第5話
彼女はなかなかの名演技で『彼女』の出奔を嘆き、一刻も早く見つけるよう涙ながらに訴えました。
彼女が女神だと知っている大臣や近侍たちでも『彼』の正体は見抜けず、普段とのちがいに戸惑いながらも、この緊急事態にうろたえています。
近侍が報告に訪れた際、彼は試しに話しかけてみましたが、彼女の言うとおり小鳥にしか見えないようでした。めずらしい小鳥ですね、とひととおり観察すると、すぐに捜索へ戻っていきました。
「本当に私は鳥なのですね」
しみじみとする彼に、彼女は長椅子にもたれながら言いました。
「飛ぼうと思えば、飛ぶこともできるだろう」
「本当ですか?」
「おまえが自分は鳥であり、飛べるのだと心の底から信じた瞬間、おまえは真実鳥になる。そうすれば飛ぶのもたやすい」
「……危険な気がするので、やめておきます」
「賢明だな。それがよい」
彼女は卓上のはちみつ酒に手を伸ばしました。
「そこまでおのれを小鳥だと信じこんでしまったならば、二度と人には戻れぬだろうからな」
彼の背すじがぞわりと粟立ちました。軽い口調ながらも、脅しには充分です。
彼女は頓着することもなく、なみなみと注がれた黄金色のはちみつ酒を楽しんでいました。硝子の杯にくちびるを寄せる姿は、男女を問わず釘づけになるほど優雅です。
自分だけ震えているのも虚しくなり、彼も軽食をとることにしました。杯を葡萄酒で満たし、皿に積まれた菓子の中から木の実を選びます。
「それで、いつまでこの状態でいるつもりですか?」
くるみを割りながら、彼がたずねます。
「陽が暮れるまで、だろうか。心配せずとも、戻してやるから安心するがいい」
はぁ、と彼は生返事をしました。それまでに言い訳を考えておくか、とくるみをもくもくと割りながら思考をめぐらせます。
(そういえば、こうして彼女と話すのも初めてだな……)
今までは、彼女の部屋を訪れてもほとんど会話はなく、彼も様子さえ知れれば充分だったので、これほど長い時間をともに過ごす機会はなかったのです。彼女自身、いつもここではないどこかを見つめていて、彼や周囲に興味を示さなかったので、とてもめずらしいことでした。
食事はほとんどとらないと女官から聞いていましたが、彼女は甘い物は好きらしく、果物やはちみつ酒はちまちまとつまんでいました。彼が割ったくるみを横から奪うときもあり、気が向けば食べるのだな、とささやかな発見をします。
それぞれ好きなことをしながら同じ空間で過ごすのは、どこか非日常的でありながら居心地のいい時間でした。
ときどき誰かが報告に来たときに、彼女が見事な演技で『彼』を装うのもなかなかおもしろく、彼は彼でおとなしく小鳥のふりをするので、まるで役者になったようでした。彼女も楽しんでいるのか、家臣が退室するとこっそりと笑みをこぼします。
日が高くなるまでのあいだ、多くの人間が部屋を出入りしましたが、ふたりの正体を暴く者はいっこうに現れませんでした。
「やはり、誰も気づかぬな」
勝ち誇ったように言う彼女に、彼は反論します。
「ですが、私にはわかります」
「おまえの思いちがいだろう。もともと勘は冴えているようだが、それだけでは私が女神だという証拠にはならぬ」
彼は悄然としました。誰かひとりでも気づいてくれれば彼女を説きふせられる気がするのですが、加勢してくれる人間は現れません。
そもそもこの条件では自分が不利なのでは、といまさらながら気づいたころ、思いがけない人物が『彼』を訪ねてきました。それは、城下の屋敷で暮らしている彼の弟でした。
三歳下の弟はまだ少年の面差しが濃く、背も彼より低いのですが、堂々とした態度だけは一人前の大人でした。くっきりとした目鼻立ちは整っており、茶色がかった翠眼は若者らしい無謀さと自信に満ちています。それは国王である彼に対しても変わりません。
弟は刺繍で飾られた外套をまとったまま、部屋に入ってきました。約束をした覚えはなかったので、彼はとっさに用件を予想できませんでした。
「女を探していると聞いたが、本当か?」
弟は、長椅子でくつろぐ『彼』を見下ろしながら問いました。彼女は弟の全身をじろじろと睨めまわします。
(まずい)
彼はふたりのあいだに割って入りましたが、弟は小鳥を無視しました。彼女はほおづえをついたまま、ゆっくりとくちびるを開きました。
「どこで聞いた?」
「城下を走りまわっている衛兵からだ。やけにあわただしいから、なにがあったのかたずねてみれば、兄上が囲っていた女がいなくなったと言うじゃないか。まったく、それぐらいでみっともない」
たしかに、彼も大げさだと思います。ですが小鳥である彼には、事情を説明する術はありません。
一方の彼女は、麗しいかんばせに影を落として言い返しました。
「あの人は私の最愛の人なのだ。いなくなっては生きていけない」
彼は自分の性格を重々承知していたので、恥ずかしさに背中がむずむずとしました。弟は気が狂ったかとでも言いたげに、鼻にしわを寄せます。
「女などその辺にいくらでもいるじゃないか。兄上は王なのだから、好きなだけ娶ればいい」
「あの人のかわりはいない」
「そう思うのは今だけだ。案外あっさりといい女が見つかる」
弟の女性観について不安を抱いた彼でしたが、彼女の目元がぴくりと痙攣したのに気づき、あわてて下がるように言いました。チチチ、と小鳥のさえずりが部屋に響きます。
「兄上は度胸がない。上に立つ者は、もっと堂々としていなければ示しがつかない」
「おまえのそれは横暴というのだ」
彼はぎょっとしてふりむきました。弟も仰天していました。いつもは彼が弟に強く出ることはないのです。
弟の驚きが怒りに転じる前に、彼女は話題を巧みに替えました。
「ところで内密にしていたのだが、おまえには特別に教えてやろう。あの女性は、我らが捜しつづけてきた月の女神だ」
弟は度肝を抜かれたのか、口をあんぐりと開けたまま硬直しました。その様子がほんの少しおもしろかったので、彼はまじまじと見つめてしまいましたが、すぐに我に返って彼女をたしなめました。
「勝手に話さないでください。まだあなたの存在が広まっては困るのです」
しかし、彼女は耳を貸しません。立ち竦む弟へ滔々と語ります。
「信じられぬだろうが、事実だ。彼女はこの世のものとは思えぬほどうつくしく、歳も取らない。怪我を負っても病を患ってもすぐに回復してしまう」
弟の顔色がみるみると変化します。
「……本当なのか?」
「本当だ。だから皆焦っているのだ」
心底困り果てた様子で、彼女は重く息をつきました。柳眉が苦しげにひそめられます。
「……皆、知っているのか」
弟のかすれ声に彼女はうなずきました。
「当然だろう。ようやく女神を見つけ出したというのに、知らせぬわけがあるまい」
かっ、と弟のほおが怒りで紅潮しました。
「なぜ今まで黙っていたんだ!?」
「おまえには関係ない」
「私だって長の一族の者だ! 女神を捜す役目を負っている!!」
彼女と彼に怒声を浴びせると、弟は踵をめぐらせました。外套の裾を翻しながら、荒々しい足どりで扉に向かいます。
「どうした」
彼女の問いに、耳をつんざくほどの叫び声が返りました。
「こんなところでのんきにしゃべっている暇はない。私が捜しにいく!」
「だが、これほど人員を割いて必死に捜しまわっているのに見つからないのだぞ」
「おのれの足で捜しにいくのが礼儀だろう! 兄上はそこでのんびりくつろいでいるがいい!!」
そう言い捨てると、弟は脇目もふらずに去っていきました。
気配が遠のき、嵐の余韻も収まると、玉を転がすような笑声が室内に響きました。彼女が腹を抱えて笑い出したのです。
「……おもしろかったですか」
「ああ、おもしろい。傑作だな」
彼女は背もたれに顔をうずめて、しばらく肩を震わせていました。舌が苦くなるのを感じながら、彼は葡萄酒でそれを紛らわせました。
いまごろ、弟は目の色を変えて女神を捜しているでしょう。
もともと弟は信心深かった祖父の影響を受けているので、自分だけ蚊帳の外に置かれた事実にたいそう自尊心が傷ついたはずです。今度こそ女神を捜し出し、恩恵にあずかろうと躍起になるのは、易々と想像できました。
「意地が悪い」
彼がこぼすと、笑声はぴたりと止みました。
「弟には無理だと、すぐにわかったはずでしょう」
彼女は目を細め、つややかにほほえみました。
「同じ母を持つ兄弟でもあれほどちがうか。おもしろいな」
「家族のことを話した覚えはありませんが」
「見ればわかる」
彼は首をひねりました。弟の整った容姿に対して彼は特に特徴のない顔立ちなので、似ていると言われることはあまりありません。性格も正反対で、おまえはもう少し自信を持てと父親に散々言われたほどです。
ですが、おそらくそういう意味ではないのでしょう。いわゆる『気』というものから判断したのだと、彼は察しました。
「もう少し、たしかめさせてもらうぞ」
拒絶のしようもなく、彼は肩を落としてうなずきました。
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