました。
「それは偏執でしかない。おまえの言うとおり、私が神だとしよう。だが、はたして神はおまえたちに捜せと命じたのか? ちがうだろう、おまえたちが勝手に捜して勝手に復活せよと喚いているだけだ。すべておまえたちの妄言ではないか」
「たしかに、あなたは祀られるのを厭うている。ですが、神とはそういうものではないですか? 我ら人間が勝手に信仰し、勝手に願い、勝手に神であれと望むのです」
彼は膝の上にある自分の手のひらを見下ろしました。何の変哲もない、どこにでもある手です。家臣や兵士や商人や職人や庶民、はてには奴隷とまったく変わりない、ただの人間の手でした。
けれどもこの普通の手には、この国の命運が託されているのです。彼の判断ひとつで、国の未来が決まるのです。
王として、彼は国の繁栄のための選択を取らなければなりませんでした。皆が飢えることなく、寒さに凍えることもなく、戦もない穏やかに暮らせる国をつくるのが、彼の役目なのです。
「我らはただの人間です。ですが、あなたは我々とはちがう。人とは比べものにならない美貌や寿命を持ち、そしてふしぎな力を持つ。そのような存在を神と崇めるのは、人間として当然の行為では……」
「イシュメル」
名を呼ばれた瞬間、彼の全身に衝撃が走りました。雷に打たれたような痺れに、びくりと身体を跳ねさせます。
顔を上げれば、卓の向こうには激昂にわななく彼女がいました。
白雪の肌は怒りでうっすらと上気しており、いつもは感情に乾いた瞳も潤みながら彼を睨めつけていました。その姿は鼓動さえ止めてしまうほどうつくしかったのですが、同時に床に額を叩きつけたくなるほどの恐畏を覚えます。
それでも彼はおとなしく椅子に座ったまま、彼女に相対していました。以前に比べればずいぶん肝が据わったものです。
「おまえの言うとおり、人間は神を崇めたがる生き物だ。そして神は崇められてこそでもある。崇める存在がいるからこそ、神は『神』でいられるのだ」
彼女はぎり、とくちびるを噛み、熱のこもった口調で続けました。
「たしかに私は神であったかもしれないが、今は神ではない。はるか太古には夜闇を照らして道標となったし、月の巡りに従って生きるものを慈しみもした。しかし私が地に堕ち、月が存在しなくなろうと、おまえたちは変わらないだろう。月が無くとも平然と生きているのに、いまさら私になにを求めるのだ」
「私にはわかりません。ただ捜せとしか教えられていませんし、私は月を知らないのですから」
「ではなおさらではないか。なくてもよいものを、なぜ無理に求める」
「それは、あなたが我々の信仰する神だからです」
「それは答えではない。いったい、おまえたちはなにがしたいのだ」
彼女の怒りは一時的ではなく、おそらく拾われた一年前から燻らせてきた感情でした。だとしても、彼も王として退くわけにはいきません。
彼は爛々と燃える瞳をまっすぐに見すえました。その光が伝染したのか、彼にもほとりと火が灯ります。
「……正直に言わせていただくと、王として、あなたを我が国の神に迎えたい。あなたを神と崇めるのはこの国だけではありません。彼らも我々と同じようにあなたを求めているのです。〈星の民〉の長として、私はあなたを手元に留めておかなければならない」
「政の駒に使うか」
多分に侮蔑の響きがしましたが、彼はかまわずに続けました。
「ほかの国にあなたを奪われるなど、あってはならないのです。彼らがあなたをどう利用するかはわかりませんが、少なくとも私たちの『長』としての権威は失墜するでしょう。この国は乱れます」
「逆もありえるな」
はい、と彼は素直に首肯しました。
「私個人としては遺憾ですが、戦になる可能性はあります。全員が素直に従うとは考えられません」
「私を旗印にでも使うか」
「そうすれば、こちらの正当性を証明できます」
く、と彼女の喉からかすれた音がもれました。するとまるで箍がはずれたように、大きな声で彼女は嗤い出しました。
「神も落魄れたものだな。たかが人間の争いに利用されるなど、畏れおおくてとても考えられぬわ」
細い肩を震わせ、くすくすと嘲笑する姿はいっそ清々しいほどでしたが、嘲る対象に彼女自身も含まれていることに、彼は気づきました。神であれと求めているのに、実際には『神』の部分は必要ない――そう言い放った彼と、言われた彼女をも抉る笑声は、あまりに痛々しくてなりません。
(……それでも)
彼の胸を軋ませる痛みは、深い闇に呑みこまれてしまいました。さきほど灯った光はすでに消しようがないほど燃え広がっており、灰や煤で周囲を黒く塗りつぶしていきます。今までずっとひそめていたものがこれほど凶暴で悪質だったとは、彼にもとうてい知りえませんでした。
「……王として、私はあなたを神として迎えたいと願います。それが国のためだからです」
残っていたためらいや戸惑いさえも、煤にまみれてしまいました。そうなれば、もう止める術はありません。
彼は卓上に泳がせていた視線を、ひたりと彼女へ結びました。それが彼女に対するせめてもの礼儀でした。
「けれど、私個人としては」
なにが起ころうがかまわないと、彼は思いました。それで神の怒りを買おうと、天の裁きを受けようと、致し方がないのだと。
それでも彼女が神ではないと主張するように、どうしても彼は言わずにはいられませんでした。先祖たちが離れているからこそ、彼女に神であれと求めた今だからこそ、言えるのです。
それは、彼が〈星の民〉の長であり、王であると知ったときからの、誰にもあかしたことのない願いでした。
「私は、あなたを見つけたくはなかった」
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