第6話

 春のおぼろな陽射しが西に傾き、肩が冷えてきた頃、彼女は唐突に神殿へ行くと言い出しました。


 一日費やしても見つからない女神に、大臣たちはすっかり消耗していました。陽が落ちれば捜索が続けられるはずもなく、姿を消してからの時間を考えると最悪の結末が脳裏をよぎり、皆の動揺を誘います。そろそろ種あかしをしなければ、病人が出そうです。


 陽が暮れるまで、と言った彼女を信じ、彼は一緒に神殿へ向かいました。彼女によると、「女神が無事見つかるように祈りにいく」そうです。


 護衛の騎士や衛兵数人とともに、彼らは徒歩で城を出ました。

 城下を守る壁は、木材の骨組を土と石で補強した頑丈なもので、その外側にめぐらせた壕を越えれば眼下には丘陵地帯が広がります。ひやりとした空気は春の匂いが濃く、神殿のある頂上への道には若草が産毛のような芽を出していました。


 神殿へ着いた途端、神官たちがわらわらと駆け寄ってこないかと彼は心配しましたが、結局は杞憂に終わりました。『彼』が現れても神官は普段どおりで、彼のこともただの小鳥としか認識しませんでした。


「神域に動物を入れてはなりません」


 胸に届くほどの白髭をたくわえた神官長が、威高げに言いました。

 麻の上下と毛織りの外套は両方とも生成り色で、縁をビーズや刺繍で飾っています。年老いた神官長の眼光が鋭いのは、若い彼がいまだ良好な関係を築けていないからで、今も不機嫌そうに『彼』と小鳥を睨めつけてきました。


「おまえはここで待っていろ」

 それだけ言い置き、彼女は早々に騎士と神殿へ入ってしまいました。


 いったいなにを企んでいるのか、見当もつきませんでした。首を伸ばしただけで神官に踏みつぶされそうになるので、その場に留まることさえ難しそうです。


 彼はとりあえず神殿を離れ、茂みに入りました。なにかあれば騎士が対応してくれるだろう――そう思いはしても、中が気になってしかたありません。

 どこか侵入できる場所を探ってみましたが、正面の入口は門番がいるので、近づくのさえためらわれました。

 彼の記憶では、神殿の入口は一か所のみです。つまり、門番の目をかいくぐるしかないのです。


 彼は木陰から入口を観察したあと、あきらめて裏へ回りました。もしかしたら、神官たちが使う通用口があるのではと考えたのです。

 神殿の壁は練色の石が寸分のすきまもなく積まれたもので、やはり練色の屋根を支えるために巨木のような柱が整然とそびえていました。奥行きは人の足でも百歩は必要で、小鳥ならば一周するだけでずいぶんと時間を使います。苦労してぐるりを回りましたが、あいにくそれらしき入口は見つかりませんでした。


(もう戻ってきているかもしれないな……)


 彼が肩を落として戻れば、槍を持った門番が変わらず神殿を守っています。とりあえず、なにか事件が起きた様子はありません。


 このまま彼女を待つか、それとも侵入を試みるか――。


 柱の影で頭を悩ませていると、背後に人の気配が現れました。はっ、として彼がふりむくと同時に、聞き慣れた声が鼓膜を打ちました。


「陛下、ここにいらしたのですか」

 気配は、彼女の供をしていたはずの騎士でした。走ってきたのか息は切れていて、顔には安堵がにじんでいます。


 彼は驚いて騎士を凝視しました。

「私だとわかるのか?」

 騎士はきょとんとしました。どうやら、彼の姿がしっかりと見えているようです。

「いきなり姿を消されたので焦りました。どちらへ行かれていたのですか?」

「いきなり姿を消した……?」


 騎士は彼女と一緒のはずでした。なのに『彼』のふりをした彼女が急に消えてしまい、彼が小鳥から元の姿に戻ったとは、いったいどういうことでしょうか。


 とにかくも、彼は神殿に入ることにしました。なによりも彼女を捜すのが優先です。


「おまえは入口で待っていてくれ。捜しものをしてくる」


 そう騎士に命令すると、彼は門番に阻まれることなく神殿へ足を踏み入れました。



 ◇◇◇



 建物内は薄暗く、いまだ真冬の冷気に沈んでいました。採光窓は高所に小さく取ってあるだけで、中は常に薄暗いのです。

 貴重な蜜蝋燭のともしびに浮かびあがる空間は、穏やかな闇と光の狭間にあり、外套をあたたかな朱色に染めた神官たちがゆったりと行きかっていました。

 神官の服装は、まだ〈星の民ウァソ・ハマン〉と呼ばれていた時代の名残で、彼の儀式用の正装も似た形をしていました。異なるのは、色が黄昏時のような群青色であるのと、大きな蒼玉を飾る点です。


 彼は一直線に祭壇へ向かいました。女神を奉る祭壇には祈りのための花とあかり、そして捧げ物が並べてありました。銀製の香炉からは煙がのぼり、甘ったるい匂いがつんと立ちこめています。


 いつもなら敬虔な気持ちになる彼でしたが、今は何の感慨も抱きませんでした。


(ここじゃない)

 彼は祈ることなく、踵を返しました。

(ここじゃない――ここにはいない)


 それは自然に湧いて出た直感でした。そしてその直感に素直に耳を傾ければ、やがてそれは明確な道標となり、彼を導きました。


 騎士にあらためて待機を命じ、城へ続く道を下ります。

 夕暮れ間近のくもり空は重苦しい灰色をしていて、周囲の森はすでに夜をまといはじめていました。若葉をざわつかせる風は雨の匂いを孕んでいます。それでも、彼は自分を呼ぶものへ、躊躇なく足を進めます。

 それは光であり影であり、火のようでありながら水のようで、そして善でありながら悪のようでした。灰色の世界でぽつりと孤独に存在するそれに、彼の直感は反応します。正体は察していたので、恐れる必要はありません。


 これほど彼女の存在を意識するのは初めてでした。居場所がわからないからなのか、それともなにかほかの理由があるのか――ともかく、それこそが世界の中心に思えてならないのです。


 道を逸れて森へ入ろうとしたとき、背後から追ってくる気配に彼はふりかえりました。そこには、なぜか弟がいました。


「どうしてここにいるんだ」

 疑問を投げかければ、弟は苛立ちを隠しもせずに答えました。

「兄上こそ、こんなところでなにをしているんだ。部屋に籠もって泣いているんじゃなかったのか?」

 彼は苦虫を噛みつぶしたような、渋い表情を作りました。さきほど、彼女が弟の逆鱗にふれたのを思い出したのです。


「……捜しものをしているんだ」

「さっき言っていた女神か?」

「ちがう。おまえには関係ない」


 とっさに否定してから、彼は後悔しました。弟の顔はさらに歪み、憎しみと軽蔑をこめて睨んできます。


「父祖から託された女神を差し置いて探しものとは、さすが兄上だ」

「彼女のことは大臣たちに任せてある。私も捜索に加わろうとしたんだが、大切なものを失くしてしまったんだ」

 ふん、と弟は鼻で嗤いました。

「女神より大切なものなのか」

「……あるいは」


 最後まで言い終える前に、彼は言葉を呑みこみました。彼女との距離がだんだんと開いていました。

「とにかく、おまえが気にすることじゃない。屋敷へ戻れ」

 彼はひとりで森へ入りました。しかしなにか勘づいたのか、弟は下草を踏みならしながらついてきます。


「どうしてついてくるんだ。帰れと言っただろう」

「兄上には関係ない」

「もうすぐ陽が沈むし、雨も降る。危険だからおとなしく引き返すんだ」

「そういう兄上は危なくないのか?」


 いっこうに譲る気のない弟に、彼のくちびるから思わずため息がもれます。

 人の出入りする森といえど、陽が暮れてから入るのは無謀です。目的がはっきりしている彼はさておき、なにも知らない弟をともなうのはどうしてもためらわれました。彼女に会わせるのもなるべく避けたいのです。


 なぜ彼女が危険な森に入ったのかはわかりません。しかし、完全に夜になる前に見つけるべきでしょう。女神であっても、夜の森は好ましくないはずです。


 遠ざかる彼女に追いつくために、彼は足を速めました。あいかわらずついてくる弟に、「騎士を呼んできてくれ」とか「馬を取ってきてくれ」とか頼みましたが、怪しんで聞く耳を持ちません。


 途方に暮れた頃、なにを感じたのか、弟が突然駆け出しました。彼を追い越し、なだらかな斜面を下っていきます。

「どこへ行くんだ!」

 彼もあわてて弟を追いかけました。弟が目指す先には彼女がいました。

 ふたりに気づいたのか、彼女も森の中を走り出します。ですが若駒のように駆ける弟の足なら、遠からず追いついてしまうでしょう。

 弟は自信に欠けるのか、四方を見回しながら道を選んでいましたが、徐々に距離を詰めていきました。


 やがて麓まで下りると森が途切れ、眼前に黒い草原が現れました。暗闇の海にあかりはなく、曇天のせいで残照も星あかりも届きません。風は獣の咆哮のようにうなり、空を仰げば雨粒がぽつりと頬を打ちました。

 そんな底のない暗黒の中にも、ひとつだけ光が見えました。金色にきらめく光は彼を射止め、彼女へと導きます。


(……まるで、宵の明星あかほしだ)


 弟にも見えているのだろうかと、彼は考えました。彼ほどではないにしろ、なにかしらは感知しているのでしょう。


 やがて近づいた光の中心で、彼女は忌々しげに顔をしかめました。弟が目の前で立ち止まると、よりいっそう苛立ちを面に刻みます。


「……あなたが女神ですか?」

 彼女は答えませんでした。ふい、と顔を背け、黒い草の海へと歩き出します。

「待ってください。どこへ行くのですか」

 彼が引き止めれば、数歩進んだ先で彼女は振りかえりました。


「……なぜわかった?」


 その瞬間の表情や、銀の双眸に宿る色から、彼は彼女の本当の目的を理解してしまいました。

 なぜいきなり城の外へ出たのか。なぜ夕方だったのか。なぜ、彼の入れない神殿で姿を眩ましたのか。


 ですが、今は彼女の望みを叶えるわけにはいきませんでした。一刻も早く城へ戻らなければ、雨に打たれてしまいます。


「雨が降ります。城へ戻りましょう」

「私の問いに答えろ」


 彼女のまとう白い光が、彼の目を鋭く射しました。強烈な光線は網膜を灼き、疼痛をもたらします。光が強まったのか、それとも自分がどこかおかしいのか――まるで太陽のごとき光量にあてられ、彼はふらりとよろけてしまいます。

「答えろ、イシュメル」

 口を開こうにも、突如こみあげてきた吐き気に返答は奪われてしまいました。耳元では耳障りな高音が鳴っています。遠くの方で大勢の声が彼を呼び、そして彼女を呼んでいました。


「女神よ、兄にかわり私が非礼をお詫びいたします。どうか城へお戻りください」

 弟が跪き、大人びた口調で語りかけました。彼女の視線がちらりと移れば、弟は歓喜に口元をほころばせました。

「先祖代々渇望しつづけてきたあなたにご拝謁が叶い、恐悦至極に存じます。我々はあなたが夜空に輝かなくなったいにしえの日から、ずっとあなたを捜し求めてまいりました。我々の役目は失われた月を取り戻すこと。あなたにふたたび夜の女王として君臨していただくために、我々は存在するのです」


 地面が揺れ、草や丘陵の影が大波となって彼を襲います。ぐるぐると回転する視界で、彼女だけが一点の星として輝いていました。しかし光は毒にも救いにもなりません。


「女神からすれば我々人間など些末な存在でしょう。ですが、微々たる力ではございますが、我々はあなたのために全身全霊を捧げます。兄のなにが怒りを買ったのかはわかりませんが、ご不快でしたらどうか私におまかせください。私も長の血を引く者です、必ずあなたのお力になることを、今この場で誓います」


 弟は熱っぽく訴えていたかと思うと、前ぶれもなく彼女の手を取りました。ぎょっとした彼女は虫でもはたくようにその手を払い、罵声を浴びせるために朱唇を開きます。

 ですがその瞬間、彼の中で閃光が走り、すべての感覚が一瞬で白に還ってしまいました。



 ◇◇◇



「無礼者が!!」


 それはいかずちのような威力で空間を切り裂きました。

 突然轟いた叱責に、弟は呆然として彼を見上げました。彼の腕は弟の胸ぐらを躊躇なくつかみ、いともたやすく地面へ叩きつけました。

「当主でもないおまえが我らの願いを奏上するなど片腹痛い! しかも女神の御身にふれるとは、なにを考えておるのだ!?」


 頬に泥をつけながら、弟はただただ自失していました。なにが起こったのか理解できずにいるのです。

 そんな弟を彼は大音声で叱りつけ、やがて気がすむといきなり彼女の前に額ずきました。


「大変ご無礼をいたしました。この者にはしかる処分を下しますゆえ、どうかお怒りをお収めくださいませ」

「いや、女神のご意志のままに裁いていただく方が我らのためだ。どうぞこの者に天の鉄槌を」


 彼の申し出に反対したのは、彼自身でした。すると、彼の声が直前の台詞にふたたび抗議します。


「なにを言う、この子はわしの孫だぞ!? この子の方が長にふさわしい!」

「そうは言うても、これには女神の存在がわからなかったではないか。こちらははっきりとわかっていた」

「だが、これには意思がない」

「我らの末裔としての決意が足りない……」


 地面に額を押しつけたまま、ぶつぶつとひとりごとを続ける彼の隣で、もはや化け物にでも遭遇したかのように弟は怯えていました。顔から血の気を引かせ、少しでも遠ざかろうとしりもちをついたまま手足をばたつかせています。それでも彼は、ひたすら理解不能な会話をひとりでかわしています。


 彼女は彼の丸まった背中を見つめました。さきほど返したはず『気』が不安定にうごめき、持ち主であるはずの彼を喰らおうとしていました。


「……ね」

 彼女は高らかに命じました。

「去ね。亡者に用はない」


 むくり、と彼が顔を上げました。額に土をつけているのにもかまわず彼女を見上げ――そして翠の双眸がきょろりと不自然な方向へ動きました。


「なんと無慈悲な」


 直後、ぶつん、と弓弦が切れたような音がして、彼は地面へ崩れおちました。

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