第10話

 夢の中で、彼は大勢の人間に取り囲まれていました。

 年齢も服装も一貫性のない顔ぶれは、記憶のどこにもひっかかりませんでした。びっくりするほど高齢の老人もいれば、彼より幼い少年もいます。髪の色も実にさまざまです。

 しかし彼らはどことなく似通った顔つきをしていたので、遠からず血縁であるのはわかりました。そして全員が、彼と同じ翠の双眸の持ち主でした。


(この人たちは、〈星の民〉の長だった人たちだ)


 彼も受け継いだ翠眼は、女神を見つけるための瞳だと言い伝えられていました。そのため、長の一族の継嗣は必ず新緑の瞳を持って生まれるのです。


 人々は彼を中心に円陣を形成していました。顔に浮かぶ感情は落胆か憤慨であり、口をついて出るのは彼への糾弾です。

 浴びせられる罵詈雑言は雨となって降りそそぎ、容赦なく彼を疲弊させました。


(私だって、好きで彼女を見つけたわけじゃない。好んで彼らの怒りを買っているわけじゃない……!)


 彼はただ、自分の肩に次々と載せられる重荷に対して、正直な気持ちを告白したかっただけなのです。

 しかし先祖たちは彼の事情など少しも気にかけず、罵倒を続けます。嘲り、失望され、そして最後には全員から愚か者と指弾されました。


「――私の育て方が間違っていた」


 どこからともなく聞こえた懐かしい声に、彼は弾かれたように振りかえりました。そこには父の顔をしたもの――彼にとっては父親そのものが、顔を覆って嘆いていました。


「父上……」

 愕然としながら、彼は父親を見つめました。おまえはおとなしすぎると諫めながらも、弟をひいきする祖父に対し断固として譲らなかった父――その父親は彼を一瞥もせず、ひたすら悲嘆に暮れています。

「私が間違っていた……私が間違えなければ……」


 ――弟を継がせれば、と。


 音にならない後悔が聞こえた気がして、彼の心臓がどくりと戦慄しました。目の前のものに無数の亀裂が入り、一瞬ののちに音を立てて崩れていきます。

 自分にとって父の信念がどれほどの支えだったのか――それが足下に砕け散ったとき、彼から生まれたのはとても稚拙な怒りでした。


「……それなら、それならなぜ死んでしまったのですか!? 幼い私たちを置いて、なぜ急に! あのときあんな事故に遭わなければ、女神を見つけるのは父上だったのだ!!」


 百五十人ほどの先祖の中で、彼のように女神を見つけた者は誰ひとりとしていないのです。なのにどうして彼を責められるのか。ただ捜せとしか語り継がせなかったのに、彼だけを責められるのか。


 円の中心で彼は喚きましたが、耳を貸す者はやはりひとりもいませんでした。そんなことはどうでもいいと、おのれの過失は棚に上げ、彼にだけ責任を負わせます。


(もうどうでもいい……どうにでもなればいい)

 津波のように襲ってくる罵りに、やがて彼は抵抗をあきらめました。瞳を閉じ、耳を塞ぎ、外界をいっさい遮断します。


 そのとき、自棄の殻に籠もる彼の足下で、黒い蔓が芽を出しました。蔓はあっというまに成長し、彼の足首にからみつきました。

 肌を這う粘り気にぎょっとすれば、すでに何本もの蔓が脛までのぼっています。引きちぎろうとしても際限なく生えてくるため、きりがありません。


 ――かわれ。


 蔓から呪詛のような声が聞こえ、ぞっ、と肌が粟立ちました。逃げ出そうとする彼を黒い蔓は確実に捕らえ、足下の闇へ引きずりこもうとします。

 まるで蜘蛛の巣にかかった獲物のように、もがけばもがくほど彼は罠にかかってきました。それでも足掻かずにはいられません。


 ――かわれ。

 ――かわれ。

 ――かわれ。

 ――かわれ。


 目を覚まさなければと、彼は念じました。忘れている現実の肉体の感覚を思い出そうと、脂汗をしたたらせながら奮闘しました。


 先祖たちの呪詛はわずかも途切れず、無様に抵抗する彼を嘲笑います。

 やがて蔓は喉を伝い、あごから頬へと達しました。目のふちをつぅとたどると、彼の視界を黒く塗りつぶしていきます。


 完全に闇に閉ざされようとした瞬間、父親の声が耳朶にふれました。それはとても悲しそうに、彼を哀れんでいました。


「かわいそうに。かわってやろう」




 飛び起きたと同時に、彼は寝台から転げ落ちて全身をしたたかに打ちました。痛みを知覚する暇もなく胃が縮み、食道をすっぱいものが逆流してきます。

 堪えきれず、彼は冷たい床にすべてを吐き出しました。なりふりかまわず生理現象に従ったせいか、それとも悪夢のせいか、呼吸もままならずに咳きこんでしまいます。


 何度かえずきながらようやく落ち着くと、彼は枕元の水差しを取りました。口の中に異臭がこもって気持ち悪かったのです。口をゆすぎ、喉を潤すと、ようやく全身の緊張がほぐれていきました。


 現実に戻ったばかりの頭が回転を始めれば、落ちたときに打った肩や肘が鈍痛を訴え出しました。痛みは彼を刺激し、暗闇を漂っていた意識をはっきりとさせます。

 ここ二日間に起こったこと――彼女に小鳥にされたことや自分の本心を告白したこと、そして夢の内容を順番に思い出し、彼はふたたびぞっとわななきました。

 どこまでが夢で、どこまでが現実なのかはわかりません。ですが、先祖たちはどうやら彼を乗っ取ろうとしているようです。たとえ女神を見つけたくなかったとしても、自分の身体を譲るほど彼も寛大ではありませんでした。


 彼は痛みを無視して、よろよろと庭に面した扉へ向かいました。木戸を開くと、蒼ざめた頬を夜風が撫でていきます。汗をかいた身体には冷たすぎましたが、それでも気にせずに扉を開け放ち、足を進めました。


 彼専用の庭は、真夜中の心地よい静けさに浸されていました。裸足のまま降りればひやりとした草が気持ちよく、一歩一歩を味わいながら地面を踏みしめます。

 かすかに耳をくすぐるのは、ぱちりぱちりとかがり火のはぜる音と、草木のさざめく音。冴えかえった夜気はまるで清流のようで、彼の心身にまとわりついていた澱をやさしくさらっていきます。

 一歩進むごとに、自分が洗われていくのを彼は感じました。それはとても心地のいい感覚です。


 やがて芯まで冷気に凍みると、彼はゆっくりと天を仰ぎました。そこには、満天の星がこぼれんばかりに輝いていました。


 圧倒的な壮美と、清澄と、威厳。広漠とした暗闇にまんべんなく散りばめられた銀砂は、無言で彼を見下ろします。

 星影は潤んだ双眸に宿り、澱を払った彼を銀河のかなたへさらいました。気づけば呼吸さえも忘れていて、呼気を吐くと感嘆も一緒にこぼれました。

 我を忘れ、彼はひたすらに天穹を見つめました。今なら魂を奪われても幸せだろうと、ふとそう思いました。

 頭上にきらめく数多の星々――それはまさしく彼女が瞳に宿す銀河そのものであり、人が手にすることは許されない、はるか天上の宝石でした。


(この氾濫する星々の中で、彼女はどのように君臨していたのだろう……)


 この世の誰よりもうつくしい女性の本来の姿とは、いったいどういう姿なのでしょうか。『月』とは、どんなものなのでしょうか。

 よく磨かれた鏡のようだと伝え聞きますが、彼も詳しくは知らないのです。


「……なにも知らない」

 彼女がどのような女神で、そしてどのようにあるべきだったのか、彼はなにも知らないのです。

 なぜ彼女が地に堕ちてしまったのかも、なぜあんな姿で倒れていたのかも、なぜかたくなに神であるのを拒むのかも。

 だというのに自分たちは月を救うと公言し、女神を捜しつづけてきたのです。どうすれば女神を救えるかも知らずに。


「……やはり、見つけるべきではなかった……」


 彼の悔いは誰に届くわけでもなく、夜闇に溶けていきました。

 それは彼らだけではなく、彼女にも当てはまることでした。



 ◇◇◇



 彼は一睡もせずに夜明けを迎えると、彼女の部屋に足を運びました。昨日の今日で機嫌が直っているはずもなく、彼女は険悪な態度で彼を迎えました。


 彼は彼女へ頭を下げました。それは一人の人として、彼女に対する謝罪でした。


「我々はあなたのことをなにも知らない。あなたがどのような姿であったのか、『月』が何であるかさえ知らないのに、我々はあなたを救えると勝手に思いこんでいたのです。完全に……完全に、驕っていました」


 彼女は銀河の瞳を、うっすらと細めました。

「それで、おまえはなにが言いたい?」

 頭を伏せたまま、彼は答えます。

「私にはなにもできません――けっして自棄ではなく、事実としてです。あなたを捜し出しても、私にはなにもできない」

 ですから、と彼は続けました。

「どうか、あなたの望むままになさってください」


 しばらく待ちましたが、彼女の返事はありませんでした。ゆるゆると顔を上げれば、彼女はいくらか安心したような、それでいて影が差したような表情をしていました。


「……ここに留まるのなら、喜んでお迎えします。去られるのでしたらご自由になさってください。神であることを望まれるのなら、そのとおりにします。ただ私には……」

「去ろう」


 凜と、彼女の声は響きました。それはあまりにも潔く、迷いがありませんでした。

「神であろうとは思わぬ。早々に去ろう」


 ひと呼吸の間を置いてうなずけば、彼の胸には安堵と虚しさが残りました。舌に広がる苦汁にくちびるを噛みます。

「……捜し求めるべきではなかったのでしょう。私にとっても、あなたにとっても」

 意を酌んでくれたのか、彼女はそうだな、とあでやかなくちびるで応じました。

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