第2話
〈
千古、世界は太陽の男神と月の女神によって治められていました。
偉大なる二神の世界で、彼らの先祖は家畜とともに、各地を転々とする暮らしを送っていました。
それはわずかな食料と家畜しかない、慎ましやかな生活でした。けして豊かではありませんでしたが、先祖たちは月の女神を祀りあげ、日々幸せに暮らしていました。
そんなある日のことでした。突然、世界から月が消えてしまったのです。
当然、人々は驚きました。月のない夜はひたすら暗く、人々に多大な恐怖を与えました。
穀物をはじめ、家畜や木の実、貴重な果物や酒など、あらゆる捧物とともに祈りましたが、月はいっこうに昇りません。長い時間を、人々は女神のために費やしました。それでも、月が戻ることはなかったのです。
やがて、ひとり、またひとりと、女神に祈ることをやめました。届かない祈りに貴重な時間や食料を割くより、畑や家畜の世話をした方が生活が豊かになると気づいたからです。
それでも、彼の先祖たちは女神を忘れませんでした。夜闇を皓々と照らしてくれた天の鏡――うつくしき月の復活を願って、みずからを〈星の民〉と名乗り、代々女神を捜しつづけてきたのです。
それはこの土地に定住し、国を作っても変わりませんでした。〈星の民〉の長である彼の一家が、何百年も役目を受け継いできたのです。
広間にずらりと集まった面々を見渡して、彼はひそかに嘆息しました。
ほとんどが父親の代からの家臣で、十七の彼にしてみれば祖父のような人ばかりでした。いわずもがな、家臣たちも彼を未熟者としかとらえていません。
ですがいつも厳然な家臣らも、このときばかりは驚愕していました。同胞と視線をかわしあう者や呆然とする者など、さまざまです。
「イシュメル様、それは本当ですか?」
家臣の中で、もっとも高位の大臣がたずねてきました。
「本当だ」
「気のせい、という可能性は?」
「ない」
なぜかわかるんだ、と彼は言い添えました。
それはあいかわらず頭の中から響く声のせいで――きっとそれは父祖のものだろうと、彼はうすうす勘づいていました。役目は血や肉に刻まれている、と話に聞きましたが、こういうことなのでしょう。
しん、と水を打ったような沈黙のあと、誰かが厳かに言いました。
「おめでとうございます、陛下」
少しの間を置き、おめでとうございます、とさざ波のように大勢の声が追随しました。
彼は面食らいました。まさか、祝われるとは思ってもいなかったのです。
「……たしかにめでたいのだと、私も思う。けれど」
「けれど?」
「いったいどうすればいいのだろう」
喜色にほころんだ家臣たちが、ふたたび目を瞠りました。彼がなにを言っているのか理解できないようです。
「だから、私は女神をどのようにお迎えすればいいのだろう?」
彼の疑問に、ひとりの大臣が答えました。
「どのように……とおっしゃっても、神としてお祀りすればよろしいのではないですか?」
「祀るといっても、女神は物じゃない。祭壇に飾るわけにはいかないだろう」
では、とほかの大臣が提案します。
「神殿を建てて、そこでお暮らしいただくようにしては?」
「そんな簡単なことで、はたして『月』が復活するだろうか?」
彼は片手を持ちあげて、家臣たちに問いかけます。
「私たちは、はるか昔に失われた女神を捜してきた。それは、女神にふたたび夜空に昇っていただくためなのだろう。けれど、私は捜せとは教えられたが、そのあとどうすればいいのかはいっさい教えられていないんだ」
先代の王である彼の父が亡くなったとき、彼はそろそろ成人し、後継として本格的な勉強を始めようという年頃でした。
長の嫡男として生まれた彼は、必然的に幼い頃から後継者として育てられてきました。先祖代々の捜しものについても、父親に何度も何度も聞かされたものです。
捜しものがどれほど大切なのかは、彼も充分承知しています。その一方で、父親の急逝により性急に国を継いだため、知識も経験もまだまだ足りていないのです。
「誰か知らないだろうか」
自分の不甲斐なさを噛みしめながら、彼は問いかけました。
何となく答えの予想はついていました。なぜなら、先ほどから家臣たちはぽかんとするばかりで、何の提言もしてこないからです。
「……申し訳ありませんが、わしも知りませんな」
もっとも古株の大臣が、白髭をもごもごとうごめかせながら言いました。
嫌な予感が当たってしまった、と彼が落胆すると同時に、ひとりの家臣が勢いよく立ちあがります。
「深く考えずとも、捜せと伝えられてきたのだから捜し出したら解決するはずでしょう!」
それに乗じ、方々で椅子が蹴り倒されます。
「そうです、〈星の民〉の正統な長であるイシュメル様が見つけられたのです! これでたびたび難癖をつけてくる輩どもを黙らせることができます!」
「そうです陛下! 我々を偽者呼ばわりしてくるあの憎らしき田舎者どもを、懲らしめてやりましょう!!」
「女神も陛下に感謝なさるはずです! これで夜空にも月が戻るでしょう!!」
いや待て、と、ある大臣が興奮した家臣たちを手で制しました。
「畏れおおくも、女神を政に利用するなど、天罰が下るぞ」
「そうだ。あんな田舎者など放っておけばいい。陛下、それよりも女神のために壮麗な神殿を建てるのがよろしいかと」
「神官にも知らせましょう。きっと陛下の偉業を讃えるでしょう」
「いや、ただでさえなにかとうるさい神官に餌を与えるのは考えものでは? これで女神を横からかすめ盗られてはたまりません」
「それよりもあの田舎者を!」
「いや神殿を」
「神官には知らせた方が……」
「だからやつらには黙っておいた方が――」
すでに広間は喧々囂々でした。普段は物静かな大臣でさえ、興奮して持論を喚き散らしています。
彼は深く嘆息してから立ちあがると、精一杯に声を張りあげて一喝しました。
「わかった! わかったから落ち着いてくれ!」
ぴたり、と全員が口をつぐみました。熱が冷めたのか、おのれの席へおとなしく戻ります。
「……とにかく、公表すれば混乱するのはよくわかった」
国を担う立場の人間でさえこの有様なのですから、公にすればどうなるかは想像にたやすいでしょう。
そもそも、まだ女神本人は眠ったままで、月も昇っていないのです。だというのにこの状態です。自然と彼がすべきことは絞られました。
「女神の存在は、しばらく秘匿しよう」
彼の決定に、反論はありませんでした。
その後は円滑に進み、彼が女神を見つけたことはこの場だけの秘密であり、神官にも知らせないことが決定しました。
ようやく散会して彼が自室に戻ったときには、すでに夜はたっぷりと更けていました。帰ってからまだ一度も休んでいないのに気づくと、疲れがどっと背中にのしかかってきます。
夕食の支度を頼んでから、彼はふと思い立って庭へ降りました。
夜空にはところどころに雲がかかっていましたが、昨日までと何ら変わりはありませんでした。
◇◇◇
「目を覚ましましたよ」
数日後、近侍からそう耳打ちされ、彼は部屋を飛び出しました。
寝台で上体を起こしている女性は、彼が数日間観察してきた人とはまるでちがっていました。
身体は隅々まできれいに磨かれ、垢にまみれていた肌は象牙のようになめらかでした。髪は短く切りそろえられていましたが、何物にも染まらない純粋で気高い黒は、目を惹きつけてやみません。頬はほっそりと痩けているものの、思ったより顔色はよく、そして予想していた以上に造作が整っていました。
彼は寝台のかたわらに置かれた椅子に腰かけました。彼女はひたすら虚空を見つめています。
悩んだ末、そのうつくしい横顔に話しかけました。
「気分はどうですか?」
すると、彼女はゆったりと顔をこちらへ向けました。
視線がまじわった瞬間、稲妻が全身を貫きました。紺青色の硝子に銀砂を散らしたような瞳は、初めて見たときよりも輝きを増しています。か細い首は今にも折れそうで、痩けた頬やくぼんだ眼窩には哀れなほど影が落ちていましたが、それでも彼女は誇り高く、見惚れるほど優雅でした。
(――やはり、彼女は月の女神だ)
彼女は彼の顔を凝視したのち、眉をひそめました。
「……おまえが、私を拾ったのか」
背後にひかえる近侍が、途端に硬直しました。彼女は声さえも玲瓏としていて、天上の楽器を奏でているかと思うほど、麗しい響きだったのです。
感動に浸っていると、彼女は視界から彼を追い出し、ふたたび空中を見つめました。我に返り、彼は質問に答えました。
「はい」
それでふたりの会話は終わってしまいました。しん、と沈黙が周囲を包みます。
彼はあらためて、彼女の横顔を観察しました。
すべてがこの世のものとは思えないうつくしさでした。老若男女、洋の東西を問わず人を魅了する美貌でした。世の中の男は必ず虜になるだろうと彼は思いましたが、同時にこれが神なのかと、寒気さえ覚えます。
恍惚としつつも、どこかひんやりとした感覚を抱きながら眺めていると、彼女の形よいくちびるがそっと開きました。
「拾ってくれたことには礼を言おう。人の食事をとるのは久しかった」
今度は、彼もすぐに返事をしました。
「たいしたことではありません。お気に召してくださったのならよいのですが」
彼女はちらりと彼を一瞥すると、すぐにまた正面を向いてしまいました。どうやら気に入ったわけではないようです。
彼は近侍以外を部屋から退出させました。女官には、彼女が女神だとまだ知らせていないのです。
「お訊きしたいことがあります」
彼女は静かに目を伏せました。長くやわらかなまつげが、青白いほおに影を落とします。
「あなたは、我々が捜し求めていた女神ですか?」
ゆったりと、薄いまぶたが開かれます。ふたたびあらわになった双眸は、彼を容赦なく射貫きました。
「私は神ではない」
「いいえ、あなたが女神です」
彼は反射的に否定してしまいました。すると、彼女の眉間にくっきりとしわが寄ります。怒りに染まる顔はうつくしくもあり、とても恐ろしくもありました。
「人の分際で驕るな。神がこのような場所に姿を現すとでも思っているのか」
「ですが、あなたが月の女神です。私にはわかります。私の祖先が、私の中で訴えている」
彼女に出会ってから聞こえるようになった声は、いつしか大音声となって彼の中で鳴り響いていました。それは単純に喜びであったり、または信仰心からの畏敬や妬みであったりとさまざまでしたが、数日間絶えることなく彼に訴えつづけているのです。
彼女が月の女神だ、ようやく見つけた――と。
「それはおまえの妄想だ。私は神ではない」
もちろん彼も空耳ではないかと疑いました。けれども、さすがにこれほど続くと無視できませんでした。それに、たとえ空耳であろうと、彼の奥深くの根源で彼女をこのまま手放してはならないと警鐘が鳴っているのです。
それは彼の意思では左右できない、絶対的な指示でした。
「……どうか、ここに留まってくださらないでしょうか」
彼の申し出に、彼女は目を眇めました。
「できうるかぎりのもてなしをいたします。この部屋は自由に使っていただいてかまいませんし、お世話のための女官も用意します。ですから」
「必死だな」
ふ、と彼女のくちびるが嘲笑の形に歪みました。
彼は腹を立てませんでした。見苦しい自覚があったのです。
「いいだろう。おまえが望むかぎり、ここにいよう」
彼女は冷ややかな声音で告げました。しかし、彼が胸を撫でおろす暇もなく言い添えます。
「だが、すぐにおまえから捨てたくなるだろうな」
「どういうことですか」
彼の問いに彼女は応じることなく、ただひとりごとのように続けました。
「おまえたちが捜しているものは、永遠に失われた」
だからどれほど捜しても永久に見つからない、と、彼女はつぶやきました。
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