第3話
そうして、彼女は彼の客人として、城の一室に住まうようになりました。
なにも知らない女官や役人や兵士たちは、王様は道で拾った彼女を見初め、城に引き留めているのだと噂しました。
彼の立場や年齢からして、その種の噂が立つのは避けられませんでしたが、畏れおおくも月の女神を『お気に入り』にしてしまうのは失礼ではないかと、彼は危惧しました。
ところが事情を知る大臣たちは、むしろ噂どおりにふるまうよう進言してきたのです。彼が呆気としているあいだに流言は城中に広まり、ふたりの関係は本人たちの知らないところで仕立てあげられてしまいました。
好奇心旺盛な女官たちは、こぞって彼女に会いたがりました。彼には今まで浮いた噂がなかったので、気になってしかたがなかったのです。しかし彼は彼女を公には出さず、また彼女も人前に出るのを嫌ったので、城外にまで話が広まることはありませんでした。
彼女が部屋でひっそりと過ごしているあいだ、彼や家臣たちは何度も話し合いを重ね、女神の待遇を考えました。
論議はいつも混乱に始まり、混乱に終わりました。いっそ女神本人にたずねるのが最良ではないかとの案も出ましたが、彼女が神ではないと言い張るのでそれも叶いません。
ひと月、ふた月と日々は過ぎ、季節は無情にも移ろっていきました。
麦の収穫が終われば、刈ったばかりの羊毛から脂を抜き、糸を紡ぐかたわらで貯蔵庫へ食料を備蓄します。越冬のための乾燥肉や干し草の準備に、収穫した果物の加工と酒の醸造。麦の種をまけば、灰色の冬はもう目前に迫っていました。
その頃からです。誰の目にも、彼女が普通の人間ではないとあきらかになったのは。
片鱗は、彼女を拾った夏の頃からありました。身近に接する人――たとえば世話する女官や、定期的に様子をうかがう彼には、彼女の異端はささやかなところから嗅ぎとれたのです。
まず、栄養失調からの回復は、常人には考えられない早さでした。彼女は一日にパンひとつとわずかな果物しかとらないのに、めまぐるしい速度で健康を取り戻しました。
短かった黒髪はふた月もしないうちに腰のあたりまで豊かに伸び、つややかな輝きで彼女の神秘性を高めます。手入れされた爪は珊瑚色に染まり、肌はいまや透きとおるほどのうつくしさです。
彼女のそばにいれば、どこからともなく甘い香りが漂いました。それは百花に勝る馨しさで、まさに花の女王そのものが人の姿で咲いているのでした。
やがて冬になり、彼が毛織りの上着を着込んでも、彼女は夏と同じ服装で平然としていました。火に当たるどころか寒がる様子も見せません。あたたかい食事をほしがるわけでもなく、ただ毎日パンをひとつと干し果物だけを口にします。
おかしい、とあちこちでささやかれるのは、自然の流れでした。
土から春の匂いがしはじめる頃には、女官や兵士は彼女を気味悪がり、事情を知る家臣たちでさえその神々しさと異様を恐れて近づかなくなりました。
「これでも捨てる気にはならぬのか」
彼女は彼に対し、あきれるように言いました。ようやく彼は、彼女の言葉の意味を理解しました。
彼はこの一年弱で、拳ひとつほど背が伸びていました。だというのに、彼女は日々若返っていくかのように艶麗さを増していきます。
「神官長と接見していただきたいのです」
彼の申し出を、彼女はすげなく拒絶しました。
「必要ない」
「神事を司る神官に、女神の存在を知らせたいのです」
「私は神ではない」
「では、何なのでしょうか」
少なくとも、普通の人間ではないのはたしかなのです。
すると、彼女はあっさりと答えました。
「私は化け物だ」
まさか、と彼は息を呑みました。これほどうつくしく、気高い化け物が存在するでしょうか。
内からの
「化け物なら化け物で、神官にお会いくださらねばなりません。王として化け物を放っておくわけにはいきませんから」
すると彼女は目を眇め、嘲笑うように反論しました。
「化け物である私が王の城にいるのに、気づかぬ輩になにができるのだ?」
彼は言葉に詰まりました。
古来神事を担ってきた神官は、丘の頂上にそびえる神殿で女神に祈りを捧げています。その中に神通力を持つ者がいるならば、彼女の存在に気づいてもおかしくないでしょう。しかしながら、今日の今日まで神官長からそれらしき照会はありません。
「それでも、神殿に足を運んでいただきたいのです」
「赴いてどうする」
「あなたが我々の捜してきた女神であると公表します」
「そうして祀りあげるのか」
詮ないことを、と彼女は切り捨てました。ですが、彼にはそれ以外の手は残っていませんでした。
彼女がただびとではないことは、すでに城中で取り沙汰されているのです。騒動が起きるよりも、彼女が月の女神だとあかした方がよほどましでした。
「……おまえたちは」
金の腕輪をいじりながら、彼女は冷えた声でたずねます。
「月の女神を捜して、なにがしたい」
彼女の目は自身の腕に落ちているのに、どこかちがうところを見ていました。漆黒のまつげに隠れる双眸がなにを映しているのか――まるで心を代弁するかのように、腕輪はしゃらしゃらと虚しい響きを奏でます。
出会ってから、彼は一度も彼女の笑顔を見たことがありませんでした。不機嫌に眉根を寄せているか、感情がそげ落ちたように虚空を見ているかのどちらかしか、彼女は作らないのです。
「神として祀るのならば、捜し出さずともよかろう。今のまま、勝手に崇めておればよいのだから。だが、おまえたちは何百年と捜しつづけてきたと言う。……在るかどうかさえわからぬ者を、まるで本能のように」
硬く強ばった横顔を見れば、しゃらり、と彼女が腕輪を鳴らします。
彼は口を閉じて即答を避けました。しゃらり、しゃらり、と鼓膜を震わせる金属音に耳を傾け、思考の海へもぐります。
海は深く、真冬の闇夜に似た陰鬱さをもって彼を迎えました。ゆらゆらと緩慢に沈みながら海の底をのぞくと、漆黒の塊が不穏にうごめいています。
(……理由、など)
わずかに伸ばした指先がちりちりと焦げつくのを感じながら、彼は手を引っ込めました。
現実に返れば、彼女が苛立たしげにこちらを睨めつけていました。どうやら、かなり黙りこんでいたようです。
「……なにがしたいのか、と言われましても」
彼は彼女の鋭い視線から逃れながら、素直に応じました。
「私にはわかりません。おそらくあなたにふたたび夜空に君臨していただくためなのだと思いますが、私はなにも――おそらく父も祖父も、その方法は聞かされていないのです」
すでに目をそらしていた彼には、彼女の反応がまったくわかりませんでした。ただ、気まずい静寂とちくちくと頬に刺さる痛みは、おそらく気のせいではないだろうと思いました。
「……なんだと?」
腹の底が凍える響きに、彼はおそるおそると彼女へ向き直りました。
直後、彼は後悔しました。視線がからまった瞬間、ぶるりと戦慄するほどの恐怖に襲われたのです。
鋭い眼光は心臓を狙う凶器のようで、強烈な気迫は鎖となって彼を捕らえました。銀の刃が胸に刺さるのを想像し、つぅ、と冷や汗が背中を伝います。
「この大愚が。訳もわからぬのに捜してきただと? それでよく何百年も続けてきたな?」
「……おそらく、誰も気づかなかったのかと……」
「それこそ阿呆だな。愚の骨頂だ」
容赦のない罵声は、彼の恐怖心をひたすらに煽ります。今すぐこの場から逃げ出せればよいのですが、行動に移せば状況が悪化するのは明白で、彼はおとなしく椅子に座っているしかありませんでした。まさに拷問そのものです。
やがて、馬鹿だ阿呆だとくりかえす彼女へ、反抗心が頭をもたげました。いくら神といえども、何度も貶されては黙っていられません。
彼は勇気を振りしぼって、彼女に歯向かいました。
「たしかに愚かだと思います。私も先祖には不満や文句が山とありますから。ですが、これでも我々は必死で方法を探して……」
「傲慢だな。たかが人間になにができるのだ」
一笑に付され、彼は押し黙りました。ですが、簡単にはあきらめませんでした。
「それでは、神であるあなたなら、なにかわかるのではありませんか? これからどうすればいいのか、どうしたら月が戻るのか」
「まだわからぬのか。私は神ではないし、おまえたちの都合など知らぬ。勝手に私を拾い、勝手に困り果てているだけだろう」
彼は反論しようとしましたが、結局は口をつぐんでしまいました。彼女の立場からすれば、もっともな意見だったのです。
「そもそも捜せと言うが、捜してなにがしたかったのだ?」
「それは……女神の復活のためかと……」
「おまえたち人間ごときが神の助力になれるとでも思っているのか? その復活とやらの手段さえわからぬのに、捜せなどとおこがましい。女神もいい迷惑だろうな。おとなしく田畑を耕していた方がよほど無害だ」
この国の王として、〈星の民〉の末裔として、けっして認めるわけにはいきません。けれども、はたして何の意味があったのか――彼にはそれさえもわからなくなってしまいました。
先祖が喉から手が出るほどほしがった、月の女神。
その女神が目の前にいるのに、ただ『いる』だけで、現実はなにも変化していないのです。だというのに問題だけは山積していて、解決の糸口さえつかめない状況でした。
気づけば、彼の口からは大きなため息がもれていました。手のひらで額を覆います。頭の奥から響いてくる疼痛に、ふたたび嘆息がこぼれました。
方法がなくとも、当然女神を手放すわけにはいきません。大臣たちの反発は避けられませんし、なによりも〈星の民〉の長を騙る者に彼女を渡すわけにはいかないのです。
〈星の民〉を名乗った人々は、現在では広範囲に散らばっていました。その中には、自分たちの正統性を声高に主張し、彼の一族を蹴落とそうと画策する者までいます。
今までは、田舎者の戯れ言だと嗤っていればすみました。
しかし、その『田舎者』が女神の存在を知ったら。必ず手に入れようと躍起になるはずです。
それまでに何とか女神の復活を実現し、彼こそが正統なる〈星の民〉の長であると内外に印象づけなければならない――というのが家臣たちの主張なのですが、肝心の方法を考えたり女神と接したりする役目は彼に一任されているのでした。
「……だから嫌だったんだ」
彼の不満は足下に落ちて、誰の耳にも届きませんでした。いつのまにか胃のあたりに苦い塊が生まれ、彼を苛みます。
「それで、捨てる気になったか」
涼やかな声に顔を上げれば、いくらか怒りを収めた彼女がこちらをうかがっていました。ほっとしながら、彼は首を振りました。
「方法がわからないからといって、物のように捨てるわけにはいきません」
「だが、あつかいに窮しているのは事実だろう」
隠しても無駄な気がして、彼はうなずきました。
「私は化け物だ。手元に置いても何の益にもならぬ。騒動になる前にさっさと捨てよ」
(……なぜ、そこまで否定するのだろう)
彼女の拒絶ははっきりしていたのに、彼にはどこか虚しく響きました。胸を震わすほどの容姿も、天上の声も、そのときばかりはなぜか寂しげに思えたのです。
そのことに驚きながらも、彼はぽつりと、ひとりごちるように言いました。
「ですが、私にはどうしても、あなたが化け物だとは思えないのです」
それは彼にさえ揺らがせない、まぎれもない本心でした。
彼女はわずかに瞠目すると、その銀の双眸を苛立たしげに細めました。
「――わかった」
しゃらん、と腕輪を鳴らしながら椅子から立ちあがり、彼女は彼を見下ろしました。
「そこまで言うならたしかめようではないか。私がおまえたちの神であるか否かを」
尊大な宣言に耳を疑い――そしてわずかののち、彼は粛々とあごを引きました。
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