第10話 コクハク
さて。
次は、彼女が僕に告白をしようとしたところまでの話をしよう。
酷薄じゃないぞ、告白だぞ。男女の恋愛関係を決定付ける最重要項目のひとつであり、絶対に学校では教えてくれないもののひとつだ。たまに生徒へ恋愛指導みたいなことをする先生もいるそうだけれど、それは恐ろしく巧妙な罠だから気を付けた方がいい。私は美人じゃないからとか、僕は格好良くないからと思っているルサンチマンも狙われやすいし、逆に自信過剰な奴も結構な狙いどころにされている。ゆめゆめ、警戒を怠らないようにしてくれ。
いや、そんなことはどうでもいいか。
君は真っ当な恋愛をしてくれそうだし。
運が良ければ、君は最後にいいものが見られるかもしれない。もしかしたら、僕と彼女の物語の結末も分かるかもね。
御託はいいから、という顔をしているな。いいじゃないか。僕はそういう無駄な話が大好きなんだ。無駄に思える話でも、実は彼女につながっていたりするからね。人生の大部分に姉さんか彼女のどちらかが関わっていたんだし、女性は話をしているうちに横道へ逸れることがあるそうじゃないか。だからそれも、当然のことだろう?
じゃ、話そうか。
それは僕らが高校二年生の春を迎えたときのことだった。
いつものように教科書や小説を鞄にしまい込んでいた僕は、新しい教室の壁に先輩たちの落書きを見つけて微笑んでいた。
珍しく目立たない色のバンドを手首に巻いていた彼女は、散ってしまった桜を眺めながら風に乱れる髪を気にしていた。普段から身だしなみを整えるようにはしていたけれど、なんだかいつもとは違う雰囲気だったな。
春の穏やかな風に包まれながら、妙にそわそわしていたことを覚えている。例えるならそうだな。ものすごく出来が良かったと思えるテストが採点を終えて返ってくる前日のような。長く辛い持久走を、いつもより速いタイムでゴール出来そうなときのラスト五十メートルのような。
不安に押しつぶされそうになりながらも、もう少しで何かが達成出来る喜びに震えている顔だった。
今日は家に帰ろうかと思って立ち上がると彼女も同じように腰を上げた。
彼女も鞄を持手に握りしめていて、今日は普通に帰るのかな、なんてことを思ったよ。
誰もいなくなった教室の灯りを消して、三階から一階までの階段を黙々と降りていく。誰ともすれ違わなかった。世界には僕ら二人しかいないんじゃないかという錯覚に襲われるくらい、その日の校舎は静かな空間だったんだ。
僕も何かを感じて、緊張していたのかもしれない。だから周囲に気を配る余裕がなかったのかもしれない。
でも、ひょっとすると。
世界そのものが、その日だけは僕らに優しくしてくれたのかもね。
真っ暗な下駄箱で下靴に履き替えた僕は、バランスが悪くて苦戦している彼女を見ていた。僕は彼女を待つ必要なんてなかったんだ。だけど僕は彼女を見下ろしていた。そして、よろけそうになる彼女の肩を支えて、こう言ったんだ。
「大丈夫かい」
それに、彼女は短く答えた。
「ええ、大丈夫」
彼女は僕の腕を掴んで靴を履いた。靴入れを支えにするのを嫌うほど潔癖症ではなかったから、これはきっと、多分の話。
彼女は、僕が一人で帰ることを嫌って、そういうことをしたんだと思う。
靴を履き終わった彼女は、すぐ僕から手を離した。突き飛ばすような勢いで僕から手を離したんだ。ここで僕以外の男子生徒だったならば、何かを感じていたはずなんだ。でも彼女が突き飛ばしたのは、人間として様々な欠陥を抱えていた僕だからね。壊れた人形のような僕だったからね。
僕はそれを不快に思うこともなければマゾヒズムの喜びに震えることもなかった。僕は何の感慨も抱くことなく普通に帰途についてしまったんだ。
僕らの青春には空振りが多い。勘違いをするまでもなく、そもそも好機を見逃していることの方が多かったように思う。あまりにも青春から遠い時代を過ごし過ぎていたのだろう。
高校から家に帰る道は、長い直線だった。大きな銀行の横を通り過ぎた後は、さびれたシャッター街や古くからやっている店ばかりが並ぶ地味な道のりを歩いていく。途中で、僕は何度か振り返った。その度に彼女が何かを言おうとして口を上下させるのが見えた。僕も似たようなものだったと思う。
地元で一番大きな駅の中を通り抜けると、そこには最も地元民に愛されているショッピングモールがあった。そうだね、この前、君と僕が待ち合わせをしていた場所だ。僕らはそれを横目に見ながら、別々の道を歩き出すことが多かった。
あの日、いつものように別れようとしたときのことだった。
「ねえ」
蚊の鳴くような、とても小さな声だった。
喉を締め付けられているような、酷く掠れた声だった。
それでも聞き取ることが出来たのは、僕が彼女のことを意識していたからに違いない。小学校の校区は違ったけれど、彼女の家は近くにあったんだ。中学校生活を共に乗り越えてきた仲間でもあったし、平穏無事に過ごせた高校一年間を静かに喜びあえる仲だとも思っていたんだ。
もしかしなくても、それは嘘だったかもしれない。
だけど、僕らは僕らの限界を知っていた。
今にも泣きだしそうな顔の彼女を、無視できるはずもないだろう?
何度か彼女を見るために振り返ってはいたけれど、身体ごと向きを変えるのはその日初めてのことだった。振り返った僕を、彼女は睨んでこなかった。それだけでも珍しいなと思ったのだけど、まだ終わりじゃなかった。
彼女は僕に、こう言ったんだ。
「少し、お願いしたいことがあるのだけど」
これは本当に驚くべきことだった。
彼女は人に物事を頼むのが苦手だった。
そんな彼女が僕に頼みごとをしたのだから、僕は断るわけにもいかなかった。
彼女にとっても驚くべきことだったと思うのだけれど、そのときの僕は彼女に手を差し伸べようとしたんだ。彼女が目を見開いたのを見て僕はすぐに手を引っ込めてしまったけれど、僕に手を出させたのは彼女が初めてだったと思う。見下していた相手に対する庇護欲ではない、もっと優しくて柔らかな感情が僕の中に芽生えたんだ。だけどそれは恋じゃない。これは今でも譲れないよ。
彼女が僕にしたお願い、頼みごとの正体というのは一緒に本屋さんへ行くことだった。
今、少し笑っただろ。
うん、当時の僕と同じ反応だ。昔の僕は今の君と同じように、子ガモの成長を見守る親ガモのような顔で微笑んでしまった。
彼女はとても激しい人見知りだった。だから一人で本屋に行くこともできなかったのだろう。図書館には行けるのに、なんとも不思議なことだよね。
そんなことかと気抜けした当時の僕は思わず笑ってしまったんだ。彼女と一緒に本屋の中を歩き回っているときも微笑を湛えていたに違いない。傍から見たらデートをしているようにも見えたかもしれないね。
実際はそんなに甘い関係じゃなかった。
僕は彼女の保護者代わりにされただけなんだ。でも、一人で行くのが心許ないからと人身御供になるのは苦痛じゃなかった。むしろ僕は、彼女が僕を嫌ってはいないということを知って安心したよ。
僕と彼女の関係が少し気まずくなっていた話はしたのだっけ。
その顔を見ると、していないようだね。
僕としたことが説明不足だったようだ。
高校二年生の春を迎えたとき、僕らの間には少しギスギスした空気が漂うようになっていた。さび付いた自転車のチェーンのように上手く回らなくなっていたんだ。
僕らは元から独りきりの世界を大事にしていた。だから会話をすることなんてなかったのだけれど、彼女が隣にいるだけで僕は安心感を覚えるようになっていた。彼女も似たようなものだったんじゃないかな。空き教室で二人きりのとき、彼女はよく居眠りをしていたから。
ある程度心を許した人間か、自分より格下の人間を相手にしているときでなければ、あれほど不用心なことはしないだろう。
それで、その原因になったことだけれど、君は二度聞くことになるかもしれないね。
さっき、話したような気がする。
ほら、体育祭の話だよ。
僕らが、体育祭の時に少しだけ触れ合ったという話をしただろう? ちょっとだけ困っていた彼女に助太刀して、なぜか僕が殴られたと言う話だ。実はあの後、僕らは柄にもなくお喋りを楽しんでしまったんだ。それまでは五分と会話が続いたこともなかったのに、あの日は閉会式が終わるまでずっと喋っていたような気がする。そして、喋りすぎて疲れてしまったらしい彼女が、今度は本物の貧血でふらついたんだ。
嘘じゃないよ。彼女は僕よりもひ弱な身体をしていたんだ。
それでどうなったのかというと、僕が彼女を家まで送り届ける破目になったんだよね。僕が彼女に最も近しい人間であるということは周知の事実となってしまっていたし、彼女も家族を呼び出してまで家に送ってもらうと言うことに抵抗があったらしい。
彼女の家は僕の家に近かったから、僕らは二人きりで帰ることになった。
夕焼けを見つめながら、高校生二人が家路につく。
なんともロマンチックなのはいいけれど、僕らには、もう一歩を踏み出す勇気が足りなかった。だから、何も起きなかったし、何も起こせなかった。そして、彼女が貧血でふらついたりするものだから、僕は彼女と離れて歩くわけにもいかなかったんだ。
なまじ距離が近かったばかりに、僕らはお互いのことを意識せざるを得ない状況に追い込まれてしまう。灰色だった空気が、突然朱を帯びた桃色に変わったんだ。驚かずにはいられないだろう?
これまでとは違う感覚に、僕らはすっかり怯えてしまった。相手のことを動物やモノのように観察していたのが、意識を持つ相手と見つめあっている、なんて状況に様変わりしてしまったのだからね。僕らの慌てぶりは相当滑稽だったんじゃないかなぁ。
そんな感じで、僕らにはちょっと不思議な距離感が生まれてしまっていた。それが彼女と本屋へ買い物に行くと言う行為だけで、少し和らいだような気がしたんだ。僕らが二人とも本の虫だったから、そんなことになったのかもしれないけどね。
今思い出してもなんだか恥ずかしいなぁ。
さて、それからの話だ。
毎週のように、僕らは本屋へ行くようになった。僕には元々、本屋へ行って本や漫画を買い漁るという趣味があった。だから、そこに彼女が加わったような形になる。
本屋に行って好きなものを買うというのは、僕にとってはなんということのない日常そのものの風景だったのだけれど、彼女にとっては途方もない勇気が必要となる行為だったらしい。本を買うだけの勇気がなかったから、彼女は僕よりも先に図書館へ行って本を読んでいたのかもしれないね。
彼女は親にも頼らない。出来る限り自分の甘えを減らそうとする努力家だったんだ。
さて、彼女と本屋に行った時のことに話を戻そう。レジに並ぶというごく当たり前の行為でも、彼女にとっては敷居が高かったらしい。彼女はいつも不安そうな顔をしていた。僕にもそんな経験がないわけではないから、彼女のことをのんびりと待っていた。
でも、思い出してほしい。
僕には、彼女を待つ必要がなかったんだ。
彼女がどれだけ不安がっていようと、一人で帰ってしまうと言う選択肢があった。けれど僕は、一度だって彼女を置いていくようなことはしなかった。僕の欲しい本がみつからなかったときも、僕は彼女のことを待っていた。
僕には、彼女が必要だったのかもしれない。彼女の隣にいるというだけで、僕は成長出来たのかもしれない。なぜか、彼女のことを知りたいと願うようになっていたんだ。
ずっと長い間、行動を共にしてきたからこそ情が移ったのかもしれない。
だって、そうだろう?
色の薄いものの傍に色の濃いものをおいているときみたいに、感情の強いものから感情の弱いものへ想いが移っていっても不思議ではないんだ。
どんなことがあっても、僕らは相手のことを意識せずにはいられなかったんだ。
僕らは世界から遠ざかりすぎていた。その穴にぴったりと当てはまるような人間は、僕らにとってたった一人しか存在しなかったんだよ。
ふぅ。
少し、珈琲でも飲んで落ち着きたいところだね。
だけど待ってくれ。
このまま、一気に話してしまおうと思う。
座ってくれないか、頼む。
僕と彼女の物語は、まだ、終わりを迎えないのだから。
場面を変えて、夏休みのことを話そう。小説ではこういうとき、文と文の間に隙間を入れたりするんだよね。僕の文章をよく読んでくれた君なら、それとなくは意識してくれたと思う。まぁ、それはさておいて。
一緒に本屋へ行くようになってから、僕らの間にあったわだかまりは溶けるように消えてくれた。毎朝挨拶を交わすほどの中にはなれなかったけれど、目が合えば片手をあげる程度の仲にはなることが出来た。普通の人からしてみればほんの些細な交流が、僕らもようやく出来るようになったんだ。
高校二年生にもなって、僕らはようやく人間らしい営みを手に入れたわけだ。
それまでよりも少し前進した関係で迎えた夏休みのこと。僕らは毎日のように図書館に入り浸っていた。今、がっかりしたんじゃないかな。でも、僕らにとっての図書館というのはとても大切で貴重な場所だったんだよ?
一年生のときから、暇さえあれば図書館に籠っていた僕らは司書の先生に随分目をかけてもらっていた。書店では手に入れにくいような本も、県の中央図書館から借りてくれるような優しい先生だったんだ。
僕らは本当にうれしかった。どちらが先に読むかということで無言の喧嘩をしたりもしたけれど、結局はコイントスの勝負になると分かっていたからね。そうなると、負けるのは僕だ。
高校生になった彼女は、中学生の頃とは比べ物にならないほどコイントスが上手くなっていたんだよ。だから、大抵の場合は僕が彼女に本を譲ることになっていた。仕方がなかったんだよ。
彼女は怒るとすごく怖いからね。拗ねているときは、いつまでも眺めていたいような雰囲気があるのだけれど。
僕らにとって図書館は特別な場所だった。だから、図書館に集まると言うのは、僕らにとって何より大切なことだったんだ。
朝早くにやってきて、まずは自分のお気に入りの席を陣取るんだ。そして運動系の部活に青春をかけている生徒たちの声を聴きながら本を読みふける。正午には他に誰もいない教室を探して、二人きりで昼ご飯を食べる。僕はコンビニで買ったお弁当を彼女は家で握って来たらしいおにぎりを頬張っていた。
あの夏のことを、僕は今でも覚えている。
風を入れるために開け放った窓から、風が吹き込んでくるんだ。
夏の力強い風になびいた彼女の髪が、僕にはとても美しく見えた。
お昼を食べ終わると図書館へ戻り、夕暮れが部屋を染めるまで本の世界に没入する。本が大好きな僕にとって、あの時間は本当に心地の良いものだった。彼女も本は好きだったはずだけれど、三日に一度くらいは睡魔に負けて舟をこいだり、机に突っ伏したりしていた。
彼女は学校で眠るとき、なるべく左を向いて眠るようにしていたらしい。それは僕に寝顔を見られまいとしての行動なのだろうけれど、その年の夏は警戒が緩くて、僕は度々彼女の寝顔を拝むことが出来た。彼女もこんな無防備になれるのかと、心がむず痒くなったことを覚えている。
でも、それだけじゃない。
高校二年の夏は、それだけで終わってはくれなかったんだ。
お盆を過ぎた、ある日のことだった。
親戚の集まりで沢山のお小言をもらった僕は、図書室という空間そのものに癒されようと思っていたんだね。それまでと同じような光景が、そこに広がっているものだと思い込んでいたんだ。
図書室に入り込んだ僕は、張りつめた雰囲気を感じた。その中心にいるのが彼女だということにも僕は気が付いた。何か、家で嫌なことでもあったのだろうか? 僕が、彼女を怒らせるような何かをしてしまったのかもしれない。
彼女に対してだけ自意識過剰になっていた僕は、バカみたいなことを考えた。体育祭のときと同じように、彼女に絡んできた男がいるのだろうか、とも思った。でも僕は身に覚えがなかったし、図書館に来るとき誰ともすれ違わなかった。すると、彼女が怒っている理由は図書館の中にしかないのだろう。
そのとき図書館の中にいたのは、僕らを除けばとてもおとなしそうな一年の女生徒だけだった。しかも、その子はとても怯えていたんだ。彼女がまき散らす雰囲気に圧倒されていたのかもしれない。
僕も彼女の剣幕には怯えていて、普段座る隣ではなく、彼女の正面に陣取った。
すると彼女が突然立ち上がった。そして、僕の胸倉を掴んできたんだ。
吃驚したし、去年もこんなことがあったなって思った。彼女はとても怖い顔をしていた。般若のように、子供を殺された親のように、敵討ちに向かう少女のように。あまりの威圧感に、僕は椅子から落ちそうになっていた。
でも彼女の目を見ることで、僕の意識は変わった。彼女が、喉の奥から言葉を絞り出そうとしているのが分かったんだ。図書館には僕らの二人の他には、たった一人の女子生徒と、僕らに優しくしてくれた司書の先生しかいなかったけれど、僕は彼女に喋らせてはいけないと思った。
これから彼女が話す言葉を、僕以外の誰かに一言一句聞かせてはいけないと思ったんだ。それが彼女の為であり、僕の為にもなるとその時の僕は本気で信じていたんだ。
あのときとは逆に僕が彼女の手を掴んだ。
彼女の手は冷たかった。けれど、とても柔らかかった。
僕は空き教室を探して、学校の階段を駆け上がった。戸惑う彼女を引っ張って、誰にも見つからない場所を探したんだ。
二人で見つけた誰もいない教室に入り、二人きりで向かい合う。彼女は、長いこと黙っていた。彼女が黙っているのは息を切らしているからで、息が整えばすぐにでも僕への罵詈雑言が飛び出してくると思っていた。身体の弱い彼女がぐったりとしているのは疲れてしまったからで、体力が回復すればすぐにでも僕に拳を振り上げるはずだと思っていた。だけど、それは違ったんだ。
彼女はずっと、僕が喋るのを待っていた。僕はとても弱い人間なのに、僕が手を差し伸べてくれるのを待っていたみたいなんだ。そうとも気付かずに、僕は長いこと迷っていたと思う。僕が何か悪いことをしてしまったのかもしれない。しかし、僕に何が出来るのだろう。僕は、いつものように悪いことばかりを考えていた。
思い返してみれば奇妙な話だ。僕は、彼女のことを見下していた節があるのだから。
でも、僕はこのとき、彼女に嫌われたくなかった。彼女という人間が、僕から離れていくということを、僅かにも考えたくはなかった。
本当に、そう思っていたんだ。
お盆に帰ってきたご先祖様が何か不思議な力を使ったように、八月下旬は暑さが柔らぐ。
あの日はそんな月曜日だった。誰かが閉め忘れた窓から、八月にしてはやけに涼しい風が吹き込んでくるんだ。肩より長い彼女の髪を、優しげな風がなびかせる。彼女が、僕の知らない誰かに抱きしめられているようにも見えて、だけどそんな彼女でも美しく見えて、あぁ、あの身体がふたつに引き裂かれるような感覚を僕は誰かと共有できるのだろうか。
彼女を美しいと思ってしまったんだ。僕と同じ、人として何かが欠けていることを自覚している女の子のことを!
長い時間が経過してから、彼女は絞り出すような声で言った。
「貴方は、私のことをどう思う?」
反射的に僕の頭の中に浮かんだ答えを教えてあげよう。
お前なんか、嫌いだ。
……ね、酷いだろう?
彼女のことを、僕と同じ、人間として最底辺の位置にいる女の子だと思い込んでいた。犯罪をすることはないし、誰かを傷つけたりするような人間でもないけれど、それ以上のことは決してすることの出来ない女の子だと思っていた。つまり、人として最低限の礼節やマナーは守ることが出来ても、それ以上のことは絶対に出来ない女の子だと思っていたわけだね。
うん、これは酷い。
もっと簡単に、言い換えてみよう。
彼女のことを本気で好きになる人間がいるなんて、僕は考えたこともなかったんだよ。
僕が彼女を好きになりさえしなければ、彼女も僕を好きにならないだろうと思っていた。そうであってくれれば、距離を保ったまま高校生活を終えられるはずだった。だけど、彼女が僕の恋心を刺激するようなことを言ってしまったせいで、僕も再び意識せざるを得なくなってしまったんだ。
当時の僕は自分が誰かの為に動けるような人間でないことを自覚していた。だけど彼女にだけは、何かをしてあげられる気持ちでいたんだ。僕と同じくらいの力しか持っていなくて、僕と同じくらいの立場にいる彼女には、僕しか頼ることの出来る奴がいないと思っていたからね。
正直にそれを伝えていれば、彼女は僕を嫌うことが出来ていたかもしれない。僕だって本気で彼女のことを怨み、遠ざけることが出来るようになったかもしれない。だけどそのときの僕は、彼女に嫌われたくないと言う思いばかりが強くなっていて、口から飛び出す言葉には、棘の一つも見つけることが出来なかったんだ。
「君は、少なくとも他の人よりは、まともな人間に見えるよ」
……あぁ、笑わないでくれ。怪訝な顔もしないでくれ。当時の僕は、それでも精いっぱいだったんだ。それまでの自分と、そのときの自分が入り混じって、頭の中が大変なことになっていたんだ。それまでからと、これからまで。僕の頭の中では、そういう言葉が平気で成立するようになっていたんだ。
僕と彼女は、まともに人と触れ合う機会がなかったんだ。そんな僕らにまともな会話を望むほうが難しいと言うものさ。
そして、僕らの夏は終わった。彼女はそれ以上何も言わず、僕も、彼女には何も伝えることが出来なかったんだ。それでも、僕は薄らと感づいた。もしかして、彼女は僕のことが好きなんじゃないか。少なくとも、他の誰かよりは、好意的に思っているんじゃないか、と。
それが、僕にとって、最悪な思い込みになったんだ。
次は、その話をしよう。
そして、そう、ここが、僕の人生の中で最も僕が嫌う話。
僕が、世界で最も憎まれるべき人間になった日のお話だ。
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