第17話

 水面から顔を出したと同時に、彼と彼女は地面へ放り出されました。

 さいわい岩もなくやわらかな土の上だったので、背中を打ってもそれほど痛くはありませんでした。


 彼の瞳が最初に映したのは、満天の星でした。幾億もの輝きがなにであるのかとっさに判断できないまま、ただうつろに夜空を見上げます。

 耳をくすぐる穏やかな草の音と、ほおを滑る夜気のひやりとした清らかさ。

 心を惹かれ、彼は息を吸いました。しかし肺や喉が思うように動いてくれず、噎せこんでしまいました。

 ひさしぶりに感じる肋骨の動きや心臓の脈動、覚えのある土や空気の匂いに、今までのことを思い出します。


 咳が落ち着いてからゆっくりと腕を動かせば、はたして視界には見慣れた人間の腕がありました。一本ずつ指を動かし、ひとつも欠けていないのをたしかめます。

 それから、そっと自分の顔をなぞりました。目がふたつに鼻がひとつ、口も人間のがひとつ。耳が両側にひとつずつで、髪も記憶どおりの長さでした。

 けれども身体を起こそうとすると、なぜか動きません。

 もしや、と彼が肝を冷やしたとき、腹のあたりでなにかがもそりとみじろぎました。


「……戻ってきたか」


 腹の上に乗っていた彼女が身を起こすと奇妙な重さは消え、足も思いどおりに動いてくれました。起きあがって確認すれば、たしかに両脚とも無事についています。


「安心しろ。おまえは人間の形をしている」

 彼はほっ、と肩の力を抜きました。そして彼女の声が聞き慣れた響きであるのに、無性に安心しました。天上の女神であったときの声は心が蕩けてしまうほどでしたが、やはり出会ってからの方が耳に馴染んでいるのです。


 周囲を見回せば、そこは静夜に眠る草原でした。動物の気配も鳴き声もせず、ときおりよぎる風に草がかさかさとささやくだけで、あとは快い静寂に満ちています。

 近くの丘の中腹では朱色の火灯りが揺れており、配置や浮かびあがる建物の形から彼の城だとわかりました。


「少しずれてしまいましたね」

 彼女は軽く首を振りました。

 ほつれた黒髪がふわりと靡き、花の香をひかえめに放ちます。

「これほど近ければ充分だ。歩いて戻れる」


 彼女にも特におかしなところはありませんでした。しかし安心したのも束の間、彼女は刃のように鋭い目で彼を睨めつけました。


「私は隠れよと言ったはずだ。だというのに壁を越えたあげく、兄上の『名』を操ろうとするなど、おまえは救いようのない大愚だな。手練れの術者でも神の『名』は操れぬわ」


 彼は返事に困りました。あきらかに無謀だったと、自分でも反省していたからです。


「申し訳ありません……。ですが、看過するわけにはいかなかったのです」

「なぜだ」

「あなたが危険にさらされるとわかっているのに、自分だけ逃げるようなまねはできません」

「それでおのれの命を無下にするのか」


 あまりの正論に返す言葉もありませんでした。彼女の機嫌をうかがいながら、おそるおそると問いかけます。

「……それで、私はどうなったのでしょうか」

 男神の鉄槌――あの炎を思い出すだけで、心臓を鷲づかみにされます。彼は白い劫火に跡形もなく灼きつくされるのを、いやというほど味わったのです。そして男神の瞋恚の炎は、容赦なく彼を葬ったはずでした。


「本来の〝イシュメル〟は滅びただろうな」

 いまだ眉をひそめながら、彼女は答えました。

「今のおまえは、私が与えたヘリオスという『名』と、対となるおまえの『気』でできている。多少足らぬ『気』を分け与えはしたが、元は〝イシュメル〟の一部としたものだ。おまえがおのれは人であり、〝イシュメル〟であると思うのなら、それがすべてだ」


 彼は自分の手をまじまじと観察しました。

 生まれてからおのれの一部としてきた手と、わずかのちがいもありません。身体の感覚も意識も、以前とはまったく変わりませんでした。


「……私があなたに助けられたのですね」

「だが、おまえが戻りたいと思わなければ、戻れはしなかった」


 戻りたい、戻るのだと念じた彼を導いた手。あれは間違いなく父親の手のひらでした。

 育て方を間違えたと嘆いたのが父の本心であっても、この世界へ連れ戻してくれたのも父なのだと、いまだ残る懐かしいぬくもりが静かに教えてくれます。


「……太陽神はどうするでしょうか」

 こみあげてきた熱いものを隠しながら、彼はたずねました。

 彼女は彼の感動に気づいているのかいないのか、視線をついと夜の草原へとそらしました。


「兄上がほしかったのは私ではなく、『月』を治める手段だ。私の中にわずかに残っていた神の部分をすべて置いてきたゆえ、兄上は近く『月』を手に入れられるだろう。おまえたちが望んだように、月はふたたび夜空に君臨する」


 すると、血色を取り戻した彼女のくちびるが、いびつな弧を描きました。


「私はますます化け物になったというわけだ。これでもはや、真実神ではない。私がおらずとも世界はめぐり、月も満ちる。おまえの知る『名』も、もう私の物ではない」


 しん、と水を打ったような静寂しじまが、草原に戻りました。

 星あかりの下では、彼女の表情ははっきりと見えません。しかし、これまでになく哀しんでいるのは、声や気配から染みるように伝わってきました。


 彼は長く悩み抜いたのち、そっと口を開きました。


「城へ帰りましょう。いつまでもここにいては危険です」

 彼女がゆったりとふりむきます。うつくしい顔には、疑問だけがありました。

「私は出ていくと言ったのだぞ。忘れたのか」

「覚えています。けれど、このまま何の支度もなく出ていくのは、いくらあなたでも無謀です。一度帰りましょう」


 彼女のかんばせが、みるみると嫌悪に歪みました。


「おまえはすべて知っていると言ったな。どこで知った」

 彼は正直に答えました。

「世界の狭間から、あなたたちのところへ行く途中に見ました」

「ならばわかるだろう。私は死なぬ。いくら飢えようが傷つこうが滅びぬのだ。支度など必要ない」

「たしかに死にはしませんが、痛みや苦しみを感じないわけではないでしょう? 人間なら死に至るほどの辛苦を、あなたは味わってきたはずです」


 人なら死という安息が訪れますが、彼女にはもたらされません。終わりのない苦痛を、人間と同じ時間の流れで受け止めなければならないのです。

 二年などほんのまばたきほどの時間だろう、と言った自分はなんと無神経だったのかと、彼は後悔していました。


「死なないからとなにも持たずに旅立つあなたを、私は見過ごせません。この地を離れるのなら、当分の食料と路用を持っていってください。なにかあれば戻ってきてください。少なくとも、私が生きているあいだは手を貸せます」

 彼女は侮蔑もあらわに言い返します。

「私は化け物だ。今のおまえならよくわかるだろう。なのに、なにゆえ関わろうとする」

「あなたが化け物なら、私も同じです。私はあなたから与えられたもので存在しているのですから」


 彼はわずかも怯まず、まっすぐに銀の視線を受け止めました。

 以前なら腹を立てる彼女に畏怖を覚えましたが、今はふしぎと恐ろしくありません。それだけ覚悟が決まったのでしょう。


「おまえこそ私を疎んでいただろう。見つけたくはなかったと、面と向かって言ったのはおまえだ」

「見つけたくなかったのは事実です。私はあなたを見つけたくはなかった。神は神で、目の前に現れず理想として存在しているだけでいいと、私は思っていた」


 彼は素直に認めました。そして、自分の想いを彼女に伝えたいと願いました。

 伝えなければ、今後自分がどうしたいのかも伝わらないのです。


「私は、自分がなにかのきっかけになるのが恐ろしかったのです。平凡な私より使命をはたすべき長は数多といたはずなのに、彼らにできなかったことを私がはたせるわけがないと、逃げていたのです」


 実際、自分が女神を見つけるのにふさわしかったとは、いまだに確信を持てませんでした。過去の優秀な長の方が、よほど有用な対策を講じられたでしょう。

 けれど、彼は彼女の事情を知りました。なにも知らなかったころとは異なり、凡才なりの答えを出せるのです。


「あなたを我らが女神として迎えいれるのが、あなたを信仰しつづけてきた部族の長としての役目でしょう。ですが、あなたはもう神ではないと言う。それなら、私はあなたをあなたとして迎えいれたい。信仰対象ではなく、あなたという存在として」


 彼女は目を瞠りながら、ぴくりともせずに彼を見つめていました。反応はまったくありませんでしたが、彼はいっこうにかまいませんでした。


「なぜ理由が伝えられていないのか、ようやくわかった。見つけることこそが意義だった」

 星の結晶である彼女の瞳へ、彼は新緑の双眸をやわらかく細めました。

 これほど気分が晴れやかで、そして朗らかに笑うのはひさしぶりでした。


「やっと、見つけた」

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