第18話
彼は執務室に籠もり、たまった仕事を片づけていました。
最近は来客が多く、対応に時間を取られるので、必然と普段の政務が滞っているのです。
客の用件は、押し並べて『月の女神についての説明と見解』でした。
彼と彼女が太陽の男神のもとから戻ったのは、姿を消してから三日後の夜中でした。秘匿されていた彼女はともかく、王が突然行方不明になったのは隠しようがなく、数日間で城は戦時下のように緊迫していました。
無事にふたりが戻ったことを、城に勤める全員が喜びました。
しかし、庭からいきなり姿を消した説明を求められるのも当然で、彼が返答に窮していると、彼女が「仲違いから出奔しようとしたところを追いかけてきた」と、皆の前で簡単に話しました。
その後は、連鎖的に彼女が女神であるのがあかされ、本人もあっさりと認めたのもあり、女神の存在は瞬く間に知れ渡っていったのです。
人々は彼を讃え、女神へ祝いの花や歌を捧げるのに熱心でしたが、知らされていなかった者――特に神官はそれどころではありません。神官長は彼を問い質すために、毎日城へ押しかけてきます。
神殿だけではなく、地方の領主や族長、商人からの照会も山のようで、女神との面会を求める声も後を絶ちませんでした。彼が拒めば拒むほど相手も躍起になり、訪問者の数も増えていきます。
今日もどれほどの客をあしらわなければならないのか――考えただけで頭痛がして、彼は眉間をもみほぐしました。
大臣らが奔走してはいるものの、混乱は収束するどころか広がっていくばかりです。
女神の存在が公になってから十日、睡眠時間は減る一方でした。
はぁ、と彼が重いため息をついたときでした。人払いをしていたはずの扉が開き、弟が現れました。
「兄上、いったいどうやってこの事態を収めるつもりだ」
誰が通したのだろうと、彼はほおづえをつきながら見上げました。弟は眉をつり上げながらまくし立てます。
「なぜ女神を披露しないんだ? 長年求めてきた女神のご尊容を、皆が拝見したいと願うのは当然だろうに。早々に内外に正式に公表し、兄上こそが女神を見つけ出した王だと宣言すべきだ」
彼は弟をまじまじと見つめてから、ふ、と笑みをこぼしました。
彼が戻ったとき、安堵に胸を撫でおろす人々の中でただひとり、顔を蒼白にした弟が震えながら佇んでいました。目の前で尋常でない方法で姿を消し、三日も戻らなければ、万が一の事態も考えたでしょう。
ひとりで残してしまったことに申し訳なさを抱くと同時に、弟なりに家族として慕ってくれているのだと、彼はうれしく思ったのでした。
「なにがおかしいんだ?」
「いや」
以前の弟なら、彼を王と認めるような発言はしませんでした。ですが、本人は気づいていないようです。
笑いを堪えつつ、彼はいつものように適当にあしらおうとしましたが、思い直して慎重に言葉を選びました。弟が変わったのなら、彼も変わるべきでした。
「おまえの意見は、〈星の民〉の者として正しいのだろう。けれど、私は彼女の意思も尊重したい。私はなるべく彼女に寄り添って、取るべき道を選んでいくつもりだ」
ほほえみながら語る彼に、しかし弟は胡乱な視線を返しました。
「……なにがおかしいのか知らないが、神官長はかなり腹を立てているようだぞ。兄上が女神を妾として城に囲っていたとかいう噂を、どこからか仕入れてきたらしい」
彼は笑顔のまま、ほおを引きつらせました。
たしかにそういう体裁ではありましたが、まさかこんな形でつけが回ってくるとは予想外でした。
「……まずい」
逃げ出したい、と彼は頭を抱えました。頭痛だけでなく、胃まできりきりと痛み出します。
そのとき、あわただしい足音とともに、近侍が部屋に駆けこんできました。のろのろと目をやれば、近侍は蒼ざめた顔で叫びました。
「陛下、女神がまた消えてしまわれました!」
「……また?」
彼は訝しげに眉をひそめました。
「なにを言っているんだ。彼女ならそこに……」
「〝イシュメル〟」
高く澄んだ声に呼ばれた直後、近侍と弟がそろって悲鳴を上げました。
あわい光をまとった彼女は、かすかに苦い表情で彼の前に立ちました。
「おまえには見えるのだったな。ついてこい」
彼女は踵を返して、回廊へ向かいました。振りむく気のないうしろ姿を追いかけます。
近侍と弟の様子から察するに、どうやら彼女は姿を消していて、彼もそれに巻きこまれたようでした。ちょうど逃げ出したい気分だったので、彼は素直に従いました。
小柄な背中は迷わず城門を目指しました。次々と伝播していく騒ぎを横目に、ふたりは並んで城を抜け出します。
戻って以来、彼女は旅に出ずにそのまま城に住みつづけていました。
彼としてはふたたび彼女が苦しむのは忍びなかったので、ここに留まっているのはとても喜ばしいことでした。
けれども、彼女も一連の騒動でずいぶんと苦労していました。
世話役の女官は畏怖のあまり仕事ができなくなりましたし、押しよせる来客から身を隠すために、ひたすら部屋に閉じこもっているしかありません。女神の居場所を悟らせないよう細心の注意を払っているため、食事や風呂の支度もひと苦労なのです。
「どこへ行くのですか?」
整った横顔に問えば、ちらりと銀の瞳が彼を見上げました。
「あそこは息が詰まる。しかも騒々しくて落ち着かぬ」
「申し訳ありません。これでもあなたの部屋からは遠ざけているのですが……」
「おまえを責めてはいない。癇に障るのは、あの神官を自称する者どもだ」
彼女は不快げに吐き捨てました。息をひそめるように生活しているのも、ほとんどが城を出入りする神官から逃れるためでした。
「おまえもたいがい放胆だが、あやつらにはおよばぬな。部屋の周囲をちらちらちらちらと、煩わしいことこの上ない。
「……そうですか」
彼も神官長に思うところはありますが、どうやら彼女もかなり鬱憤がたまっているようです。
道はいつもよりにぎやかで、往来する人々もかなりの数でした。歩くたびに彼女の装飾品が繊細な音を奏でましたが、その快い響きに気づくのは彼しかいません。艶麗なかんばせに浮かぶ不満も、おそらく彼にしか見えていないのでしょう。
「訊いてもいいですか」
何だ、と返ってきた問いに、彼は言葉を続けました。
「なぜ、女神だと認めたのですか?」
あれほど否定していたのに、と彼は思わずにはいられませんでした。女神としてではなく、彼女自身として迎えると約束したのにです。
彼女はしばらく無言でしたが、辛抱強く待っていると、やがてぽつりと答えました。
「神か化け物か、どちらかを取るなら神の方がいくらかよいだろう。……あれほどうるさい輩が湧くとは予想外だったがな。早計だった」
(……気をつかったのだろうか)
もちろん化け物より女神の方が、彼の立場からしても好都合です。彼女の異端には誰もが警戒していたので、遠からず決断を迫られたでしょう。
やがて壕にかけられた橋を渡りきったとき、いきなり彼女が足を止めました。
ぼんやりと考えこんでいた彼は一瞬驚きましたが、銀のまなざしの先を追いかけて納得しました。
「ああ……、いつのまにか咲いたのですね」
若芽が吹いていたはずの草原は、一転してあざやかな七彩に埋もれていました。春の野花がひといきに花開いたのです。
可憐な花はのどかな陽の下で一心に春を謳い、そよ風はいたずらでもするようにほおや首筋を撫でていきます。くすぐったさに、彼のくちびるから自然と笑みがこぼれました。
これからしだいに気候は穏やかになり、作物も家畜もぐんぐんと成長する時期になります。春陽に微睡んでいた森も目覚め、夏に向けてにぎやかになるでしょう。
彼女はぼんやりとその場に佇んでいましたが、急に草原へ向かって駆け出しました。まるで翼でも生えているかのように軽やかに足を運び、やがてふたたび立ち止まります。
わずかの距離をあけたまま、彼は彼女の背を見つめました。
駆け寄ってたしかめる必要はありませんでした。彼女はたしかにこの場所に足をつけ、この風景に身を浸していました。
「ここもうつくしい場所ですよ」
妨げないようにそっと声をかければ、彼女は草原を眺めたまま静かにうなずきました。
「ああ。……とても、うつくしい」
重くせつない吐息とともに、それは彼の鼓膜を震わせました。吹き抜ける風に乗って、彼女と野の花が香ります。
「……しばらく世話になる」
ひかえめな申し出に、彼は明るく応じました。
「はい。あなたのためなら、いくらでも」
すべてを失った彼女が過ごす永遠の、ほんのかたわら、足を休める場所を提供する。それこそが、なにも持たないただびとの彼が選んだ道でした。
おくれ毛を風に遊ばせながら、彼女がふりかえります。熱を帯びた瞳にうつろな色はなく、顔にも張りつめた気配はありません。
漆黒のまつげをゆるりと持ちあげて彼に焦点を結ぶと、彼女はかすかに首を傾げて、ほろりとほころぶように笑みを咲かせました。
それは彼がようやく見ることの叶った、彼女の心からの笑顔でした。
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