第11話
「なにがあったのですか?」
中庭で思案にふける彼に、近侍がたずねました。彼はなんでもない、とそっけなく返しました。
彼女に謝罪して以来、ふたりはぱたりと顔を合わせなくなりました。もともと生活の場が噛みあわなかったので、彼が部屋を訪ねなければ顔を見ることも言葉をかわすこともありません。
結局、先日の騒動の説明はふたりともしませんでした。
なにがあったのかさっぱりわからない家臣たちは、やたらと事情を問うてきましたが、彼は沈黙を貫いていました。彼女に問い質せる人間はいないので、彼が口を開かなければ他から話がもれる可能性もないのです。
彼女が女神だと知る者たちは、彼と彼女の仲が修復されるのを望んでいました。ようやく見つけたというのに、機嫌を損ねてまたどこかへ行かれてはたまらない――そんな家臣たちの想いは彼も痛いほど感じていましたが、叶わないのもよく知っていました。
彼女が出ていくと言ってから、すでに三日が経っていました。
いつ城を出ていってもかまわなかったのですが、声だけはかけてほしいと彼は伝えていました。知らないうちにふつりと姿を消してしまい、そのまま永久に別れてしまうのは、どうしても避けたかったのです。
そしてできることなら餞別を渡したかったのですが、それをどこから調達してくるのかが問題でした。
「陛下、いいかげん口を割ってください。皆、説明を求めています」
「説明もなにも、口喧嘩をしただけだ」
「原因は?」
「たいしたことじゃない」
何度目かのやりとりをかわしていると、兵士に先導されて四阿に向かってくる人影に気づきました。
彼は顔をうつむけて、ひそかにため息をつきました。近侍も困ったように彼に目を向けてきます。
「女神と仲違いをしたとか?」
四阿に上がるなり詰問してきた弟に、彼は眉を寄せました。ずいぶんと城内のことが筒抜けのようです。
「どうせ兄上が不遜な態度を取ったのだろう? このあいだのことと言い、これでは女神がお怒りになるのも無理はないな」
「……おまえが言うほどのことじゃない。些細な口喧嘩だ」
「神に歯向かうのが些末事だと?」
ふん、と弟があからさまに嘲笑しました。
「それでよく我々の長を名乗れるものだ。まったく情けない」
直後、彼の腹の底からどす黒いものが鎌首をもたげました。しかし、それが外へ牙を剥く前に、近侍が弟をたしなめました。
「口を慎みなさい。いくら弟君といえど、国王陛下に対して無礼です」
弟は不満げに舌打ちしました。それでも、暴れかけた彼の怒りはふたたび静かな眠りにつきました。
近侍は、父王が亡くなってから懸命に仕事を務めてきた彼の苦労を、ずっとそばで見てきました。幼い弟を守るためにも、十五歳の彼はひとりで王位に即くしかなかったのです。
一方の弟はかわらず世話役に守られ、何の苦労もなく育ちました。それは彼も望んだ結果でしたが、少し甘やかしすぎたかもしれないと最近つくづく反省するのでした。
「……とりあえず、中へ入ろう。嵐が来そうだ」
睨みあうふたりを止めながら、彼は立ちあがりました。
天気の変わりやすい春先にはよくあることですが、いつのまにか空には暗雲が垂れこめていました。生ぬるい風が強く吹くたびに髪や衣服を弄び、不快感を募らせます。
中庭を移動するあいだにも、みるみるとあたりは暗くなっていきました。雨の匂いはまだしませんが、今にも稲光が走りそうです。
(……いくらなんでも、今日は彼女も城にいるだろう)
そう思ったとき、前方にちかりと星が光ったのを感じました。彼女だ、と判断したと同時に、視覚も姿をとらえます。
数日ぶりに見る彼女はやはりこの世で一番うつくしく、その美貌に彼だけでなく近侍や弟も見惚れていました。しかし、彼女の表情が険しいことに気づき、彼はいちはやく我に返りました。
「来い」
いきなりの命令に、彼は耳を疑いました。
「どうしたのですか」
「さっさと来い」
彼女は苛立ちながら彼の手首をつかみました。予想外のできごとに、彼は唖然としたままずるずると自室へ連れこまれます。
彼女は彼を置くと、ひとりで荒れ狂う屋外へ足を向けました。
「どこへ行くのですか? 外は危険です」
細い背中に問えば、彼女は鬱陶しそうに振りむきました。
途端、開け放たれた扉から強風が吹きつけます。風は彼を正面から殴ると、室内の調度までも荒らしていきました。
「どこでもいい、さっさと隠れろ。なにがあっても姿を見せるな」
それだけ言い置き、ためらいもなく庭へ降りる彼女のあとを、彼はあわてて追いかけました。
いまや外は夜のようで、木々は狂ったように枝をしならせています。暗澹とした黒雲は地平線まで連なり、今にも大地を押し潰しそうです。
「いったいどうしたのですか」
ふたたび問えば、空を一心に見据えていた視線が、ついと彼へ移りました。彼女の瞳にまで雲がかかったのか、普段きらめいている銀河がなりをひそめています。
「隠れよと言っただろう。早く中へ戻れ」
強い命令の端には、焦りがにじんでいました。輝きを失った瞳や、かすかに震えるまつげ、緊張に強ばる頬――まとう光もどこかぴりぴりとしています。
(怯えている……?)
まさか、と彼は目を疑いました。彼女が怯えるところなど当然見たことがありませんし、そもそも女神である彼女が怯える状況など想像できません。
「……なにがあるのですか」
彼の声が緊迫したのを感じたのでしょう。彼女は蒼ざめたくちびるに歯を立て、うなるように答えました。
「兄が来る」
「……兄?」
彼女の兄――月の女神の兄と言えば、太陽の男神です。
世界をあますところなく照らし、すべての生命を育む、慈悲深き太陽神。太陽の恵みは天の恵みであり、地上の誰もが光がなければ生きてゆけません。
しかし男神は恐ろしい神でもあり、罪人や不信心な人間などは容赦なく灼熱の炎で灼き殺してしまうのでした。太陽神は世のすべてを治め、男神の裁定が世界の絶対なのです。
そして、その炎で裁かれたうちのひとりが、彼女だと言い伝えられていました。
やはり詳細は伝わっておらず、おそらく人間にはおよべない事由なのでしょう。
しかし、ある日突然消えてしまった女神に非があるとは思えず、彼の先祖たちは太陽の男神が罪のない月の女神を追放したと、解釈したのでした。
いまや彼女は蒼白で、小柄な体躯も暴風にさらわれてしまいそうでした。彼は風上に回って壁になりましたが、どうにも気に入らなかったのか、ぎろりと睨めつけられてしまいました。
「わからぬか。おまえたちが厭う太陽神が来ると言っているのだ。理解したならばさっさと退け」
「それはわかりましたが、なぜ太陽神がこんなところに……」
「おそらく私に用があるのだろう。ここにしばらく留まったのが徒になった」
無実の女神のために放浪してきた〈星の民〉にとって、太陽の男神は忌避の対象です。東の方では男神を唯一神として崇める国があるそうですが、残酷なまでに潔癖な男神は、彼らにとってひたすら恐ろしい存在でした。
「どうすればいいのですか」
にわかに動揺を覚えながら、彼はたずねました。さきほどから質問してばかりでしたが、彼女しか正確に状況を把握していないので、どうしても頼るしかないのです。
そんな無力な彼を嘲るように、風が低くうなります。
「さすがにこのまま行方を眩ますのは不可能だろう。私は兄上にご拝謁を賜るが、おまえは嵐が過ぎ去るまで気配を消しておとなしくしていろ」
「なぜですか」
「長であり、私と関わりすぎている」
彼女はぞっとするほど冷たく、そして真剣な表情で言いました。
「兄の興味を惹くようなまねはするな。私でもかばいきれぬ」
そのとき、回廊で別れた弟と近侍がようやくふたりに追いつきました。弟もどこか不穏な空気を感じているのか、あわてた様子で割りこんできます。
「女神よ、なぜこのような場所におられるのですか? 早く部屋へお戻りください」
邪魔をされて腹が立ったのか、彼女は息を切らせる弟を半眼で睨みました。
弟はびくりと肩を跳ねさせて硬直してしまいました。彼女は黙って庭の中心へと歩き出します。
「待ってください。太陽神に会って、あなたは大丈夫なのですか」
「私ではなくおのれの心配をしろ」
彼が引き止めても、彼女は足を止めませんでした。彼でさえともすれば強風に煽られそうになるのに、平然としています。
「め、女神よ、お待ちくださ……」
あきらめずに追ってきた弟も、彼女を止めようとしました。けれども、彼女はいっさい耳を貸そうとしません。
「うるさい、黙れ」
「わ、私は女神の御身を思って……!」
「誰がおまえに案じてくれと頼んだ? 傲慢な人間め、目障りだ」
辛辣な言葉に、弟はとうとう立ち竦んでしまいました。さすがにかわいそうだと彼も思いましたが、今は彼女が優先です。
彼が一歩を踏み出したとき、彼女の向かう先にぽつんと蝋燭ほどの光が見えました。それは荒天でも明々と輝き、瞬く間に大きくふくらんでいきました。
二、三回呼吸をするあいだに、光は重厚な石の扉になっていました。乳白色の玉板を細工した扉など見たことがなく、それが何であるのか彼が理解するまでに、もうひと呼吸を要します。
彼女は玉の扉の前に立つと、呆然とする彼を振りむき、感慨もなく別れを告げました。
「世話になった」
扉のすきまから強烈な光があふれ出し、嵐に馴染んだ彼の網膜を手荒に傷つけます。彼はとっさに腕でかばい、鋭い痛みをこらえました。
眩むほどの白光の中、彼女の背中が扉をくぐります。光は彼女の輪郭さえ曖昧にしてしまいます。
彼は片腕を伸ばして、彼女の名を呼ぼうとしました。喉をせいいっぱい震わそうと息を吸いこみ――そして初めて、彼女の名前を知らないことに気づきました。
この一年、同じ屋根の下で生活してきて、数えきれないほど顔を合わせてきたというのに、彼は一度も彼女の名前を呼んだことがないのです。
彼女は『月の女神』であり、それ以外の呼称など必要なかったと言えばそれまでですが、その事実に彼はがつんと頭を殴られたような衝撃を受けました。
ゆっくりと、扉が音もなく閉じていきます。光が弱くなるとともに彼女も玉板のかなたに隠れていきます。
やがて完全に扉が閉ざされ、光も彼女の影も見えなくなってしまいました。
彼が立ち直ったときにはすでに扉は跡形もなく、彼女の姿どころか気配さえありません。
残されたのはぼんやりと佇む彼と、風が吹き荒ぶ見慣れた庭園だけでした。
◇◇◇
「陛下!」
近侍の声に、彼ははっと正気に返りました。背後を見れば、近侍がこちらへ駆け寄ってくるところでした。
「いったいなにがあったのですか。女神が急に姿を消してしまわれた――」
近侍は白昼夢でも見たかのように、顔を真っ青にしていました。彼女のふしぎな力を初めて目撃したのですから、当然の反応でしょう。
「私にもわからない。彼女がいったいどこへ行ったのか……」
あの壮麗な扉は太陽神のところへ繋がっているのだろうか、と彼は考えました。それならば、あの目が灼けるような光にも納得がいきます。
しかし、彼女を燃やしたという男神が、なぜいまさら現れたのでしょうか。そして男神のもとへ赴いて、彼女は大丈夫なのでしょうか。
空には変わらず暗雲が垂れこめていて、いっこうに回復のきざしは見られません。このまま落ちてくるのではないかと思うほど重たげな雲と、どこか生臭い風に、彼はふと寒気に似た感覚を覚えました。
(このまま事が過ぎるのを待っていていいのだろうか……?)
胸へ問いかけて返ってきた答えは、『否』でした。それは理由もなく抱いた危機感でしたが、彼の身体は骨の髄からざわりと騒ぎ出しました。
「兄上、いったいなにがあったんだ! 早く女神を捜しにいかなければ……!!」
血の気を引かせながらも、弟は大声で喚いています。
兵を出すべきだ、と叫び、ふらふらとしながら詰め寄ってくる弟に、無意味だと説こうとした、その時でした。
『もしや、
頭に直接響いた声に、彼は弾かれたように顔を上げました。周囲には近侍と弟以外、人影はありません。
『さすがに、それほどの度胸なしではないでしょう』
『たしかに、女神にあれだけの啖呵は切れるのだからなぁ』
くすくすと大勢の嘲笑が続きます。どうやら例の先祖たちでした。
「なにか嫌な予感がするんだ。どうすればいい」
姿のない先祖たちへ、彼はたずねました。すると、なにがおかしいのか、またくすくすと笑い声がします。
『嫌な予感なら以前からしておった』
『そうだ。おまえがそれほど意気地なしだとは思ってもみなかった』
「そんなことは今は関係ない。女神の身に災厄が降りかかる予感がすると言っているんだ!」
突然の怒声に近侍と弟はびっくりしていましたが、彼は気にかけません。
『女神に?』
『なんと畏れおおいことを!』
「畏れおおくてもかまわない。あなたたちこそ疑問に思わないのか?」
『理由は? 根拠がなければただの戯れ言だ』
彼は説得力のある理由を持ちませんでした。それでも、いてもたってもいられないこの胸騒ぎがただの杞憂ではないと、驚くほど確信があったのです。
「理由はない。けれど、かつて女神を追放した神のもとに赴いて、なにも支障がないとはとうてい考えられない。いまさら男神みずからが謝りにきたと、あなたたちは思うのか?」
彼の言葉に、先祖のあいだで動揺が走りました。
『なんと……これ以上の災難が女神を襲うというのか』
『なんて痛ましい』
『お救いしなければ』
『我々が』
『我々の手で』
火がついたように騒ぎ出す先祖たちへ、彼は高らかに言いました。
「私が女神のもとへ向かう。だからあなたたちは道を繋いでくれないだろうか」
『……我らが?』
「あなたたちはこの世のものではない。同じこの世のものではない神のもとへ、道を開けないだろうか?」
しん、と先祖たちは口をつぐみました。
あまりにも無謀な理屈を通そうとしているのは、彼も承知の上でした。けれど、彼はこの世界の人間で、そしてこの世界のものではない彼女に少しでも近い存在がいるならば、やはりこの世界のものではない先祖たちではないかと思ったのです。
先祖たちはしばらくの沈黙ののち、ふたたび彼に話しかけてきました。すでに混乱は収まっていました。
『おまえは女神を見つけたくはなかったのだろう』
『女神を追い出そうとしていたではないか』
『臆病者のおまえが、女神を救えるのか』
彼はおのれの血や肉に宿っているだろう先祖の問いに、明瞭に答えました。
「私は女神を見つけたくはなかったが、女神を否定しているわけじゃない。彼女を敬っているし、失うつもりもない」
葉ずれのようなざわめきのあと、わかった、と返事がありました。
『おまえを信じてやってみよう。我らが
次の瞬間、彼は何者かに腕を引っぱられ、天地が逆転するのを見ました。
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