久堅にたむけ

 寝台に横たわるのは、老いぼれた男だった。

 実際の歳はそれほどではないが、患った病のせいで急激に痩せ衰え、実年齢よりはるかに老いた外見を男は得ていた。

 頬は痩け、眼窩はくぼみ、皮ふに隠れた頭蓋骨の形が手に取るようにはっきりと視認できる。くすんだ肌は乾燥し、もはや骨と皮だけになった腕は持ちあげることさえ難しい。


 もう長くはないのを、男も彼女も理解していた。だから彼女はいっときも側を離れなかった。


 男に付き添う女は、一転してとてもうつくしかった。豊かな黒髪はつややかに輝き、白く瑞々しい肌はいつも馨しい香りを従えている。顔にはしわやしみのひとつも存在せず、くちびるは鮮血のように赤くなまめかしい。


 女はひたすらに年老いた男を見守っていた。男の周囲に死の臭いが充満しているのも、そして逃げ出したいほどの穢れであるのもわかっていたが、本能的な恐れを呑みこんで寄り添いつづけていた。


 ――とうとうその時が来た。

 おそらく、彼は明日にも息を引き取る。病に冒された肉体を捨て、魂だけになって死者の国へ旅立っていく。

 そこには、彼を苦しめる病も困難も何もない。彼は苦しみから解放されるのだ。


 しかし、そこは永遠に彼女にはたどり着けない場所だった。どれほどこいねがっても、行き方がわからなかった。


 置いていかないでほしいと泣き喚くのは簡単だ。実際、今までに何度も彼に当たり、恨み言を連ねた。けれども彼は年月とともに老い、彼女との距離を確実に広げていった。


 薄いまぶたがゆっくりと持ちあがり、翠緑の瞳が彼女の姿を映す。夫の眩しそうな表情に、彼女はくちびるを噛んだ。


「私もすぐに行く」

「……急がなくてもいいんですよ。時間はたくさんある」


 ひび割れたくちびるが、言葉を紡ぐためにゆるりと動いた。こまめに水を与えても、彼のそれはすぐに乾燥してしまう。

「私が行きたいのだ。わかるだろう」

 彼の顔にかかった髪を、指先で除けてやる。赤い髪と新緑の双眸だけは、出会ったころと変わらなかった。


 彼に拾われてからおよそ三十年――たったそれだけしか経っていないのだ。

 なのに少年だった彼はぐんぐんと背が伸びて立派な大人になり、気づけば肌にしわが現れはじめ、ついには死の床に就いた。

 病を患ってからは半年も経っていないだろう。病魔は一瞬で彼を死の淵へ追いやってしまった。


「……人はなぜ、これほどにも儚い」

 苦痛を与えないよう、注意深く額を撫でる。まだあたたかい、と彼女は思った。


 何度もこの熱の中で眠り、朝を迎えた。健康的なくちびるは、その辺に転がっている小石のようにありふれた愛を彼女にささやいた。その安っぽさが彼女にはとても心地よかった。

 だが、そんなささやかな安寧さえも、明日にはこの熱とともに奪われてしまう。

 たしかにここにあるのに、永久に失ってしまうのだ。


「――ひとつ、願いが」


 ぽつりと彼が言った。それはあまりにもか細く、彼女は口元に耳を寄せなければならなかった。

「何だ」

 何度か喘鳴がくりかえされる。もう喋ることさえつらいのだ。

「……誰のためでもない、私だけの願いです。聞いてくれますか」

「聞こう」

 彼女は凜とした声で応じた。彼の双眸がわずかに細められた。


「急がなくていい、回り道をしてもいいのです。焦らずともこれ以上離れることはないのだから」


 彼女は彼の名を呼んだ。しかし、かすれた音にしかならなかった。


「世界には、あなたも見たことのない素晴らしいものが、まだたくさんあるはずです。それを私のかわりに見てほしい。私はこの国しか知らないけれども、あなたはさまざまな場所でありとあらゆるものに触れられる。さまざまな人間と関わることができる」

 彼は彼女を見つめて、穏やかにほほえんでいた。苦悩や悲嘆などいっさい無い、やさしい笑顔だった。

「あなたが望むのなら、私の妻という立場に縛られなくてもいい。母親でも――もちろん神でなくてもいい。あなたの好きにすればいい」


 ひと呼吸して息を整えてから、けれど、と彼は続ける。


「最後は、私のところに来てください。百年でも、千年でも、忘れずに待っています。だから必ず来てください」

 こみあげる嗚咽を、彼女は必死に抑える。あふれる涙は頬を伝い、彼の乾いた肌を打った。

「そうして、あなたが見聞きしたものを教えてください。それまで待っています。ずっと、あなたの話を聞くのを、楽しみに待っています。だから、必ず私のもとに」


 堪えられなくなり、ついに彼女は泣き崩れた。細くなってしまった彼の肩に顔を埋め、抑えつけていた激情を解放する。一度堰を切った荒波は暴れ狂い、もはや彼女にさえ治められなかった。

 自分にこんな感情があることすら、彼女は知らなかった。数えきれないほどの歳月を生きてきて、これほど泣き叫ぶのは初めてだった。

 それほど彼は重要な存在で、かけがえのない人間なのだと、あらためて自覚する。ほんのわずかな時をともに過ごしただけの人間が、何千年という彼女のすべてを覆してしまったのだ。


「……叶えてくれますか?」


 彼が宝物のように紡ぐ名に、彼女は泣きながらうなずいた。

 このちっぽけなどこにでもいる男は、心地よい休息だけでなく、これからの気の遠くなるような放浪に意義まで与えてくれた。

 すべてに置いていかれ独りになってしまっても、それは目的があることなのだと彼女が思えるように。二度と無意味な苦しみを味わわずにすむように。


「必ず叶える。必ず、必ず」


 彼女は彼の頬に額をすり寄せた。死の穢れが全身にまといついているというのに、彼女にとっては何よりも崇高な存在だった。


「必ずおまえのところに帰る。必ず行く。だから、私を覚えていてくれ」


 抱きかえす腕はもうない。かわりに彼は、はい、と約束した。





 夜明けとともに彼は息を引き取った。看取ったのは彼女だけだった。

 最後の力を振りしぼり約束をかわした彼は、力尽きたようにまぶたを閉じると、もう二度と目を開かなかった。しだいに細くなっていく呼吸に彼女は耳を澄ませ、死にゆく恐怖と肉体を捨てる苦痛を慰めるために、ひたすら彼の頭を撫でつづけた。


 下がっていた女官や医師が異変に気づいたときには、彼女はすでに死の穢れに冒されていた。いつのまに意識を失ったのか、次に目覚めたのは自室の寝台の中だった。


 国王であり夫である彼の葬儀に出席しないわけにはいかない。もちろん欠席するつもりはない。

 だが、彼女はひとりの妻として、夫の死を嘆くことはできなかった。人々は王を寵愛した〈女神サユル〉の臨席を望んでいるだけで、ただの未亡人が嘆く姿など期待していないのだ。


 ――彼がいなくなっただけで、すでにこれほどちがう。


 以前なら、彼女は悲嘆と絶望とともに姿を消していただろう。

 しかし、彼女にはまだ母と慕ってくれる子どもがいた。そうして彼との約束があった。


 何があろうと、最後には彼のもとへ帰る。そのための方法を捜して歩きつづける。子どもたちが死んで、いつかその子孫にさえ神と崇められても、彼が忘れずに待っている。


 昔は持たなかった終着点を、今の彼女は持っている。それだけで、狂うほどはてしない命でさえ役割を持つ。

 ふたたび一人の存在として見てもらうために。何も持たない自分を求めてくれた人間のために。


 そのために、彼女は彷徨う。

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捜しもの 佳耶 @kaya_hsm

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