第7話

 気づくと、彼は自室の寝台で眠っていました。

 見慣れた天井に、身体に馴染む寝具の感触。新調したばかりの毛布はふっくらとやわらかく、ふくよかな母親の腕のようなあたたかさで彼を包みます。

 ぼんやりとしながら視線を横へ滑らせれば、寝台の帳がぬるい春風にふわりふわりと翻っていました。布の向こうにあふれる麗らかな陽光はとろりとしたはちみつ色で、目覚めたばかりの彼の瞳まで黄金色に溶かしてしまいます。


 穏やかな微睡みに浸る寝台の中で、彼はゆっくりと身体を起こしました。いまいち意識がはっきりとしませんが、特に異常はありません。

 腕を伸ばして帳をめくれば、広い室内では数人の女官があわただしく動きまわっていました。それをぼうっと眺めていると、ひとりが彼に気づき、そして全員が一斉に歓声を上げました。


「王様、お目覚めになったのですね!」

「ご気分はいかがですか?」

「今、医師を呼んでまいります!」


 眠気を引きずっていた彼はまともに返事もできませんでしたが、診察が終わり騎士が現れた頃、ようやくすべてを思い出しました。


「私はどうやってここまで戻ってきたのだろう……」


 弟が彼女の手にふれた直後、彼は意識を失ってしまいました。その後の記憶はまったくありません。小柄な彼女や細身の弟が彼を運ぶのは不可能でしょう。


「陛下が去られてしばらくした頃、いきなり目の前にあの方が現れて、陛下が倒れたからすぐに来いとおっしゃったのです」

 騎士の証言に、彼はなるほどと納得しました。


「彼女は?」

「お部屋でお休み中です」

「そうか」

 ほっ、と安堵に肩の力が抜けました。聞けば倒れたのは昨日の日没頃で、今は翌日の昼前です。それほど時間が経っていないことに、ふたたび彼は安心しました。


「お食事は召し上がれますか? 念のため、今日は一日お休みいただくように大臣から言づかっております。ゆっくりお休みください」

「わかった。食事の用意を頼む」


 すぐに女官が遅い朝食の準備に取りかかりました。手際よく働く人々の姿を追いながら、彼はぽつりとつぶやきます。

「……彼女に会わなければ」

 話したいこと、訊きたいことが、彼にはたくさんありました。



 ◇◇◇



 本来ならば食事に誘うべきなのでしょうが、彼女があまり食べ物をとらないので、夕食後に訪ねることにしました。

 彼女の部屋は彼のそれと同じ造りですが、一年のあいだにそこかしこに女性らしさが取り入れられていました。それでもけして華美なわけではなく、物にあふれているわけでもありません。両親を亡くし、弟が成人して城を出てからは王宮に住むのは彼ひとりだったので、他人の使う部屋の空気がどこか懐かしくもありました。


 ふたりが挟む卓には、酒や果物や菓子が山と用意されていました。しかし、どちらも手をつけようとしません。


 彼女はやはり誰よりもうつくしく気高い存在として、彼の正面に座っていました。

 深い深い闇を湛える豊かな黒髪、ふれればほろりと溶けてしまいそうな真白の肌。ほんのりと朱に染まる頬は愛らしく、花弁のくちびるはあかりに照らされぞくりとするほど妖艶に濡れています。

 彼女から立ちのぼる香りに恍惚としながら、やはり夜の女王なのだと彼はつくづく実感しました。昼間よりも夜の方が、うつくしさが一段と際立っていました。


「昨日は大変失礼しました。あなたが騎士を呼んでくださったと聞きました。ありがとうございます」


 彼から口を開けば、彼女は落としていた視線をゆっくりと上げました。

 絡みあった虹彩には、満天の星が嵌まっていました。ひとそろいの瞳の中でゆるやかに時を刻む銀河は、彼をはるか宇宙へと飛ばします。


 ――これほどうつくしいものがこの世界にあるのか、と。


 今にも飛び跳ねたいような、または泣き叫びたいような、どうしようもない気持ちを抑えこんでいると、彼女がようやく言葉を発しました。


「いつもああなのか」

「ああ、とは?」

「覚えていないのか?」

「はい。急に気分が悪くなってそのまま意識を失ってしまったのです」


 そうか、と相づちを打ち、彼女は簡潔に事情を説明しました。


「私にもよくわからぬことを言っていたが、おそらくおまえの先祖らに身体を乗っ取られたのだろう」

「そうですか……」


 ふたたびふたりは沈黙しました。彼女が説明を求めているのは、言葉にしなくても伝わってきました。彼もそのつもりでここに来たのです。


「……以前話したと思います。あなたが我々が捜しつづけてきた女神であると、私の祖先が、私の中で訴えていると」

 それは、彼女を拾って数日後のことでした。目を覚ましたばかりの彼女が、自分は神ではないと主張し、それを彼が否定したのです。


 彼女は思い出したのか、ああ、とうなずきました。

「それがあれだと?」

「はい。表に出てきたのは初めてですが」

「あんなものが頭の中で騒いでいるのか」


 どこか不快げに眉を寄せる彼女に、彼は苦笑を返しました。

「初めて感じたのは、あなたと出会ったときでした。その頃はまだ声も小さく、それこそ空耳ではないかと疑ったほどです。ですが最近になって、彼らの存在はしだいに大きくなりはじめました」

「大きくなった……?」

「はい。大勢の人間に背後に立たれているような、常に見られているような、そんな心地です」

「気味が悪いな」

「正直、かなり気味が悪いです」


 すると直後、鋭い痛みが頭に走りました。脳の中心から針で刺されるような痛みは吐き気をともない、彼に痛苦を与えます。


「……申し訳ありません。今のはお気に召さなかったようです」

 口を覆って吐き気をこらえる彼を、彼女はうっすらと目を細めて睨みました。

 耳元では何百人もの喚声が彼を罵倒し、身をわきまえろと説いてきます。どうやら味を占めたらしく、ずいぶんと干渉するようになってきていました。あまりの大音声に耳には疼痛が走り、こめかみからひびが入りそうでした。


 彼女はしばらく無言でしたが、いきなり席を立つと、顔を青くする彼に向かって酒杯の葡萄酒をかぶせました。

 彼は反射的に目をつむりました。けれど、水が床に散る音はしても、自分が濡れた感覚はありません。まぶたを開いて確認すれば、やはり彼自身はまったく濡れておらず、まるで葡萄酒が意思を持って避けたかのように、周囲にだけ染みを作っていました。


ね。つけあがるな」


 彼女の一喝は鞭となって彼を打ちました。ぴしり、と刹那だけ胸を刺した衝撃は、痛みとなる前に身体をすりぬけていきます。そうすると、いつのまにか頭痛も吐き気も治まり、背中にあった気配や声も跡形もなく消滅していました。


「遠ざけてやった。これでしばらくは寄ってこないだろう」

 彼女は満足して腰を下ろしました。てっきり自分に対して怒っているのだと彼は思っていたのですが、どうやら勘ちがいだったようです。


 自分の父祖であり、膨大な畏敬と憧憬を彼女に抱いていた人々を、まるで虫のように追い払われたのには少々胸が痛みました。けれども、先祖のせいで気分が悪かったのも事実でした。


「……ありがとうございます。助かりました」

 頬に血の気が戻りはじめた彼へ、彼女は釘を刺します。


「これは一時しのぎでしかない。おまえはあれらの血を引いている――つまりあれはおまえの一部でもあるから、たやすく切れるものではないのだ。あきらめるか、無理やり断ち切るか、どちらかをせねば根本の解決にはならぬ」


 あきらめるのはともかく、無理やり断ち切るのは響きからして穏やかではありません。みずからを作る一部を除いて、はたして無事ですむでしょうか。

 だから、彼は自分の中に生まれた第三の選択肢を、小さくともはっきりとした声で提示しました。

「――または、彼らの要求を呑むか」

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