小話
君の名を
こっくりとした夜闇の片隅に灯る、あわい光のもとで、彼は獣皮紙の山に囲まれていました。
机の上に乱雑に広げられた紙は、城の書庫に収めてある家系図や歴史書、または神話や民間伝承などを記したものでした。もう幾度も目を通しているので、ほおづえをつくと指からは革の匂いがします。
ゆらり、ゆらり、とときおり思い出したように揺れる蜜蝋燭のともしびは、すっかり大人になった彼のほおを曙色に染めていました。
事の発端は四日前の昼、彼女が突然「私の『名』を考えろ」と彼に命じたことでした。
三年前に彼が道端で拾った彼女――彼の部族〈
一方の彼は、三年のあいだにぐんぐんと背が伸び、体格も少年から青年へと変化していました。今なら簡単に彼女を抱きかかえられるでしょう。
新しい『名』が必要だと、彼女は言いました。
もともと彼女が持っていた『名』は女神としての『名』で、すでに彼女のものではないのを彼も知っていました。
『名』はそのものの本質であり基礎でもある、とても重要なものです。本来ならば『名』と『気』の両方を持たなければ存在できませんが、彼女の場合、元が神であるせいか今まで問題はありませんでした。
しかしやはり存在が不安定であり、なにより彼やほかの人間が彼女を呼ぶときに不便なのです。
そうして彼は、彼女の命名を任されたのでした。
女性の名前に詳しくない彼は、大臣たちに相談を持ちかけました。信仰心の厚い大臣たちは、嬉々として大仰な名を挙げました。あまりに熱心で白熱していく彼らに、彼は早々に退散してひとりで考えることにしたのです。
過去の人物を参考にするために資料をそろえたはいいものの、まだ二十歳になったばかりの彼に『名』の善し悪しなどわかるはずがありません。
とりあえず目についたものを端布にまとめてはいますが、いまいち決め手に欠けます。
(女神の名、か)
今後、神の名として永遠に残るものを彼が決めていいのか――。
事情を話したときの大臣や近侍の誇らしげな顔が脳裏に浮かび、彼は思わずため息をつきました。家臣たちは彼が女神に寵愛されているのだと、完全に信じ、喜んでいました。
月の女神を捜し出した王、女神の恩恵を一身に浴する偉大な長、と人々は彼をもてはやします。
しかし、自分のしたことなどささやかなものだと、彼は知っていました。あいかわらず自分はどこにでもいる平凡な人間で、特別な才能や能力などいっさい持たないのだと、彼が一番理解しているのです。
だというのに、周囲の作りあげた虚像は日々成長し、城下のみならず国内外にまで広まっていました。それを知るたびに、彼は腹の底が凍える感覚に襲われます。
(……いまさら不安を抱くのは、おかしいのかもしれない)
彼はあらためて、候補を記した端布をつまみ上げました。
古風な名や華やかな名など、さまざまな種類の名が彼の字で書き留められています。じっと目をこらせば、布に染みた墨のにじみまではっきりと見えそうです。
「……無理だ」
睨みあっていた端布を放り出し、彼は机に突っ伏しました。すでに期限は明日に迫っていますが、寝不足なのも相まってうまく頭が働きません。
(もういっそのこと、くじで決めようか)
彼女は相当怒るでしょうが、彼はすでに限界でした。
腕を枕にまぶたを閉じれば、見計らったかのように眠気が訪れます。抗うつもりのない彼は、あっというまに眠りの海に沈んでいきました。
心地よく微睡んでいた彼を、ちくり、と針で刺されたような痛みが揺り起こしました。それはもっとも深い場所にある鋭感が感知したものであり、ほどなくまなうらに明るい星がひとつ現れました。
ぼんやりとしながら、星が彼女であるのを彼は理解しました。
いつの頃からか、彼は彼女の居場所が把握できましたし、彼にとってはすべての中心となっていました。それは、彼が彼女から与えられた『名』と『気』でできているからでしょう。
星が部屋から庭へ降りるのを、まぶたを下ろしたまま追いかけます。皓々とした銀の光はそれだけではっとするほどうつくしく、心惹かれるものでした。
(……私が呼びたいと思った『名』が、彼女の『名』)
おまえが呼びたいと思ったものがそれだ、と言った彼女を思い出しながら、彼は脳裏にたおやかな姿を描きました。
凛としてうつくしく、それでいてどこか寂しげな彼女を呼びとめる音――女神の名である以前に彼女の『名』なのだと、遅ればせながら認識をあらためます。
息をひそめ、感覚を研ぎすませる彼のまなうらを、数多の文字が流れていきました。
雨粒のようにはらはらと落ちていく文字は、彼の心をなかなか射止めません。それでも焦らずに、じっとその時を待ちます。
やがて文字の雨も小降りになったころ、どこからか甘い花の香りがしました。彼女の花だ、と思った瞬間、それはほとりと底の池に落ち、さざ波を生みます。
波立つ水面を追い、静寂に耳を澄ませれば、それは彼に根づいていました。
彼はいきおいよく立ちあがると、上着もまとわずに庭へ出ました。冴え冴えとした月あかりの中を、導かれるままに走ります。満月も近い夜はまだ彼には明るすぎて、誤って光の世界へ迷いこんだようでした。
予想どおりの場所に、小さな影は佇んでいました。
寝衣のままの彼女は彼に気づいていないのか、無言で星空を眺めていました。
「――シェリカ」
初めて紡いだ音は、ぬるい夜風にさらわれていきました。ゆるく編んだ黒髪が靡き、ゆっくりと彼女がふりかえります。
「決まったか」
月光の下でほほえむ彼女に、彼も笑みを返しました。
「はい、ようやく決まりました」
隣に並んだ彼を見上げて、彼女は意地悪げにくちびるをつり上げます。
「自棄になって眠っていただろう。わざわざ起こしてやったぞ」
「やっぱり、わざとでしたか」
「厚意だ」
彼が彼女の気配を敏感に感じるように、彼女もまた彼が見えているのでしょう。くじで決めようとしていたのも、もしかしたら見通されていたのかもしれません。
「気に入りましたか?」
「悪くはない」
彼はほっと胸を撫でおろしました。彼女の視線が上がるのにつられて、夜空へ目を向けます。
二年前、天上から戻ってしばらくののち、『月』は前ぶれもなく東の空に昇りました。それ以来、彼女は月の女神として、彼は女神を復活させた王として、名を馳せたのです。
「……本当に、いいのですか?」
天の鏡、
月のない夜しか知らなかった彼にはいまだめずらしく、日々姿を変えるさまもふしぎでなりません。これが彼女のかつての姿だったのかと、郷愁に似たせつなさが胸を締めつけます。
「ここにいようが他所に行こうが、女神という立場はつきまとうだろう。ならばここにいた方がよい。私が偽りの神であるように、おまえも偽りの王だからな」
はっ、として隣を見下ろすと、銀河の双眸が静かに彼を見ていました。
その清澄な輝きは空の月よりよほど麗しく、彼の心をたとえようのない熱で染めていきます。
じわりと指先に灯った衝動はびっくりするほど強烈で、彼は彼女に悟られないようあわてて握りつぶしました。
「偽り者同士が夫婦になるのだから、世も末だな」
ふ、とほころぶかんばせに、もう一度問いかけます。
「本当に、私と夫婦になってもいいのですか」
はたして彼と結婚する意味を理解しているのか――この国の王妃として、月の女神として、今後を彼と分かちあう意味を、彼女が本当に理解しているのか不安でなりません。何度念を押してもたりないほどです。
「夫婦にならなくとも、私はあなたがここに滞在できるようにします」
「もう決めたことだ。女々しい」
ぴしゃりと一喝され、彼は口を閉ざしました。彼女のことですから、たいていの事態は予測できたうえでの決意なのでしょう。
(……けれど、いまいち夫婦の意味をわかっていない気がする……)
神と人の結婚概念が同じだとはかぎらないのに、悩んでいるのはどうやら彼だけのようでした。
彼女は彼の眉間のしわの原因を勘ちがいしたのか、にやりと口角をつり上げました。
「厭わしくなったらかまわず去るゆえ、安心しろ。私は寛容ではないからな」
「……では、せいぜい離縁されないように努力します」
「それがいい」
くすくすと耳にふれる笑声はこそばゆく、ひとりで煩悶しているのもしだいに馬鹿らしくなってきます。
深い傷を負っていた彼女が天上にいたころのように笑い、そしてはてしなく重い嘘をともに抱えていく――それだけで彼には充分なのです。
もう二度と、身体の芯から凍えるようなあの恐ろしさは抱かずにすむだろうと、彼は思いました。
彼女の存在が彼の支えになるのです。それはとてもいとおしく、尊いことでした。
「戻りましょうか。明日は朝から忙しいですから」
「イシュメル」
名を呼ばれ、彼は返事をしました。小夜の風が彼女のおくれ毛を弄び、芳しい香りを彼まで届けます。
「おまえが呼ぶたびに、私は〝シェリカ〟になる。呼べば呼ぶほど、私は私になる」
だから呼べ――と、彼は言外にふくまれた意味を察しました。
くちびるを開きかけ、わずかに迷ってから、明日の花嫁へ手を差し伸べます。
「戻りましょう、シェリカ」
彼女は戸惑いも躊躇もせずに、彼の手を取りました。ほっそりとした手のひらから伝わるぬくもりは甘く、自然と指先に力がこもります。
この熱を一生手の内に抱いていきたい――ささやかに祈りながら、彼は彼女とともに歩み出しました。
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