第16話

「おまえ――」

 紫にくすんだ彼女のくちびるが、ぶるりとわななきました。

「なにゆえここにいる」


 彼女の動揺に、彼はあっさりと答えました。

「追いかけてきました」

「なんだと?」

「先祖が手を貸してくれました」


 簡潔に説明してから、彼は彼女の目の前に立つ男――あきらかに人間ではない存在を見ました。

 相手は視線がからむと、かすかに眉根を寄せました。


「なにゆえ人間がここにいる」


 全身を凍りつかせるほどの緊張が、彼を襲いました。

 さきほど彼女の記憶をたどったときにも恐怖に震えましたが、やはり直接対峙するのはまったく異なります。

 あのときは逃げるという選択肢がありましたが、今は相手の視野に入ったが最後、すべてを委ねてあきらめざるをえない、膨大な畏怖と無力感がありました。


 それでも彼は、ひとすくいの意地で太陽の男神から目をそらしませんでした。

 ここまで来たからには、怖じ気づいているわけにはいきません。彼女が危険にさらされているのなら、なおさらです。


「彼女から離れてください」

 男神の表情が険しくなります。からからに渇いた喉と舌で、彼ははっきりと言いました。

「彼女を失うわけにはいかないのです。私にはその責任がある」


 男神が一歩、彼へと踏み出しました。思わず退きたくなる足を必死に押しとどめます。


「〈星の民〉――」

 まじわった視線から黄金の瞳が強引に入りこみ、頭の中を無遠慮に探っていきました。脳が抉られるような苦痛を、彼は歯を食いしばって堪えます。

「おまえたちは『月』を捜しつづけてきたというが、人間ごときになにができる。無知で愚劣な人間どもが。おのれは選ばれし者と慢心し喚いているだけであろう」


「私は全部知っています」

 彼はしわがれた声で反論しました。

「たしかに、我々はなにも知らずにきた。けれど私はすべてを知っている。はるか昔にあなたたちがなにをし、どんなあやまちを犯したのか。なぜ月がなくなったのか。なぜ女神が自分を化け物だと言うのか」


「知っているとして、なにができる」

 また一歩、男神は彼に近寄りました。喉がごくり、と無意識に鳴ります。

「人間が口を挟むな。目障りだ、ね」


 ぴり、と空気が研ぎすまされ、全身をこまかく切り刻むような痛みが彼を襲いました。


 彼は完全に、肉食獣に狙いを定められた獲物でした。逃げることは適わず、ただ自分の喉笛が噛みちぎられるのを待っているしかありません。

 それならば、噛み殺される前にできうるかぎりの抵抗をしようと、彼は思いました。獲物は獲物なりの矜持を示すのです。


「あなたの命令には従いません。我々の行為はたしかに一方的だった。けれども、私は彼らの末裔として女神に関わる義務がある。彼女に危険がおよぶのなら、遠ざけたいと願う意思がある」

 それに、と彼は続けました。

「私はあなたたちの『名』を知っている」


 ぴくり、と男神の肩が跳ねました。彼女も動揺したのか、息を詰めながら彼を凝視しています。

 彼は唾液で喉を潤わせてから、二柱の神に聞こえるようにはっきりと――しかしどこかうつろな口調で語りました。


「『名』はそのものの本質。そのものの基礎であり、『名』を与えられた時点でそのものは『名』に縛られる。『名』は本質であり基礎であるから、『名』を支配した者はその存在さえも支配できる――」


 それはどこからともなく流れこんできた知識でした。けれども、彼にとっては霧を払う風でした。


 ――なぜ、彼は彼女の名前を知らなかったのか。

 それは、知られてはいけなかったからです。


 彼は太陽の双眸をまっすぐに射返して、呼びました。


「私たちを地上へ帰してください、飛輪」

「馬鹿な!!」


 途端、彼女の叫び声が上がりました。かすかに赤みの戻った顔から、ふたたび色が失われていきます。

 男神は驚きに微動だにせず佇んでいましたが、ふいに喉の奥をこするような笑声をもらしました。くっくっ、と数度、彼を嗤います。


「おまえごときにわたしの『名』を操れるとでも思うたか」

 金の双眼で瞋恚の炎が噴いたのを、彼ははっきりと目撃しました。唯一の抵抗であったはずが、どうやらみずから身を差し出してしまったようです。


「邪魔だ。消えよ、〝イシュメル〟」


 男神の冷淡な断罪とともに、足下から白い炎がごう、と上がり、一瞬にして彼の全身を包みました。


 燃えさかる炎は灼熱でありながら酷寒であり、肉体のみならず精神までも灼きつくしていきます。その痛みは人の身には耐えがたい激痛でした。彼は絶叫することもままならずに、ひたすらおのれが破壊されていくのを傍観していました。

 これがただの死だったなら、彼は肉体や存在を残せたでしょう。父祖のように、死者の国へ行けたでしょう。

 しかし彼に与えられたのは、肉体も魂も残らない、完全なる『無』でした。


「愚か者が!!」

 彼女の怒声が轟くのを、彼は拷問のあいまに聞きました。

「こちらへ来い、〝ヘリオス〟! それは捨てよ!!」


 彼女の声に呼応し、白い炎の中から緋色の小鳥が飛び出しました。

 小鳥は弱々しく羽ばたきながら、差し伸べられた腕にたどり着きます。手のひらでぱたりと力尽きた小鳥を、彼女は男神からかばうようにそっと両手で包みました。


「そなた――」

「動かれるな、〝飛輪ひりん〟」


 太陽の男神の動きが、ぴたりと止まりました。一方で劫火は衰えず、轟音とともに彼を消し去っていきます。


「わたくしが持っているすべてを兄上にお渡ししましょう。そうすれば、多少は『繋ぎ』の役目を果たすはずでございます。あとは兄上の采配で事態をお収めください。わたくしとは二度と関わられますな」


 背後にあった紫檀の衝立がぐにゃりと歪んだかと思うと、黒い穴が現れました。渦を巻きながらどんどん広がる穴に背中をあずけ、彼女は石像のように硬直する男神へ、哀しげにほほえみます。


「この世界で唯一の完全であられる、愛しき兄上様。わたくしのことなど打ち捨て、お好きに世界を統治なさいませ。今後も永久に兄上のすべてが正義であり、兄上が絶対であられましょう。わたくしは兄上の不義でありあやまちでございますれば、地に堕ちて滅びるのが道理でございます。どうか二度と、兄上の世界が続くかぎり、お忘れください」


 それだけ告げると、彼女はみずから黒い穴へ身を投じました。

 すぐにあたりは漆黒の闇に覆われ、男神の姿も見えなくなります。


「――〝イシュメル〟」


 彼女は両手でくるんだ赤い小鳥にささやきかけました。


「おまえは鳥ではない。思い出せ、おまえは〝イシュメル〟だ。おまえが生まれ落ちて死ぬ世界を思い出せ。おまえの居場所を思い出せ」

 イシュメル、イシュメルと、彼女はくりかえし呼びつづけます。底のない闇を落下する中、それは彼女の手に灯る唯一の色彩でした。

「思い出せ。帰りたいと思え。おのれの場所へ戻ると強く想え。おまえの世界を引きよせろ」


 泡のようにはかなく消えようとしていた意識のもとで、彼はぼんやりとその声を聞きました。母親のように慈しむ響きに、自分が何者であったのか、そしてなにをすべきなのかをおぼろげに考えます。

「おまえは〝イシュメル〟だ。襤褸のような私を拾ったのはおまえだろう。私を女神だとわかっていながら、見つけたくはなかったと言っただろう。理を覆して追いかけてきたのは〝イシュメル〟だろう」


 くりかえしささやかれる『名』に、靄がかかっていた彼の思考は、にわかにはっきりと晴れました。


 生まれ育った石の城。そこから望む城下と人々の生活。壕の向こうの畑や草原。

 今はもういない両親の顔と、残った唯一の弟。幼い頃からの友人である近侍。仕事真面目で寡黙な騎士に、難攻不落で教師のような大臣たち。

 おまえが次の長だと言い聞かされて育ち、自由で豪毅な弟をうらやましく思いながらも、兄として長子として努力に励んだ日々。

 突然父を亡くしたときの衝撃と恐怖。両肩にのしかかった責任に押し潰されそうな夜。

 それでも、眼下に広がる町と草原のうつくしさに胸を打たれた夜明け。


「戻ると強く思え。おまえがあるべき場所へ戻るのだ」


 光のように射す声に、彼は強く願いました。帰りたいと――帰るのだと、はっきりと念じました。


 あの世界へ、自分が生まれ育ち死ぬ世界へ。自分が生まれた地へ。自分が責任を持って治める国へ。自分を支えてくれる人のもとへ。


 ふいに生じた糸口を、彼はしっかりと捕まえました。それは幼い子どもの手のようであり、壮年の男のようでもあり――。

 力強く引かれると同時に、彼と彼女は水の壁へ飛びこみました。

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