第4話

 その日は、朝から城中が上を下への大騒動でした。

 大臣をふくめた家臣をはじめ、彼の近侍に騎士に女官、城を警備する兵士に厨房をあずかる料理人、はてには出入りの商人までもがあわてふためきながら城内を走りまわっています。


 一方で、王様は自室で物憂げにため息をつき、ときおり天を仰いで嘆いていました。

「愛しのあの人がいなくなってしまった……」


 昨夏、王様が道端で拾った女性が、突然姿を消してしまったのです。

 王様は大臣に捜索を命じました。驚いた大臣たちは、兵士をかき集めて彼女を捜すように命令しました。兵士は総員総出で捜索にあたりました。


 しかし、城の中をくまなく捜しても、王様の想い人は見つかりませんでした。門番の話ではそれらしき人の出入りはなかったようですが、万が一という可能性もあります。昼が近づくにつれ、捜索範囲は城下まで広がりました。

 それでも、彼女の姿どころか手がかりもつかめません。王様は部屋に籠もり、さめざめと悲嘆に暮れるのでした。



 ◇◇◇



「……やりすぎではないでしょうか」

 彼が問うと、彼女は「なにが?」と悪びれもなく返しました。


 彼女は彼の部屋の長椅子で、のんびりとくつろいでいました。ときおり誰かが報告に訪れる以外はふたりきりで、干し果物をつまんだり室内をぶらりと歩いたりしていました。


 事の発端は早朝、彼女が彼の部屋に現れたのがきっかけでした。

 まだ日の出もまもなく、彼も寝ぼけていたので目を疑ったのですが、彼女の取った行動にさらに目を疑いました。


「私は今からおまえになる」


 意味を理解する間もなく、彼女は彼の胸に腕を伸ばしました。華奢な手のひらが胸の中心を覆います。

 予想外の展開に、彼の心臓がどきりと跳ねました。しかしそれは彼女にふれられた緊張よりも、急所をつかまれたような覚束なさの方が勝っていました。亜麻の衣や皮ふや骨肉があいだに存在するのに、彼女に直接心臓を握られた心地がしたのです。


 彼が得体の知れない不安を抱いていると、彼女のふれた部分がぼんやりとあわく光りました。何度もまばたきをして目を凝らしてみても、たしかに胸のあたりに小さなあかりが灯っています。


「来い」


 彼女が命じると光は枝分かれ、蔦となって細い腕にからみついていきました。腕から肩へと至ると、光の蔦は背を回って彼女の胸の上に集まります。ふたたびほのかな輝きとなったそれは、まるで小さな星のようにちかちかと瞬いていました。

 彼から生まれた星を、彼女はやさしく撫でました。星はゆっくりと彼女の胸に吸いこまれ、やがて空気中に溶けるように消えてしまいました。


「今のは……」

 呆然としながら問うと、彼女は星を取りこんだ胸を指し示しながらきっぱりと宣言しました。


「私は今から〝イシュメル〟だ」


 ぎくり、と彼は肩を震わせました。どうしようもない過ちを犯してしまったような焦燥に襲われます。


「おまえは今、何者でもない。無の存在だ」

「どういうことですか」


 彼女はめずらしく、ていねいに説明しました。

「今おまえからもらったものは、おまえが生まれながらに持っている『気』だ。この世のものは、すべて『名』と『気』によって存在が確立している。どちらかが欠ければ存在は成り立たぬ」

 たとえば、と彼女は彼を指差します。

「生まれ落ちるときは、皆まっさらだ。だが、おまえはイシュメルと名付けられた時点で、『イシュメル』という存在に縛られる。生まれ持った『気』も『イシュメル』となり、『イシュメル』を周囲に認識させるために変化していく。裏を返せば、名付けられるまで『気』は不安定なものであり、不安定であるがゆえに、周囲は存在を認識しづらい。ものは『名』をつけられて初めて存在が安定するのだ」


 彼は彼女の説明を咀嚼しようと努力しましたが、いまいち理解できませんでした。

「……申し訳ありません。私には難しいようです」

 わずかに彼女の眉間にしわが寄ります。

「……つまりだな。『名』はおまえを呼ぶための記号で、『気』はおまえを周囲に見せるための記号だ。呼ぶ記号と見せる記号がそろわねば、存在は安定しない。呼んでも見えぬのでは意味はないし、見えても呼ばねば存在する意味がない」

「何となくわかったような気がします」


 それから彼は首をひねりました。彼の『気』を彼女が取ってしまったなら、自分は今どういう存在なのでしょう。


「だからおまえは存在しない。無、なのだ」

 察したのか、彼女が言い添えました。

「ついでに『名』も借りたゆえ、今は私が『イシュメル』だ」

「まさか」


 とっさに彼は否定しました。彼女はやはりうつくしい彼女のままで、さきほどから少しも変わった様子はありません。加えて自分も変わっていないはずです。


 するとそのとき、女官が水差しと朝食を持って現れました。女官はいつもどおり朝の挨拶をすると、食事の支度を始めます。

 ですが、彼は異変に気づいてしまったのです。女官が彼をいっさい見ず、まるで彼に対するように彼女と接していることを。


「まさか……!」


 彼が叫んでも、女官はまったく反応しませんでした。呼びかけても目の前で話しかけても、存在そのものに気づいていないのか、まるで彼を空気のようにあつかいます。


 あまりのことに、彼はめまいを覚えました。意識がすぅと薄れそうになるのを、なけなしの気力で引き止めます。

 彼はよろめく足で、何とか椅子に腰を落としました。


「……私は、ここに存在します」

 彼女が女官を退室させたあと、彼はうめくように訴えました。とうてい受け入れられない現実に頭を抱えてしまいます。

「それはおまえの主張でしかない。どれほど訴えようと、私以外の誰もおまえには気づきはしない」

 うらめしげに見上げれば、彼女はいくぶんかやわらかい色を目元に湛えて続けました。

「案ずるな。借りたのはほんの一部だ。あくまで外見を借りているに過ぎぬし、用がすめば戻してやる」


「……いったい、なにが目的ですか」

 思わずきつい口調になってしまいます。今の彼は混乱していて、そこまで気を遣えません。


 彼女は銀河の双眸をわずかに瞠ると、そのかんばせに匂うような笑みを咲かせました。

「たしかめようと言っただろう。私が神か化け物か――見破れる者がどれほどいるのか、確認しようではないか」


 それは想像以上にうつくしい笑顔でしたが、彼にはとうてい見惚れる余裕などありませんでした。鼻腔を満たす花の香にさえ苛立ってしまいます。


「わかりません。これでどうしてあなたが神かどうかたしかめられるのですか」

「神は神にふさわしい『気』をそなえている。それはなにをもってしても隠せぬ、圧倒的な力だ」


 彼女は踵を返し、食卓に並べられた干し果物を手に取りました。

「たとえ『イシュメル』の外見をまとっていようとも、わかるものにはわかる。それがいわゆる神への畏怖だ。化け物なら化け物に対する恐怖を抱くだろう」

「私に変装する必要性が感じられません。あなたはあなたで充分畏怖の対象ではないですか」

 指先で干しぶどうを転がしながら、彼女はふん、と鼻で嗤いました。

「人は外見に惑わされる。おまえの言う畏怖は、所詮私の容姿に対してだ。実際、さきほどの女官は気づかなかったではないか」

「だとしても、人を巻きこんでまですることですか!?」


 彼の怒声に、彼女はきょとんとしただけでした。しげしげと凝視されて、なぜか彼の方が気まずくなってしまいます。


「……申し訳ありません。つい……」

「おまえの反応は当然だろう。わずかのあいだだ、耐えろ」


 彼女が気にした様子はありませんでした。それがまた、彼の胸の内を苦くします。

 そもそも、彼らの都合で彼女を引き止めているのですから、巻きこんでいるのはこちらでしょう。怒鳴る権利などないはずです。

 動転していたとはいえ、あまりにも失礼なことを言ってしまったと彼は猛省しました。常に冷静であれと言われて育ってきましたが、まだまだ難しいようです。


 彼女はのんびりと食卓の果物をあさっていました。それを見て嘆息した彼の顔が、ふとなにかに気づき、苦々しげに歪みました。

「……」

 まだ寝間着姿のままだったのを、そのときようやく思い出したのでした。



 ◇◇◇



 無になったと言われても、彼自身に特に変化はなく。

 彼は着替えも食事もできることに、とても驚いていました。朝食はいつもと同じ味がしましたし、満腹感もいつもどおりに感じました。

 ただ女官や衛兵、騎士や大臣は彼ではなく彼女に接しましたし、彼がいくら話しかけようと反応を示しませんでした。しまいには肩を叩いてみたのですが、皆一様に無視を続けます。


「おかしな感覚ですね」

 なるほどこれが無か、と彼は納得しました。これでは存在しないようなものです。


 初めは兢々きょうきょうとしたものの、落ち着いてみるとそれほど恐ろしくはありませんでした。普段と同じ感覚でしたし、彼女には見えているので安心できたのです。


 そんな彼を哀れに思ったのか、それともただの気まぐれなのか、彼女はある提案をしました。

「そのままではなにかと不便だろう。私がおまえを借りているあいだ、おまえは小鳥になるといい」

「小鳥、ですか?」

「そう。自由が利いていいだろう?」


 おまえは小鳥だ、と彼女が指し示すと、小さな鉛の重石を身体の中心に落とされたような感覚がしました。重心がはっきりと定まったような、あるいは繋ぎとめられたような――そこで初めて、どこかが欠けていたのだと知ります。ですが、それ以外はやはり変化はありません。


「小鳥になったようには感じませんが……」

「今度誰かが来たときにたしかめてみるといい」

 彼は全身を観察しました。やはり人間のまま、しかも見慣れたおのれの物です。とても小鳥だとは思えません。

「尾羽の長い、赤い鳥に見えるはずだ」

「赤い小鳥ですか。めずらしいですね」

「おまえは赤毛だからな。『名』は……そうだな」


 彼女はあごに手を添え、彼をじいっと観察しました。彼の上に結んでいたはずの焦点が一瞬ぶれた気がしましたが、胸の中心を突かれ、その疑問も薄れてしまいます。


「――おまえは、今から〝ヘリオス〟だ」


 ヘリオス、と彼はくりかえしました。古い言葉で『神の始まりの光』――つまり太陽のことです。


(……ヘリオス)


 もう一度、彼は心の中でつぶやきました。すると、生まれたときから呼ばれてきた『名』だったかのように鼓膜から身体の中心へ染みわたり、全身に馴染んだのでした。

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