第16話 ぼくのカノジョ。


 僕らが人前でキスをした、初めての日。

 あれは家の近くにある大きな川で、花火大会が行われた日だった。

 高校三年生の夏休みだったかな。僕らは、いや、言うだけでも恥ずかしいのだけれど、随分と甘々なカップルになっていたんだと思う。デレデレして一日中ニヤついたりしているわけでもないのだけど、ふとした瞬間に、二人だけで通じ合う何かがあるっていうか。

 あー、もう、恥ずかしいなぁ。

 ……え? 僕が無理をしているように見える? しかも浴衣姿なのが謎?

 いいじゃないか。今日が最後なんだし、このくらいのことは大目に見てくれよ。それに吐きそうなのを我慢しているからね。体調が悪く見えるのも正しいんだろう。あぁ、途中でゲロを吐いたらごめん。

 しかし君はすごいよ。本当にめげないね、可愛げがないともいうけれど。僕らの話を最後まで聞いてくれるのは君が最初で最後だろうな。これから先の人生で、僕に友人が増えるかどうかも怪しいんだから。彼女に友達? 増えてほしくないなぁ。特に男友達みたいな奴は信用できないから。

 彼女を一目見た男は、きっと彼女のことを好きになる。

 それほど、彼女が美しいと僕は思い込んでいるからね。

 さて、前回の続きから始めよう。僕らがひとつになった、あの日を終えて。

 二年生の冬から瞬く間に季節が過ぎて、僕らは高校三年生の秋を迎える。僕らの恋は穏やかに進んでいった。それこそまるで、病魔のように。

 この頃になると僕らは離れられなくなっていた。二年の冬に彼女が僕の家を訪れてからというもの、僕らは本当に離れられなくなってしまったんだ。それまで二人して独りぼっちだったことが原因だろう。僕らはとても臆病だった。傷つきやすかった癖に寂しがり屋だった。互いの穴を埋めることに何の躊躇いもなくなると、今度は離れることに非常に強い恐れを抱くようになった。

 彼女は僕の身体だけでなく、心のすべてを知ることになった。勿論、姉さんのことも彼女にはすべて伝えてある。隠していたことや誤魔化していたこと、霧の向こう側でぼやかしていたことも白日の下に曝け出した。彼女が何を思ったか、それは想像に難くない。それは僕も同じだ。

 彼女は真っ白な人間だった。肌も心も身体さえも、清く澄んだ人間だったんだ。

 自分に好意を向けてくれる(かもしれない)人間と一緒にいて、本当の自分を曝け出せない人間なんていないだろう。僕らは幸せになる為に必死だったんだ。

 彼女と通じ合うこと。それは、とても嬉しいことのはずだった。だけど僕は、彼女の美しさを知ってしまったからね。嬉しさと同じくらいの悲しさや苦しさも持ち合わせていたんだ。もしも彼女が僕のことを嫌いになったら。嫌いにはならなくても、好きじゃなくなったとしたら。

 なにより、僕が彼女に見合わない存在だとしたら。

 それを考えただけで僕は苦しくなった。

 そのときの僕は、彼女にすべてを差し出すだけの覚悟と、彼女からすべてを奪うだけの覚悟の両方を持ち合わせていたんだ。どちらを選択しても彼女が喜ばない未来しか見えなかったから、僕はどちらも行動に移すことが出来なかったんだけどね。

 高校三年生の秋という季節は瞬きをすると途端に消えてしまうほど短いものだった。まともな職業につく自信を失っていた僕は、それでも何かしらの職を手に入れたかったものだから、それを手にするための方法を考えることが多くなった。結果として世間一般で半分近くの人が辿るだろう、「取り敢えず大学を出れば就職できるだろう」という考え方に乗っからせてもらうことにした。

 そうして僕は、大学を受験することに決めた。

 彼女は僕と違う進路を選び、違う大学を受験することに決めた。

 道が分かれることは喜ばしいことのはずなのに、怖くもあった。

 僕にとって、穴を埋めてくれる存在は彼女しか考えられなかったからだろう。姉さんとは違うんだ、僕が本当に好きになったのは彼女だけだったんだ。幼い僕は彼女への敵対心やそれに類似したものを糧にして、少し成長した僕は彼女が僕の理解者であるという安堵に縋って、高校生としての生活を終えようとしていた僕はそれらよりも柔らかい感情で心の穴を埋めていたんだ。

 小説や音楽は彼女という芸術の代替品だったのかもしれない。僕はそんな青臭いことも考えるようになった。

 秋が過ぎて冬になったとき。僕は密に決意した。

 己の道を信じて社会への道を切り開こうとする彼女に。

 彼女に、僕という人間の幸せをすべて捧げることに決めたんだ。

 当時の僕はそれを最良の案だと思っていた。最低限は出来ても、それ以上はない。大学を出れば就職が出来るはずだろうし、それで食べていけるだけの自信はあったけれど、それは相対的な評価や社会の動きによっても変わってくる。僕に出来ることは僕にとっての幸せな未来を押しつぶしてでも、彼女がより遠くへ羽ばたけるようにすることだと思っていたんだ。

 本当だよ? そんな顔をしないでくれ。

 でも、君がそんな顔をしているのは多分正解なんだ。

 少し考えてみてほしい。まともな人間関係を築いてこなかった僕が、彼女という人間が何を望んでいたのか、正確に判断できるはずがないんだ。案の定、僕は悪い人間だった。そして僕は彼女にフられることになる。

 高校三年生の二月も、もう終わりそうな頃だった。

 大学に合格した彼女を呼び出して久しぶりに外でご飯を食べた。当時から僕のお気に入りだった、オムライスの美味しい喫茶店に行ったんだ。彼女もあの店を気に入っていて、今でもたまに行くことがある。あー、そうだな。やっぱりこれは、話しておかなくちゃいけないな。

 知らなかっただろうけど、僕と彼女は、半月に一度は会っている。その度、心のひっかき傷は数を増していくのだけど。フった女とフられた男が今も密な交流を続けているんだ、うわぁ、と思わない人の方が少ないだろうね。

 ご飯を食べた後の話をしよう。当時の僕等は、まだ付き合っていて彼氏と彼女の関係だった。彼女は、僕が小説を書いていることを知っていたし、その日は僕の欲しがっていた作家の新刊が発売される日だったからね。寒い気候に文句をいいながら、二人で本を買いに行ったんだ。

 その日の彼女は、いつもとは違う服を着ていた。彼女は大抵、黒い服を好んで着ていたのだけれど、あの日はなぜだか真っ白なコートを羽織っていた。僕はいつも白い服を着ているのだけれど、あの日だけは、真っ黒なフォグバンクの中で震えていた。

 あぁ、懐かしいな。あのときから、僕らはすれ違っていたんだ。

 外で長い時間を過ごしてから、僕らは地元で最も大きな、このショッピングモールへと帰って来た。フードコートのある二階で、窓際の席に座ってお喋りをしていたんだ。

 高校を卒業した後の話になって、僕は彼女にこう言った。

「大学、合格したんだよね。改めて、おめでとう」

「ありがとう。推薦で合格した人から言われると、ちょっと癪に障るけど」

「いいんだよ。君はそういう態度をとっても」

「あら、それは私が薄情という意味かしら」

「違うよ。ところで、コインを貸してくれないか」

「いいけど、何に使うつもりなのよ」

 それには答えず、僕は彼女から受け取ったコインをポケットに仕舞いこんだ。これは彼女が大切にしていたもののひとつで、代えがないことも知っていた。そして何より、彼女はコインの裏表を自由に操作する技術を持っている。だから、やらなくちゃいけなかった。

「これから僕は一方的に言葉を押し付ける。だから、落ち着いて聞いてくれ」

「……一体どうしたっていうの?」

「いいから、聞いてくれ。僕は、君と別れなくちゃいけない」

「ちょっと待ちなさいよ、いきなり何を言いだすの?」

 突然変なことを言いだした僕に、彼女は戸惑いを隠せないみたいだった。いつもより口が回っていたのは、僕と久しぶりに会えた高揚感からだろうか。それとも、僕の中に巣食う感情を見て恐怖したからだろうか。

 僕も、自分に対して驚いていたよ。前の日から色々と練っていたのに、どうしてこれほどまでに話が下手なのだろう、って。僕だって、戸惑いを隠せなかった。苛立ちを感じて、自分の手の甲に爪を立てたくらいだ。

 さて、ここで説明しよう。

 僕が彼女に捧げようとした幸せというのは、彼女と一緒にいる時間そのもののことだった。

 彼女は僕を見ていてくれる。それが彼女をダメにする。これから先の人生で、僕は何度となく躓くことがあるだろう。だけど彼女が立ち止まってはいけないのだ。彼女だって完璧な人間ではないだろう。嫌いな人もいれば、激しい人見知りだってある。それでも彼女は、誰より美しい人間だ。他人と距離を置いてばかりだった僕に一時の安らぎを与えてくれた人間なんだ。彼女には人間としての強さがある。僕なんかに捕らわれて、その才能を殺すべきではない。

 本当に、彼女の為になると思っていたんだ。

 ヒロイックな感傷に浸っていただけと、君は言うかもしれない。でも、あのときの僕は本気だった。本気で、彼女に僕は必要ないと思っていたんだ。僕が、彼女から離れられると思っていたんだ。

 そして、あぁ、もう、面倒くさい。思ったことを、全部言ってしまおう。

 僕は、天邪鬼になってしまった。ほんの一ヵ月、勉強に専念させるという理由で彼女を遠ざけておきながら、久しぶりに会った彼女の笑顔に僕は壊されてしまった。彼女が寂しがっていたことに気が付いて自分で自分を切り裂きたくなった。

 僕は、絶対に間違っていた。あと一歩のところで踏みとどまるか、もう少しお互いのことを知ってから動くべきだったところで先を急ごうとした。

 彼女を傷つけてでも、彼女が輝かしい人生を歩めるようにすればいい。そんなことを望む男になってしまった。

 ぎこちなさは甘さだ。初々しい恋の甘さではない。人としての、詰めの甘さだ。

 最初、君に会ったときにも言っただろう。

 僕は彼女を――――。

 彼女に別れ話を切り出したとき、僕はようやく、それに気が付いたよ。そして、彼女と別れて初めて、激しい後悔に心を焦がされたんだ。

 もう、すべては過去のことになったのに。

 別れ話を持ち出して、一方的に話を進めようと僕は彼女に思いきり殴られた。

 そして彼女は、僕の『彼女』ではなくなったんだ。

 ……さて。

 前回と打って変わって、なんだか胸糞の悪い話をしてしまったね。

 これで過去の物語はおしまいだ。

 一応言っておくけれど、もし君が彼女に出会ったとしても、余計なことはしないでくれよ。特に過去を話したことは秘密にしてくれないか。僕にとっては、彼女がすべてなんだ。彼女に嫌われてしまったら、僕はもう立ち直ることが出来ないだろうからね。最後に、惚気と自慢と後悔が混ざった、非常に気持ちの悪い色をした長話の総括をして終わろう。

 彼女を馬鹿にしたようなことを言ったせいで、僕は嫌われてしまったんだ。

 後悔した。

 別れた直後から、脳裏に焼き付いて離れなかった。

 僕みたいな男を好きにならなければよかったと思われるのが嫌で、そんなことを思わせてしまうのが嫌で、僕は自分に出来ることならなんでもやってやろうと考えた。そして別れ話を持ち出した次の日のことだ。彼女に、そう思っているということを告げに向かった。当然、彼女はとりあってくれなかった。それでも僕は、諦めることが出来なかったんだ。

 土砂降りの雨が身体を叩く六月になって、ようやく僕は許された。「そんなに貴方が言うのなら、私は待ってあげます。ただし、待っていてください」と言われたんだ。それからは半月に一度、彼女と会って話をするようにしている。

 彼女が僕を嫌いになる、その日が来るのを、永遠に待つ破目になったんだ。

 でもね、それこそが、僕にとって最大の幸福なんだよ。紛い物の幸せでは得られない、本当の満足感というものを、彼女は僕に与えてくれた。本当のことを言えば、僕は彼女に『彼女』のままでいてほしかったのだけれど。

 そして、君はきっと、僕らの結末を見ることが出来るのだろう。

 君はまだ、僕らのすべてを理解していないはずだ。僕が話したのは過去のことで、それ以外は、ほとんど話していないのだから。隠していることは、山とあるし。それでも君は、彼女の次に、僕のことを理解してくれていると思う。だから、真実に近づく鍵をあげよう。

 これが、本当に最後だよ。

 だって、今の僕は――。


   ***


「だから君に、とっておきを見せてあげる。これが僕らのフィナーレだ」

 その言葉を最後に、僕は立ち上がった。ほぼ同時に僕にとっては死角になっているはずの場所から一人の女性が現れたことだろう。彼女ならきっと、来てくれるから。

 僕は彼女しか信じない。

 目の前に座っていた女子高生が僕を見上げている。流行りの格好に身を包み、頭が痛くなるほど冷たいサイダーを手のひらの熱で温めていた。よく分からないと言った表情だ。僕が躊躇うことなく振り返ると、そこにいたのは綺麗な黒髪を伸ばした、少し暗い雰囲気を持つ女性だった。

 彼岸花をあしらった赤い浴衣を纏って、少し歩きづらそうにしている。高校生の時よりも胸元が苦しそうに見えて、僕は、少しだけ恥ずかしくなった。

「待っていたよ。君しか、僕のはいないからね」

 僕の言葉に、美しい黒髪を持った女性が小さく微笑んだ。

 この女性こそ、僕が愛している女性だ。愛していなかった過去を踏み越えて、愛をはき違えた過去を塗りつぶして、心底大好きになってしまった女性だ。だから僕は、この女性にすべてを捧げたいと思っている。

 姉さんを傷つけた過去を乗り越えて、それでも僕は恋に生きる。愛と一緒に死ぬことを決めたんだ。彼女の元に走り寄ってそのまま抱き付こうとしたら、思いのほか威力の高い掌底を受けてしまった。人前でキスをしたのは一度きりだったし、恥ずかしいことは嫌いなのかもしれない。

 痛む顎を擦りながら彼女を見つめる。嫌そうで嬉しそうな、不思議な顔をした彼女が口を開いた。僕の熱い抱擁を片手で制して、彼女が意地悪な笑みを浮かべる。

「貴方は別に、私の彼氏ではないのだけれど?」

「そんなこと言わないでくれ、もう一度やり直そうじゃないか」

「嫌よ。また貴方は、あのときみたいなこと言うのでしょう?」

「言わない、絶対だ、約束するよ」

「その絶対を、一度は破った男だからね」

「でも、君はまた、ここに来てくれたじゃないか」

「そうでもしないと、貴方が寂しさで自殺すると思って」

 周囲が僕らの話に追いつく前に、更に会話が加速していく。そうしているうちに、彼女が僕を抱きしめた。まるでこれが、今生の別れでもあるかのように。

 だけど、僕は彼女を、抱き返したりしない。全てはこの後。彼女と、彼女が握る運命が決めることなのだから。

 僕から手を離して一歩退いた彼女が、手にしていたポチ袋から何かを取り出す。黄金色のコインだ。僕らの運命を決めてきた、あのコインだった。彼女が運命を決めることの出来る唯一のアイテムだ。

 僕は彼女から、未来を奪った。選択肢を奪った。そのことを彼女は恨んでいないし、そのことで彼女の未来が変わったわけでもない。だけど、僕らの時間が止まってしまったのは、僕という人間が原因なのだろう。僕は、成長しなくてはならない。僕は、愛する彼女の為に。

 彼女は小さく震える手を、前に出した。

 そして、いつでもコイントスを始められるように、準備を整えた。

「ずっと、やってなかったから」

 不安そうに呟いた彼女の手を、僕はそっと握りしめる。彼女の手から震えが抜けきったことを確認してから、僕は手を離した。ずっと、言いたかったことを、彼女に告げる。

「大丈夫だよ。僕は、君しか頼らない。君なら、きっと出来るから」

「でも」

「僕は君に、宣言する。僕は、過去の自分を乗り越えて見せる。苦手だった世界を、克服して見せる。君と一緒なら、僕は僕を変えられるんだ。だから」

 腕を差し出して、彼女を見つめる。具体的な方法はない。

 だけど、彼女と一緒なら、僕は、僕を変えられる。

 今の彼女と、同じように。

「……表が出たなら、貴方の願いはかなうでしょう。裏が出たなら、貴方の望みは潰えるでしょう。選択される運命は、常に一つです。願わくば、貴方が」そして、君が「幸せな人生を、送れますように」

 僕らの運命を乗せて、小さなコインが、空を舞った。


   ***


 ショッピングモールの屋上で僕等は夜空を眺めていた。星から居場所を奪うように丸い火花が夜空を照らす。花火大会が始まってから、ようやく自分の分の飲み物を買っていなかったことに気付いた。高校生の頃はこんな失態をしなかったのに、どうも今日は落ち着かない。彼女も僕と同じみたいで、花火と僕の間を視線が行ったり来たりしていた。

「やっぱり、さっきの行動は許せないわ」

「そう? あれは発作みたいなものだから、あんまり責めないでくれよ」

「だからって、人前で――あれは良くないと思う……」

 言葉の尻が小さくなっていき、彼女が少なからず恥じていることが分かる。別に抱き付いたりするくらいいいじゃないかとも思うんだけど、確かに僕ら以外のカップルがそういうことをやっていたら腹立たしくなるかもしれない。今度は人気の少ないところでやろう。

 そのときはキスもしたいなぁ。

「貴方が考えていることは分かるけれど、そういうことじゃないからね」

「え? なんのことかな」

「とぼけないで。分かるのよ、そーいう不埒なこと考えているときは、余計に」

 まぁそうだろうな。僕は、嘘を吐くことが苦手だから。

 花火大会があることを見越して作られたのだろう自販機の前にはちょっとした人だかりができていて、飲み物を買うだけでも大変だった。人混みが苦手な彼女を元の場所へ戻って探し当てると、少しでも人の少ない方へ移動する。

 彼女に頼まれていたカフェオレを渡して、僕は適当に選んだ缶コーヒーを手に取って、互いにプルタブを開けた。夜空に映える色鮮やかな花火を眺めていると、甘い香りが漂ってきた。多分、彼女のカフェオレの匂いだろう。

「……僕も、そっちにすれば良かったかな」

「あげないから」

「間接キスとか、そういうのも不埒なこと?」

 無言で脇腹を叩かれた。ダメらしい。

 夜空が煌めき始めて十分が経過すると、様々な模様を描く花火が真っ黒なキャンバスを彩り始めた。変わった図柄が暗闇を照らす度に、集まったギャラリーが感嘆の声をあげる。地元に住む人間だけでなく、遠くから見に来る人もいるくらいのものだから、美しくて当然だろう。

 隣を見れば、そこには彼女がいる。花火よりも美しく、僕の人生を照らす女性が。

 ……目が合ってしまった。慌てて前を向くと彼女が小さく笑っているようだった。僕も照れて笑う。

 空になった缶を捨てる為に立ち上がると、彼女も一緒に立ち上がった。でも、まだ半分くらいしか飲めていないだろう。手を出すと、ちょっと迷ってから彼女が缶を渡してくれた。一気に飲み干して、二人で一緒にゴミ箱を探す。

 花火をより鮮明に見せるためにショッピングモールの屋上はライトを消している。沢山の人がいるからはぐれないように気を付けなくてはいけない。考えなくちゃいけないことは山積みだ。

 手にしていたものがなくなると、人混みに戻る気力がなくなっていることに気付いた。花火はとても美しいけれど、ふたりで静かにしている方が好きだ。彼女も似たようなことを考えたのか、僕等は屋上の隅へ行くことにした。

「花火は見なくてもいいの?」

「当初の目的より、君と一緒の時間を過ごす方が大事になったからね」

「歯の浮くようなセリフが、どうして次々に思い浮かぶのかしら」

 僕が答えを告げるより早く、彼女が体重を預けてきた。誰もが花火に意識を奪われている。虚空に浮かぶ月だけが僕等のことを見下ろしているようだった。

 彩り豊かに明滅する夜空を眺めていると、一際目立つ三尺玉が打ち上がった。観客の歓声も、サイズに比例して大きくなる。何度も見に来ているから分かることだけど、二分後に一番大きな四尺玉が打ち上げられるはずだ。

 つまり、花火大会も終わってしまう。僕等は花火を見ただけで、それ以上は進めずに終わってしまう。僕の気持ちを察したのか、彼女がそっと距離を取った。手にしていた巾着袋を開けると、そこには、黄金色に輝くコインが入っていた。

「ねぇ。これで決めたいこと、他にないの?」

 彼女が言わんとすることは分かる。だけど、それにコイントスは必要ない。

 奇跡的な運命に導かれて出会った恋人たちは、悲劇的な運命によって切り裂かれることになる。だけど僕等は自分の意志で互いを好きになって、付き合うことになって、別れることになって、そしてもう一度。

「ねぇ、コイントスは必要かな? 恋心を運命とやらに図られたくはないんだ」

「ふーん。恋の優先権は、女の子が握るものじゃないの?」

「かもね。でも、今は違うって信じたい。僕だって、君から愛して貰いたいし」

 彼女が小さく笑った。

 あー、それでは。

 頑張ろう。

「ねぇ、――」

 僕は、彼女の名前を呼んだ。呼ぶだけで胸が苦しくなり、好きが加速していく名前を呼ぶ。

「もう一度、僕と付き合ってくれませんか?」

 差し出した掌を、彼女がじっと見つめる。

 そっと握られて、僕は幸福な溜息を吐いた。

 その分だけ、意地悪な言葉も浮かんでくる。

「それで、返事は?」

「……聞かないでよ。分かっている癖に」

「君は本当に恥ずかしがり屋というか、僕より卑怯なんじゃないか?」

「そんなこと言われると、私は泣いちゃうかもしれない」

 やっぱり卑怯じゃないか。

 ふたりで笑って、そっと手を取り合った。見つめ合うのと同時に周囲から音が消えていく。夜空を彩る一瞬の輝きに誰もが期待をしているのだろう。僕の心と眼は、すべて彼女に向けられていた。

「ねぇ、――」

 彼女が、僕の名前を呼んだ。

「私のこと、好きになってよかった? これからも、好きでいてくれる?」

 ふたつの質問に対する答えは同じだ。僕は頷いて、彼女の額にキスをする。

 黄金の火花が、僕等を照らした。遠くで誰かの歓声が聞こえ、僕等は距離を縮めていく。

 久しぶりに抱き合う彼女からは、甘い恋の香りがした。

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香る夏、匂う恋 倉石ティア @KamQ

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