捜しもの
佳耶
本編
第1話
晴れ渡った夏空の下、緑きらめく丘の中腹に見慣れた城壁を見つけ、彼は馬上でほっと息をつきました。
彼はこの国の王で、視察という名の遠出から城へ帰る道中でした。
国王といっても年若く、少年の域をようやく出るほどの外見です。目尻の切れあがった翠眼の目元には、いまだ幼さが残っています。
しかしそれを払拭するように、口を硬く結び背すじを凜と伸ばしていたので、見る者に堂々とした印象を与えていました。
周囲を大勢の兵士に囲まれながら、草原を貫く道を彼は進みました。放牧地では牛や羊がのんびりと草を食み、麦畑は青々とした実をたわわに稔らせて風にそよいでいます。
父親が事故で急死し、十五の彼が跡を継いで二年。
ようやく国王という立場に慣れてきましたが、ひと月にもおよぶ視察にはとても疲れていました。自室でゆっくりと、誰にも気をつかわずにくつろぎたいものです。
蹄の音や家畜の鳴き声に耳を傾けながら、今年の収穫について考えていると、彼は道端になにか転がっているのに気づきました。先頭の兵士が確認に走ると同時に、停止の号令がかかります。
目をこらすとそれは人でした。行き倒れです。
放っておくのは王として無責任な気がしました。けれども、目の前で倒れている人間を助けるのは王の仕事ではないと家臣から言われていたので、彼は報告にうなずくだけにしました。
そのまま、なにもなかったかのように隊列は動き出します。
そしてすぐに、止まれ、と号令があって、隊はふたたび足を止めました。どうやら、その行き倒れのせいで通れないのです。
「隊の幅を狭めればいい」
彼が提案すると、隊列をまとめている兵士は困った様子で首を振りました。
「編成しなおすには時間がかかります」
「では、草むらを歩けばいい」
「毒ヘビが出たら危険です」
しかたなく、彼は倒れている人を退けるよう命じました。そしてせめてもの詫びに、水と食料を分け与えることにしました。これならば家臣の不満も買わないだろうと思ったのです。
草むらにその人と食料を置くと、隊列はふたたび進み出しました。
(女性だろうか……)
草陰の体躯は小柄で、彼といくつも変わらない少女のようでした。哀れみを覚えつつ、彼は通りすぎる際に「ありがとう」と小さくつぶやきました。
すると、それに反応したのか、ぴくりとその人が身じろぎました。
彼は思わず馬の足を止めてしまいました。隣に並んでいた騎士が驚きに馬を止め、衛兵がつられて止まり、やがて隊列全体が停止します。
なぜ止まってしまったのか。彼自身、理由はわかりませんでした。
身につけているのはかろうじて服の体をなした
なのに、立ち去るどころか目をそらすことさえ、彼にはできませんでした。身体中の血が肉が細胞が、ここを動くなと訴えてくるのです。それはほとんど本能でした。
やがてゆっくりと、倒れている人が頭をもたげました。もつれた黒髪に隠されていた顔を、初夏の陽射しが無遠慮に暴きます。
この国の人とは似ても似つかない、ふしぎな顔立ちでした。それなのに、彼はどこか親近感を覚えました。土か垢で面貌も真っ黒に汚れていましたが、目鼻立ちは整っています。
その人は馬の足下をさまよわせていた視線をふと持ちあげて、彼を視界に収めました。その瞬間、彼はすべての理由を悟りました。
身体の底の、彼を形作るもっとも深い部分で爆発が起こり、噴き出したなにかが奔流となって襲いかかってきます。彼は勢いのままにさらわれ、それに全身を呑みこまれてしまいました。まるで渓流に流され、そのまま滝壺に落とされたようでした。
頭から足のつま先に至るすべてが、歓喜の水に浸されていました。あまりの
(見つけてしまった)
とうとう――とうとう見つけてしまったのだ。
彼は滑るように鞍から降りると、行き倒れの前に両膝をつきました。
その人は銀に輝く瞳で、ただじっと、彼の顔を見つめていました。
◇◇◇
「この人を城へ連れていく」
彼が言うと、隊列に加わっていた全員が耳を疑いました。
騎士や衛兵や隊列をまとめる兵長が懸命に止めても、彼は譲りませんでした。彼の友人であり、信頼している近侍も説得しましたが、それでも主張を曲げません。
彼はふたたび気を失ったその人を幌馬車に乗せると、自分もそれに乗りこみ、出発するように命令しました。
練色の砂岩で作られた城へ到着すると、彼はその人をあいている部屋へ運ばせました。
寝台でぴくりとも動かずに眠る横顔を、かたわらでひたすらに見つめます。医者の診察ののち、女官の手で清拭をしたおかげで、顔にこびりついていた土はきれいに拭いとられていました。
「いったいどうしたんですか?」
ゆっくりと、近侍の声に振り向きます。彼は祈るように組んでいた手で口を覆い、深くため息をつきました。
――話すべきか、黙っておくべきか。
先ほどからずっと、彼は悩みあぐねていました。しかし、隠すわけにはいきません。
鼻先で両手を合わせると、彼は寝台へ視線を戻し、その人の寝顔を見下ろしました。
「――彼女は、我々の捜しものだ」
私が見つけてしまったんだ、と彼は真剣な表情で告白しました。
近侍はきょとんとしただけでした。言葉の意味がいまいち伝わっていないようです。
しかたなく、彼は明言しました。
「彼女は、月の女神だ」
「まさか」
近侍はとっさに否定しましたが、主がいつにもまして真面目だったので、信じないわけにはいきませんでした。静かに眠るその人の寝顔を、まじまじと観察します。
「……この人が?」
首肯すると、まさか、と近侍はうなり声をもらしました。
彼とて、目の前で眠る女性が自分たちの捜しものだとは、とても信じられませんでした。そのため、近侍の気持ちもよくわかるのですが、彼女が女神だと頭の奥で誰かが喚きつづけているのです。
そうして、自分の意思とは関係ない場所から絶えず湧いてくる歓喜の水が胸をいっぱいに満たし、彼をここに留めているのでした。
「……とりあえず、大臣たちを招集しましょう」
近侍の提案に、彼はこくりとあごを引きました。
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