第14話 幕間。二

 飲み会で出会った女子高生、という字面にしてみれば何とも不穏な相手に僕の過去を話してから、丸二日が経っている。眠るたびに悪夢を見るせいで、体調も日毎ひごと悪くなっているようだった。そろそろ過去との決着をつけなければ衰弱のあまり死んでしまうのではないかとも思う。

 それとも、いっそ、窓の外に飛び降りたほうが早いだろうか。

 重い身体を引きずるようにして財布を探す。ようやくみつけたそれを開くと、バラバラと小銭が零れ落ちてくる。その中から黄金色のコインを拾い上げると、誰に聞かせるでもなく詠唱を始めた。

「表が出たら、部屋を出る。裏が出たら、部屋を出ない」

 三度同じ言葉を呟いて息を止める。コインをはじいて、手のひらで受け止めようとした。しかし失敗して、コインは布団の上に落ちてしまう。模様を確認してうなだれた。

 僕は、部屋に引きこもることを決めた。

 部屋を漁って見つけ出した開封済みの菓子の残りを口に運びながら、ぼんやりと時間を過ごす。

 小説を書いていないとき、僕は彼女のことを考えることが多い。大学生になっても宿題から逃れられないのが理系の宿命だけど、それも後回しにしてしまおう。僕は、彼女に嫌われたあの日のことを思い返していた。これは、まだ女子高生には話していないことだろう。だって僕らが幸せの絶頂にいた時間を最後に、前回は話を終えたのだから。話すべきか、せざるべきか。黒曜石に似た闇に問いかけてみても答えは返ってこない。

 息をするたび、脈打つ心臓が欠陥だらけの血管を蹴りつける。痛みに呻きながら、それでも死にたくない僕は頭を抱えたまま布団の上で横になる。寝返りを打って、頭の中を切り替えようとした。だけど、結局は彼女のことを考えている。

 僕が変わったことをすると、彼女はいつも興味津々な目で僕を見てくれた。なんで今日は、と切り出すのが彼女の癖だった。いつも僕を見ているということを的確に表現してくれるその言葉を、僕も愛してしまっていた。

 彼女は、どうして僕を好きになってくれたのだろう。

 僕は、どうして彼女を好きになったのだろう。

 似ているけれど、同じだとは認めたくない我儘な自分が頭をよぎる。

 もしかしたら、恋心というものは毒と同じなのかもしれない。世間一般の人が僕の考えているような酷く単純で単調なプロセスを踏んで、長いお付き合いをせずに好きでもない相手と結婚をしたり、大好きな相手と袂を別つのは、そのことを本能的に理解しているからかもしれない。

 僕らの恋は大木の根にも似ている。一度心に深く根付いてしまえば、取り払うことは容易ではない。僕らの心は硬くて脆いガラスのようなものだ。深い亀裂の入ったガラスは元に戻すことなんて出来ないのだから。成形し直した心は、もとの心とは違ってしまっている。それはきっと、別の何かだ。

 そういえば、と思い出したことがあった。大学生になってから同じ学部の女性とそれなりに仲良くなったことがある。といっても人が苦手な僕だから、軽い会話をするくらいしか能がなかったのだけれど。きっかけは大学で文芸部にはいったことかな。飲み会に誘ってくる友人と出会ったのも、たしかそこでの出来事だ。

 その人は彼女とよく似た、しかし決定的に何かが違う女性だった。

 彼女の面影をちらつかせる女性は、元高校の同級生だったらしい。僕は彼女のことを覚えていないけれど、彼女は僕のことをよく知っていた。すごく仲のいいふたり組がいるらしいと、学年中の噂になっていたのは確かなようだ。

 彼女が隣にいないことを、その女性は首を傾げて不思議がっていた。長く会話をしているうちに、女性が何らかの決意を抱いたことを知る。もしかしたら、運命みたいなものをそこに感じるべきだったのかもしれない。だけど僕は、女性が発した一言で、二度とその人には会うまいと思うようになった。

「この小説に出てくる人、もしかして私ですか?」

 そんなわけないだろ。

 彼女とお前を、同列に扱うんじゃない。

 思わず、僕は声を荒げてしまいそうになった。

 それはメールでの出来事だったから、あまり大事にはならなかったけれど。

 もしも直接会っているときにその発言が飛び出してきたならば、僕はその女性を殴り倒していたかもしれない。それほど激昂していたんだ。不思議なことだと思われるかもしれないし、同時期に入学した別の学部生からは、どうしてあれほど綺麗な人を振ったんだとも言われた。だけど僕は許せなかったんだ。

 大学の先輩でしかない人の顔を僕は数分で忘れてしまう。何度も講義で顔を見ているはずの教授の名前も、随分経っているのに覚えられていない。僕の中には彼女という人間が入る以外のスペースが用意されていないのかもしれない。姉さんに嫌われたショックで記憶容量が酸くなっているのかもしれない。

 僕は、彼女という人間に依存しているのだろうか。

 それを、今となっては否定できないのだった。

 起き上がって煙草を探す。見つからなかったので諦めて窓を開いた。家から出ることはしないけれど、外の空気を吸うくらいならいいだろう。

 ベランダからは緑の多い夏の香りがした。目を閉じて、これからのことを考える。

 それは僕の話を聞いてくれる女子高生のことだった。

 彼女は、僕のことをどう思っているのだろう。まず間違いなく、気持ちの悪い人間だと思っているに違いない。同時に、非常に強い興味感を抱いているのかもしれない。そうでなければ、僕の話を聞いてくれるはずもないのだ。

 こんな、純粋すぎて重たい愛の話なんて。

 僕は人に好かれる自信がない。それでもあの子が会いに来るのは、僕と彼女の話から恋愛に失敗しない方法を学ぼうとしているのかもしれなかった。

 でも、考えてみてくれよ。

 僕は彼女に嫌われて、未だに過去を引きずり、傷つけられている。

 しかし、それこそが僕にとって最大の幸福なんだよ。

 紛い物の幸せでは得られない、本当の幸せ。

 そいつに縋って、僕は今を生きているんだ。

 空を見上げて、小さく、僕は問いかけた。

「なぁ、僕って歪んでいるのか? 僕は、狂ってしまったのか?」

 遠くに見える青い空は、僕を嘲笑しているようにも見えた。


 ***


 深夜二時、目覚めは最低。

 彼女が、見知らぬ男と歩いている夢を見た。

 夜空より黒く美しい長髪を風になびかせながら、彼女はネオンライトに照らされた街を歩いている。肩を露出した扇情的なロングドレスなどという、彼女が生涯かけても着ることがないだろうと思っていた衣装を身にまとっていた。周囲の男達から向けられる視線をどこか恍惚とした表情で浴びながら、葉を散らせた街路樹の下を闊歩していた。

 見知らぬ男は彼女の肩に手を回し、馴れ馴れしい口調で語りかけている。彼が無精ひげを生やしただらしない口端から皮肉めいたジョークを飛ばすたび、彼女の表情は周囲を照らすどの灯りよりも煌々と輝き、彼女の魅力を一層引き立たせている。

 僕しか知らなかった彼女は何処へ行った。僕だけを見ていたはずの彼女は何処へ消えた。屈辱と哀願に歪んだ口端から漏れる言葉は音としての体を成しておらず、唇より外の空気に触れる前に弾けて消える。

 手を伸ばせば届く距離にいた彼女は、追い縋っても届かないほど遠くへ歩み去っていく。必死に走って息を切らしても、叫ぶように喉を引き絞っても、彼女は平然とした顔をしていた。

「望みを繋ぐためには、運命に愛される必要があるの」

 運命だって? そんなもの、君も信じていなかったじゃないか。

「そうかしら。そもそも貴方は、私のことをどう思っていたの?」

 振り返りもしない彼女が、心に直接語り掛けてくる。突然、数十キロの重りを括り付けられたかのように足は地に貼りつけられ、勢いだけが残った身体は無様に地へ叩きつけられた。

 血塗れになった顔を上げて、ようやく僕は、彼女に言うべき言葉を見つけ出す。

「待ってくれ、僕は――!」

 叫んだ声が耳に反響して、僕はようやく目を覚ます。

 今日見た夢は、そんな夢だった。

 僕の恋は、独占欲の塊みたいなものだったのだろう。だから、彼女が僕以外の男と一緒にいることを許さない。彼女が、僕以外に微笑むのを見て、胸が引き裂かれそうになる。事実、目覚めたときの僕は泣いていた。夢の内容は、いつもと大体同じだ。

 彼女に近寄る男がいる。僕の知らない男だった。

 彼女は昔から変わらない。僕が苦手とする人間を彼女自身も苦手としているんだ。だから彼女は男を無視しようとする。嫌いな人間を遠ざけようとするんだ。だけど彼女は変わっていく。彼女は、変わることが出来るんだ。

 相手にしていなかった男とも少しずつ喋るようになる。

 彼女が笑わないことだけに、僕は縋っていた。

 僕にだけ見せていた笑顔を、僕以外の男に見せないことだけを、救いだと思っていたんだ。

 でもね、そこは夢の中だ。足掻けば足掻くほど深く沈む、泥沼の悪夢を見ているんだ。僕はただの門外漢だった。関わろうともしなかった、積極的に動こうとしなかった僕が悪いという意識が胸の中に残ったまま、彼女と見知らぬ男が添い遂げそうになるところまでを見せられるんだ。

 悔しかった。

 悲しかった。

 そんなことを語りながら笑う自分の姿を見るのも、僕は大嫌いだった。

 夢を見たあとの僕は、吐き気を伴う黒い感情に支配されそうになる。

 嫌悪感で猛り狂うかもしれない。そう、思うほどに。

「私が彼を嫌いになったのは、彼が嘘吐きだったからよ」

 夢の彼女なら、そして現実の彼女ならば、そんなことを言うかもしれない。

 けれどその前に、珈琲で口を湿らせてから、こう言うはずだ。

「私が彼を好きになった理由は、未だに、まったく分からない」ってね。

 彼女は、僕以上に負けず嫌いだったからさ。

 目元に浮かんでいた涙をぬぐってから、僕はゆっくりと目を見開いた。心を落ち着かせると噂のたった緑色の壁紙は、果たして本当に効果があるのだろうか。緑色には嫉妬や怨嗟といった感情を連想させる効果もあると聞く。

 僕は本当に、過去を思い返すべきなのか? 考えても答えの出ない問いに首を振って、僕は枕元の時計に目をやる。午前五時を指し示していた。目覚めるには少し早い時間だ。

 ひとしきり身体を動かしてから、もう一度布団に横たわった。

 彼女に嫌われてからの僕は、本当に自堕落な生活を送っているのだと思う。本人が気づいてしまうレベルなのだから、他人から見ればもっとはっきりと分かるかもしれない。でも、それが本当の僕の姿なんだ。気持ち悪いと思ったなら、遠ざかってくれて構わない。僕はどこまでも、嘘偽りだらけの人間なんだ。

 だから、せめてこれからは。

 ……もっとも、僕に近しい人間なんて、この世には彼女くらいしかいなかったのだけど。僕が彼女と決別したのは、高校三年生のことだった。あれからもう一年半も経っていることになる。さて、ここで問題だ。

 彼女と別れた傷を癒すことが出来なかった僕が、去年一年間、何に頼っていたか。

 答えは至極簡単。

 今更、特筆する必要もないかもしれないね。

 アルコールアンドシガレッツ。大量の書物と、膨大な音楽。名前も知らない画家の描いた絵画や、価値の分からない骨董品。彼女と一緒に愛したものに、僕は、一生懸命縋っていたんだよ。

 だけど、一番手軽だったのはアルコールだね。煙草は、その良さが分かるまでに時間がかかる。それに、ゆったりとした時間が流れれば流れるほどに過去を思い出してしまうから、酒で酩酊してしまった方が気楽でいいのさ。僕みたいな貧乏学生でも買える安酒を飲んで、彼女に捨てられてから買った書物を読む。

 悪夢を忘れる為に必要だったもので、現実を黒く塗りつぶす。これは、小説を書くために必要な行為なんだと、自分を誤魔化しながら。あれは、彼女の為に必要な行為だったんだと、過去に虚勢を張って。

 あぁ、最高だね。これ以上ないくらい、僕は雰囲気に酔っている。

 最低だよ、今にも吐き出してしまいそうなほど、気持ち悪いのに。

 隣に、彼女がいないなんて。

 涙を流してえづいても、頭を撫でてくれる人はいない。

 姉さんに縋るなんてことは、二度と許されないんだ。

 その事実に気が付かないフリをするため、僕は今日も、酒を煽った。


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