第15話 幕間。三
……っと。
気が付くと、僕は地元で一番大きなショッピングモールへと足を運んでいた。でも大丈夫だ。飲酒運転どころか、そもそも自動車の運転が出来ないからね。免許は持っているけれど、もはや身分を証明する以外に使う気がないんだ。僕はルールを破らない、至極一般的で平和な市民でございます。
うっぷ。
で、僕はどうしたっていうんだ。
ポケットを弄ると硬いものに触れた。その感触を指先に残したまま、僕は大きく頷いた。なるほどね、こいつがあるなら話は早い。目的なんて、たったひとつしかみつからないじゃないか。
彼女に会いに来たんだよ。
酒を飲んだことは覚えている。吐きそうなくらいに気持ちが悪いことも分かっている。それでも僕は太陽が世界を照らす朝に、部屋の外へ出てきていた。夜の闇を乗り越えたから、昨日を置き去りにすることも成功しているはずだ。よって、昨日のコイントスに背くような真似もしていない。
何を言っているんだか。
もし彼女がいなかったら、なんてことは考えない。何しろ僕には彼女専用の第六感が備わっているからね。彼女のことはよく知っている。僕という人間は、彼女のストーカーみたいなものだったから。そうだろう? ストーカーという言い方が気持ち悪いなら、ドッペルゲンガーという呼び方でもいいかもしれないな。オカルトには詳しくないけれど、僕は魂を信じるよ。自分と同じ形質を持つ魂が自分から離れていったら、自分と同じ行動をとるに決まっているさ。
僕は彼女で、彼女は僕だったのだから。
運命は悪戯好きだ。別れて離れ離れになったはずの僕らは、狭い町の中で何度も顔を合わせている。どちらか一方が相手に会いたいと願えば、本当に出会うことが出来る。それほど僕らは相手のことを理解していた。分かっていた。会いたくないという思いも、相手に筒抜けになってしまうほどに。
僕らは互いに溺れていたんだ。
開店したばかりのショッピングモールを二階へと上がっていく。おぼつかない足を無理矢理に引きずって、彼女が登場するだろう角のアイスクリーム屋の前に陣取った。椅子に座ると、そのまま眠ってしまいそうだな。あとは、彼女が来るのを待つだけなのに。
酒で混濁した思考を次に書く小説のネタで掃除していると、視界の端に黒い布地がひらめいた。顔をあげると、複雑な表情をしている彼女が立っていた。多分僕は、泣きそうな顔をしていることだろう。
「やぁ」
気さくな男をイメージしながら、手をあげる。どうにもぎこちない。
彼女も小さく手をあげようとして、途端に顰め面になった。手を伸ばせば届く距離に近づいたことで、僕が酒臭いことに気が付いたのだろう。彼女は酒も煙草も嫌いだから、僕の趣味を批判してくる。高校時代はなかったことだし、すごく新鮮だ。
例えそれが、一年前から続いていることだとしても。
「貴方、またなの?」
「そういう君は、まだなのかい」
「誘ってくれる殿方がいないからね」
僕の心を抉りながら、僅かに救済してくれる。彼女は、彼女のままだった。
僕の元カノは、いつまで経っても清廉潔白なままだ。だからこそ、僕は彼女を。
彼女を、どうしたいのだっけ?
何かを言いたげに僕を見上げていた彼女が、小さく首を振った。そして、比較的当たり障りのない話題から、口に出し始めた。
「それにしても貴方、酒臭いわね」
「まぁね。随分と飲んだはずなんだけど、酔いつぶれるのに失敗したらしい」
「座ったら? 足元がグラついて、まるでゾンビみたいよ。気味が悪い、近づかないで」
「君も人が悪いなぁ。久しぶりの再会だろう? もう少し仲良くしようぜ」
「何が久しぶりよ、まったく」
小さく、彼女が舌打ちをした。一回目は失敗して空振りをしたみたいだけど、優しい僕はそれに気が付かない振りをする。うむ、だからダメなんだ。
口では冷たいことを言うけれど、彼女の目が、広いフードコートから空き席を探していることに気が付いてしまった。またなのか、と僕はどこまでも暗澹たる気分になる。彼女は、本当の意味で僕を嫌ってくれない。だから、僕は望みが捨てきれないんだ。
後生大事に抱えていた望みを捨てられないのは、彼女も同じかもしれない。
だって僕らは、どこまでも似た者同士だったのだから。
彼女が席を探している間に、僕は近くの店で珈琲を買ってきた。勿論、彼女の分のココアも買ってある。人見知りの激しい彼女を持つと、このあたりだけは妙に訓練されてしまうようだね。
彼女の誘導に従って僕らは窓際の席に着く。なんだか、学生時代を思い出した。
一年半しか経過していないのだから、思い出すこと自体は不自然ではないのだろうけれど。僕らには、目的があるからね。雲間から伸びる朝の陽ざしが、僕らを優しく包んでくれる。だけど、僕が彼女から浴びる視線はどこまでも冷たかった。だからこそ、その奥にある温かさが胸に突き刺さる。
「最近、調子はどうなの」
「まぁ、見ての通りさ! 早打ちが自慢なのに、原稿を落としかけたよ」
「サークルの人、怒っているんじゃないの」
「大丈夫だよ、僕はまだ、ちゃんと原稿を出している方なんだから」
曖昧に笑う僕らは、まだ互いを探りあっている。僕らは過去を清算できていない。
珈琲で唇を湿らせてから、彼女に語り掛けた。多分、すぐに話を躱されるだろうなと思いながら。
「で、君はどうなんだい? 大学生活二度目の夏休み、無事に迎えられそう?」
「全く問題ないわ。私は、やれば出来る子だから。それで、貴方は? 通信教育、始めたんじゃなくて?」
「なんでそんなことしなくちゃならないのさ、まだ普通の大学生だよ」
「あら、意外とマジメなのね」
口許に笑みを浮かべて、僕の瞳を覗き込んでくる。大好きな彼女が目の前にいて、それでも話しかける以上のことが出来ない僕への拷問だ。彼女もひどいことをする。もっとしてくれないと、罰が足りない気もするけれど。
「あぁ、思い出した。前期に必修単位を落としたよ。後期、また頑張らなくちゃいけないんだ」
「ふん。どうせまた、試験前日まで本を読んでいたのでしょう?」
「よく分かるね」
「当たり前じゃないの、だって私は」
と、何かを言い方ところで彼女が口を曲げた。そこから先に続くセリフは、僕ら二人を見たことのある人間ならだれでも想像がつくだろう。そして、口には出さないその言葉を、僕は確信をもって、予知することが出来る。
私は、貴方だったのだから。
勿論、彼女がそんなセリフを吐き出すことはなく、僕らは目を逸らしてしまった。
窓から見える景色を眺めながら、安い珈琲を啜る。横目で彼女を確認すると、上目遣いで僕を見ていた。彼女は僅かに顔を背けて、見ていなかったふりをする。僕と別れてから、彼女はまるで変わっていない。変わることを、放棄してしまったようにも見える。それが、僕には不思議だった。
カップの中身が半分になったところで、彼女の目が泳ぎだす。いつまでも外を見ていることに耐えられなくなったらしい。今日、最初に目を逸らしたのは彼女の方だ。だから相手の顔を眺める権利は僕に与えられ、気恥ずかしさと気まずさで外を眺める苦痛は彼女が味わうことになる。
ふふふ、僕は目を逸らしたりしないぞ。
酸味の薄い珈琲を舌先に感じながら、この世の誰よりも美しい女性を眺めていた。苦い顔をしている彼女だって、どんな人より美しい。僕は未だに、そんなことを思ってしまう。それも一種の業だということにしておけば僕は普通に戻れるのだろうか?
今日の彼女は、普段よりも幼げに見えた。その理由は、恐らく彼女の服装にあるのだろう。
彼女は黒で上下の洋服を統一しているが、手首や襟元の他、服の裾やスカートの先などの要所に、小さめのフリルが施されているのだ。
ふと思いついたことを、声に出した。
「ところで君、今日は開店直後に来なかったよね」
「普通、そういう人の方が珍しくないかしら」
「そうかな? で、どこ行ってたの」
「あなたに言う必要はないと思うけれど」
「いいじゃないか。教えてくれよ」
つい、と顔を背けられてしまった。まぁ、おおかた本屋に寄って来たのだろう。新刊の発売日は明日だけど、それでも本屋に立ち寄りたくなる気持ちはわかる。僕も彼女も、本の世界にとらわれたアリスみたいな奴なんだ。
……それにしても、彼女は可愛い。自力で裁縫したのだろうか?
「ゴスロリっぽいよね、今日は」
「何? 私が変な格好をしているようにみえるの?」
「いいや、全く。可愛いけど、少女っぽさが足りないなと思って」
彼女の胸は割合大きい部類だから、ロリータという言葉が似合わないし。
「年頃の乙女を嘗め回すように観察して、恥ずかしいとは思わないの?」
「だって、美しいことは罪というじゃないか。罪人は衆目に晒される運命なんだよ」
「私に脱げと強要しているみたいね」
「そのときは僕が服になろう」
彼女が僅かに頬を緩めて、また視線をそらしてしまった。今のは、彼女的に面白いセリフ回しだったらしい。頭の中のメモ帳に記録しておかなければ。
照れを拗ねて隠してしまう彼女を、僕は再び観察することにした。この前は僕が観察される側だったから、遠慮する必要は一切ない。
僕は、カップを持つ彼女の手に注目することにした。
ネイルもしていないのに、彼女の爪は透き通るように美しい。
指は白く、滑らかに手のひらとつながっている。伸びる腕は細く、握れば折れてしまうのではないかと僕を不安にさせる。だけどその手のひらが、予想よりも遥かに柔らかいことを、僕だけが知っているんだ。
朝陽を浴びながら、どこか遠くを見つめる彼女。
僕が『恋していなかった』、この世で最も美しい女性。
伸ばした手が触れた顔は、化粧っ気もないのに整っていて、彼女が天性の美人だったことを僕に理解させる。彼女が僕以外の男から言い寄られなかったのは、僕と彼女が共依存の関係にあったからだと、今更のように思いだして。
「ねぇ、君に尋ねたいことがあるんだ」
「何。答えられることなら、答えてあげるけれど」
「今度の『祭りの日』に、もう一度ここで会わないかい」
「どうして? 私、その日は家でゆっくりする予定なんだけど」
「……僕らの過去に、決着をつけよう」
ポケットに忍ばせておいた、あるものを取り出す。
それは、一年前。僕が、彼女から奪い取ったコインだった。
「ねぇどうだろう。逃げた僕を叱責した君が、まさか逃げるなんてことはないよね」
彼女は目を白黒させている。僕がこんな行動をとるとは思ってもみなかったらしい。喉を絞められているように、苦しそうな顔をしている。彼女が、小さく呟いた。
「どうして? 週に一度はこうして会っているじゃない。少なくとも、半月に一回は」
「だからダメなんだ。僕らは未だ過去に縛られている。このままじゃいけないんだ」
だから、頼むよ。
突き出した僕の手には、金色のコインが握られている。彼女と僕が、中学生の頃から使い続けているコインだ。僕らの運命と明日を選択してきたのはコイントスだった。僕はこの宝物を彼女から奪った。奪ってしまったから、こんなことになっているのかもしれない。
だから。
「頼むよ。君にしか、頼めないことなんだ」
震える手で、僕からコインを受け取った彼女に、僕は小さくささやきかける。
「ねぇ、もう一度、僕と」
吐き出した言葉を、彼女が受け止める。
そして、小さく微笑んだ。
***
僕がもう一度好きになった相手が、彼女でなくて姉さんだったなら。
通算三十八回目の告白をする前に、僕を取りまく環境が大幅に変わってしまうだろう。荒れ狂う海に飛び込んだように、対処のしようがない現実が僕に襲い掛かってくるはずだ。たとえば手にしていたカップを僕に向け、頭からコーヒーを浴びるのはどうだろう。隠れていた心の壁を突き破るようにして、様々な言葉が僕に噛みつくのはどうだろう。もしも僕が彼女だったら、どんなことを言って拒絶するだろうか。
もう二度とそんなことは言わないで。
私は、貴方みたいな人が大嫌いなの。
二度と私の前に現れないで。
最低よ、貴方は。
もう、絶対に、会いたくない。
そんな言葉を並べ立てると思う。そして絶望に打ちひしがれた僕は、家の近所にある大病院へと駆け込むんだ。職員しか使わない非常階段を駆け上がって、屋上の鍵を叩き壊して地上十数メートルの場所へ逃げ込むんだ。目的は当然、屋上ダイブ。死因は勿論、失恋だ。
葬儀会場に現れた彼女は、いつものように僕へと背を向ける。
そして小さく、絞り出すように、僕に言葉をつぶやくんだ。
さよなら、って。
だけど、「もう一度付き合おうよ」という言葉を彼女は軽く受け流した。そうすることが義務であるかのように、鉄の意志を感じるほどの即答だった。僕は彼女に振られてしまった。僕も彼女の告白を、ほとんど同じ回数だけ断っているのだから似たようなものだろう。
……このことをこの前まで僕の話を聞きに来てくれていた女子高生に話したなら、一体はどんな顔をするのだろう? 昔付き合っていた女性と週一で顔を合わせて、しかもどちらかが必ず告白をするような関係になっているなんて知られたら。
僕らは互いに、相手を許すことが出来ず。
けれど、どこまでも。そう、どこまでも残念なことに。
相手に、自分のもとへ戻ってきてもらいたいと思っているのだから。
「で、夏祭りっていつだったかしら」
「来週の土曜日だよ。もちろん、君の大学も休みだよね」
「土曜日? ということは、教職の講義が……冗談よ」
「人が悪いなぁ! ホント、そーいうところ嫌いだ」
「だって、アナタって百面相するじゃない。ふふ、今回のも面白かったわよ」
「くっそ、僕よりも君の方が絶対に性格悪いよな」
「そんなわけないでしょーが。これでも私、先生を目指している身なんだから」
自信満々に言い放った彼女と相対した僕はゆっくりと首を傾げ、ムキになった彼女に頬を抓られてしまった。
だって、仕方ないよな。彼女が教員になったところは流石の僕でも想像できないのだから。未だに人見知りの激しい彼女が、四十人の生徒を相手に堂々と授業を出来るはずもないし。……でも、ちょっと見てみたいかも。彼女が、スーツに身を包んでいる姿を。
ところで、と彼女が話を持ち帰ってきた。
「集まる時間は?」
「君に任せる」
「誘ったくせに。なら、花火が終わった頃にしましょうか」
「やめてくれよ、花火も楽しみにしているんだから」
「どうしても観たいなら一人で――もう、そんな顔しないでよ」
拗ねてしまった僕の頬を、彼女が指先で押してくる。恥ずかしいからやめてくれ、けど触れ合うことが嬉しくもあるからやめないでくれ。くぅ、神様って意地悪だ。矛盾する気持ちを同時に抱けるように人間をプログラミングしたのなら、どうしようもなく性悪だ。だって僕は、こんなにも苦しいのに。
彼女は、あんなにも楽しそうなのだから。
それから何時間も、ふたりでお喋りを続けた。昼になると新装開店したばかりの喫茶店に場所を変えて、夜にはお気に入りのオムライスを食べに行って。彼女を家にまで送り届けたところで、僕等のデートは終わりになる。デートなんて呼び方を使うと付き合っていないと怒られるけれど、でも、僕にとってはデートみたいなものだ。
もう、僕等は別れているのに。
玄関をまたがない僕は、彼女と離れて向かい合う。互いに手の届く距離だった。
「じゃ、次に会うのは来週かしら」
「君が風邪をひかなければ」
「もしそれが本当になったら、どうする?」
「看病しに来るよ。……勿論、変なことはしないと約束する」
「あら、私は別の約束が欲しいけれど」
それは何かを問う前に、彼女が小さく手を振った。
別れの合図だ。もう一度会うために、僕等は別れの挨拶をするんだ。
そっと手を差し出すと、彼女は握り返してくれた。その手を強く握りしめて、抱き締めたくなる気持ちを押し殺す。彼女も僕の手を見つめるばかりで、視線を合わせようとはしない。
僕等は知っている。愛が深すぎることで、傷つくこともあるのだと。
握っていた手をジーンズのポケットに仕舞いこむと、僕は夜道をひとり、家に帰ることになった。寂しくなった少年が歌いながら帰ってもおかしくはないほど、暗くて月の見えない夜だった。実際、彼女と別れたばかりの僕なら、そうしていたかもしれない。だけど今日の僕は違っている。今日は興奮して、あまりよく眠れそうにない。
だって、大好きな女の子と手を繋げたんだから。
明日からは緊張でお腹が痛いんだろうなぁ、と他人事みたいに考える。
星空も見えない夏の夜空に、願いをひとつ呟いてみた。
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