第12話
厚い水の壁を無理やり通り抜けるような感覚のあと、彼はしぶきを上げて水に落ちました。水をくぐり抜けたはずなのに、ふたたび水に落ちるなど奇妙な話でした。暗い水中ではなすすべもなく、彼はみるみると沈んでいきます。
『しまった、失敗したか』
『落ちてしまったぞ』
『困った困った』
(困った困った、じゃないだろう!)
のんきな先祖に怒鳴りつけようにも、水の中では声も出せません。
水面を求めて必死でもがいても、上下がわからないので何の意味もありませんでした。足掻けば足掻くほど体力は消耗し、息は
『どうする』
『やはり無理では?』
『我々には無理なのか』
あまりの息苦しさに肺を開いてしまい、彼は大量の水を飲みこみました。わずかに残っていた空気もごぼりと吐き出され、あっというまに意識が遠のいていきます。
(彼女の言うとおり、おとなしくしていた方がよかったのだろうか……)
いったいなにをしにきたのだろうと彼は思いました。これではみずから溺れに来ただけです。
『皆の者、このままでは
『そうだった。とりあえず引っぱりあげておけばよいか』
ようやく先祖たちは彼に空気が必要だと思い出しましたが、彼の意識はもうほとんどありません。後悔と先祖への悪態だけが脳内を駆けめぐり、そしてうたかたとともに消えていきます。
(この人たちに頼った私が馬鹿だった)
白濁する意識の中、最後に彼は猛省しました。
それでも――と、気力を振りしぼり伸ばした手を掬ったのは、彼よりもずっと小さな、子どものそれでした。
◇◇◇
気がつくと、彼はなにもない空間にぽつんと立っていました。
周囲は明るくも暗くもなく、そして色もありませんでしたが、なにもないとわかるだけの明るさはありました。天地のちがいもそこにはなく、足下には地面さえありません。溺れていたはずの身体はまったく濡れておらず、あれほど苦しかったのも嘘のようです。
五体満足であるのを確認すると、彼はあたりの様子をうかがいました。
やはりそこには空も大地もなく、彼以外の存在もありません。先祖たちの声もすっかり鳴りをひそめています。
溺れる危険はなくなりましたが、どうも事態が好転したとは思えませんでした。
とりあえず、彼は前方に向かって歩き出しました。なにもせずにいるのは不安だったのです。
けれども、いくら進んでも視覚はなにもとらえず、加えて目標物もないので進んでいるかさえも判断できず、彼はますます狼狽しました。
文字どおり『なにもない』世界は、彼をじわじわと恐怖の淵に追い詰めます。
ここから少しでも遠ざかるために、歩調はどんどん速くなりました。それでも風景に変化は訪れません。
やがて走るほどの速度になったとき、ようやく彼以外が立てる音が鼓膜を震わせました。
「落ち着け」
ぴたり、と彼は足を止めました。それはまだ幼い子どもの声でした。
「あわてるな。あわてても得することはなにもない」
ゆっくりと声の方を見れば、まだ十歳ほどの子どもが立っていました。
こんな場所に大人びた口調の子どもがいきなり現れただけなら、彼はさらに混乱したでしょう。ですが、その子どもが彼の正装である群青色の外套をまとい、そして自分と同じ翠眼でじっと見上げてきたので、安心することができました。
子どもは先祖のひとりでした。
「……ここはどこですか?」
子どもはぐるりを見回して答えました。
「世界の狭間」
「世界の狭間?」
子どもは丸いあごを引きました。大きな翠眼には外見に似合う無邪気さはなく、深淵に似たふしぎな輝きがあります。
「おまえが生きている世界と、我々死人が存在する世界の狭間だ」
子どもはその場にしゃがみこみ、地面に見立てた場所に円をふたつ描きました。
「こちらの円がおまえが生きている世界で、こちらの円が我々がいる世界だとすると、さきほどおまえが溺れたのは我々の世界の壁だ」
彼も隣に腰を下ろし、説明に耳を傾けます。
「我々はおまえを我々の世界に連れこもうとしたが、壁に跳ね返されてしまったのだ。そのままではいけないので、とりあえず狭間に置いている」
「女神はあなたたちの世界にいらっしゃるのですか?」
子どもは左右に首を振りました。
「我々の世界に女神はおられない。世界には、おまえや我々以外の世界が数多と存在していて――」
子どもは無造作に円を描き足すと、それぞれを交互に指差しました。
「互いの世界は基本的に関わることはできない。それが世界の理だ。我々がおまえの世界に関われるのは、もともとはおまえの世界で生きていたからで、なにかしらの縁があるからだ。まったく関係のない世界のことは、本来認識さえできない」
なんとなくは理解したので、彼は相づちを打ちました。
「それで、女神はどちらに?」
子どもは一度視線を上げ、ふしぎな瞳で彼を見つめてから、ふたたび顔を伏せました。
「女神は、ここにおられる」
子どもは円の中ではなく外――つまりなにも描かれていない場所を指しました。その意味を彼はじっくりと考えましたが、答えは出ませんでした。
「どういう意味ですか?」
「我々がいるのが部屋の内だとすれば、女神がおられるのは家の外。我々が鳥だとしたら、女神は鳥籠の主。我々が羊だとしたら、女神は羊飼い。我々は神に管理されている世界の、ほんの一部分でしかない」
彼はしばらく言葉を失ってしまいました。しかし子どもは淡々と、そしてどこかやさしく説明を続けます。
「我々が認識している世界は、本当はひとつの部屋でしかない。本来の世界は家全体を言う。家には規則があり、その規則に従い我々はそれぞれの部屋で存在しているのだ。ただ、我々は互いの部屋の存在を知ることができないから、自分の部屋が世界だと思いこんでいるし、部屋で起こることがすべてだと思っている。真の『世界』はもっと広く、複雑だ」
説明が終わったのか、子どもはぴたりと口を閉ざしました。突然の静寂に、彼もまた黙って円を見つめます。
「……どうやら私は、だいぶ見当違いなことを言っていたようですね」
「否。我々の世界に女神はおられないが、おまえの言うことも一理あると我々は思ったのだ」
いとけない人差し指が、ふたたびひとつの円を示しました。
「本来、おまえは死ななければおまえの世界からは出られない。しかし、もしその規則を覆して我々の世界に来られたのなら、おまえは世界の規則からはずれることができる」
わかるか、と子どもの双眸はたずねていました。底の見えない深い翠緑――それが確たる誇りと叡智によって築かれたものであると、彼はようやく気がつきました。
「我々は世界の規則に従った部屋にしか行けない。しかし、規則に従わなくてもいいのなら、女神のおわす外に出られるかもしれない」
「……それは、どんな場所なのでしょうか」
「そこまでは私は知らない」
急に、彼は親しみを覚えました。今まで単調に語ってきた子どもが『我々』ではなく『私』と言ったのに、子ども個人を垣間見た気がしたのです。
「あなたも〈
つぶらな瞳がぱちりと瞠られました。
「なぜ?」
「幼く見えるので」
癇に障ったのか、子どもは眉間に力をこめましたが、それもほんのわずかのことでした。
「父が戦で亡くなられたから、長子の私が長になった。しかし五年も経たないうちに流行病にかかった。私の跡は叔父が継いだらしい」
まるで他人事のように子どもは淡々と語りました。それが余計に痛ましく感じられました。
子どもの見た目は十歳かそこらですから、長になったのは五歳頃ということです。まだ左右もわからないような子どもでさえ長を務めていたというのに、自分はなにをやっているのか――彼はおのれの不甲斐なさに情けなくなりました。
「恥じることはない。私にもわかる」
彼の心を読んだように、子どもが言いました。
「敬愛していた父を突然失い、未熟な自分が重責を背負わなければならなくなった不安はよくわかる。私は誰にも恥じない立派な長になりたいと思った。けれど、おまえの気持ちもけっして理解できなくはない」
幼い先祖は、老獪な大人のような顔で、彼をまっすぐに見つめます。いくら見た目は幼子でも、たしかに彼の祖先であって、数えきれない年月を重ねてきた魂なのです。
「おまえは女神を否定していないと言った。敬っているし失うつもりもないと。我々はそれを信じる」
ふたりの声しか聞こえなかった空間に、突如大勢のざわめきが響きはじめました。どうやら、聞き慣れた先祖たちの声です。
彼は耳を澄ませましたが、それぞれがあまりにも無秩序に話しているので、なにを言っているのかまったく拾えませんでした。一方の子どもは理解できたらしく、わずかに空中を見つめると、ついと彼を見上げました。
「女神から賜ったものがあるだろう。……鳥になった……?」
「たしかに鳥にはされましたが……。なにかを賜った記憶はありません」
いまいち状況が把握できず、ふたりは首をひねりました。子どもがふたたび喧噪に耳を傾けます。
「……物ではない、と言っている。おまえはすでにおのれの世界を出られたのだから……おまえが持っている女神のものと女神自身が引き合えばたどり着けるのではないか、と」
「物ではないもの、ですか?」
「そう。おまえは我々の世界に弾かれただけで、自分の世界の外には出ている。おまえはすでに越えた。あとは女神の居場所を捜すだけだ」
彼は数日前の記憶を丹念にさらいました。
彼は彼女に『名』と『気』を奪われ、彼女は彼のふりをして家臣たちを騙しました。誰にも見えない存在になってしまった彼は、不便だからと小鳥にされ――。
あっ、と彼はひらめきました。
「名前を」
「名? なんと?」
「『ヘリオス』、と」
すべてを言い終えないうちに、彼は見えない力に引っぱられました。
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