第9話 夏が過ぎて。

 今度は夏休みが過ぎた頃のお話をしよう。

 夏が過ぎて二学期が始まるころのお話だ。

 僕が高校生だった頃の夏と今の夏を比べてみて、思い出すのは夏空が青く輝いていたことだ。透き通っていて、有名観光地の海を連想させるような青色だった。リゾートホテルが貸し切って宿泊客のみが利用できるようにした海の眺めにも等しい。それは穢れを知らない子供達の心をより合わせて、ひとつのアートにしたものとも言えた。

 あれほどの晴天を、そう何度もお目にかかることが出来るだろうか。

 もしも君にちょっとした風情を大切にしようという思いがあるのなら、ぜひとも夏の空の色を覚えておくと言い。ひょっとすると、失恋して泣いた雨空かもしれない。喧嘩ばかりで鬱屈とした、鉛色の曇り空かもしれない。だけど五年後――もしかすると十年後――に思い返せば、それはきっと君の思い出になって、誰にも犯されることのない君のよすがになる可能性がある。

 それは君が苦しくて立ち止まりたくなったとき、ひょっとすると君を助けてくれるかもしれないんだ。

 どうか、君の人生に光があらんことを。

 よし。

 それじゃ、僕の過去に話を移そう。

 高校一年生だった僕らは理系の生徒になるか、文系の生徒になるか、これからの人生を二分する選択を迫られることになった。すごく適当に選んでしまったけれど、実のところあそこで自分の適性を正確に把握できているか否かってところで、人生の満足度は三割ほど上下するみたいだね。

 そんな感じの話を、この前テレビとネットニュースの両方がやっていたよ。僕はあまり、信じるつもりはないけれど。

 あまり細やかな話は記憶と現実の齟齬を生むことになるから出来ないのだけれども、僕の通っていた高校では理系も文系も半々くらいで、どちらを選んだからと言って学校生活に影響の出ることは少なかったように思う。派閥争いみたいなものが存在していなかったからなんだけれど、そういう裏の事情も含めてみると文理選択というものは面白かったのかもしれないね。

 近所にあった有名進学校は文系が幅を利かせていて、その次に偏差値の高い高校は文系の生徒が体育祭や文化祭の八割を牛耳っていたと聞く。その辺りの事情を加味して考えると、やはり僕が通っていた高校は大人しい生徒が集まった優良高校だったのかもしれないなぁなどと思ってみたり。

 いや、ね。

 どちらを選んだとしても間違いだったのなら、過去に戻ったところで何も意味はないのだろう。だから、振り返ったときに面白かったなんて諦観して笑うことが出来るんだよ。

 僕も彼女も小説や音楽が他の誰よりも好きという自負があったから、僕ら二人のうちどちらか一人くらいは文系へ行っても良さそうなものだったのだけど二人して理系を選択していた。

 僕の場合は進路の希望もなく、潰しがききそうだから、という理由で理系を選択した。彼女の場合もほとんど同じようなものだろう。僕らは二人とも適当な人生設計しかしてこなかった。将来は適当な大学の適当な学部に入って、適当な金額を稼げる会社に就職しよう。そんなことを考えていたに違いない。

 いつも僕らは同じクラスになっていた。そして気が付くといつも二人が傍にいた。そんな当たり前を覆したいと痛烈に願っていたなら、確かにこの時、そのための行動を起こすことが出来たはずだった。それが出来なかった――しなかった――ことには、多分それなりの意味があるのだろう。

 運命というものは、安易な決断や適当な行動、その場の思い付きで覆ることなどないのだから。

 それでも、これは僕等が心の底から選んだ幸福かと聞かれたら、苦しくなって耳を塞いでしまうだろう。どちらも数学や理科が得意だったわけでもないし、国語と社会がどうしても苦手だったわけでもない。惰性と感覚で人生における重要な項目を洗濯してしまったと言われても仕方のない選び方をしたんだ。

 ん?

 つまり、何が言いたいかって。

 僕等が運命に導かれて一緒に過ごしていたのだとしても、決断しなければならない場面においては、常に相手がいるだろう方を向いていたんだ。それは無意識と呼べるほど些細なものかもしなかったけれど、自分たちの意志で隣に立つ人間を選んでいたような気がするんだ。

 なんだか不思議と、匂うものがあるんじゃないか?

 ちなみに、今更な話ではあるのだけれど、覚えておいてほしいことがある。

 勘違いしないでほしいのは、僕らが本当に何も出来ず何一つの取り柄もない人間ではなかったということだ。僕も彼女も何かしら好きなことを見つけて熱心に取り組めば、最低限努力した分だけの報いは受けられたのだと思う。学校でのテストの出来だって悪いわけではなかったし、運動だって出来た。僕は絵を描くのが好きだったし、彼女は物語を作るのが好きだったんだ。

 けれど僕らは努力をしなかった。心から信じるべき才能は欠片ほどもなく、血と汗を流すばかりの努力は無駄になると信じて疑っていなかった。なぜだと思う?

 それは、底辺にいるという「ごっこ遊び」がとてつもなく楽しかったからなんだ。必要以上に努力をせず、日々の暮らしの中で相手と自分の同じところを探す。それが美しい点であれ醜い点であれ、僕らは一向に構わなかったんだ。

 同じくらいの力を持った、同じくらいの立場の人間である。

 それが、僕らにとって何よりも大切なことだったのかもしれない。姉さんと一緒にいたときのように、一方がより大きな存在であることは僕にとってはただの負担でしかなかったんだ。

 僕には彼女以外で、本当に興味をそそられるものがなかったのかもしれない。本を読むという行為も、空き教室でイヤホンを左しか使わずに音楽を聴いていたのも、すべては彼女を観察するためだったのかもしれない。いつだって、僕は彼女から与えられるすべてのものを待ち望んでいたのかもしれない。彼女が、音楽を聴いている僕の右耳からイヤホンを引っこ抜いていたのも、昼休みになると必ず僕の元へ本を持って現れたのも、すべては僕の近くで、僕という生き物を観察するためだったのかもしれない。行為者が逆転することもあったけれど、それは今、些細な問題にしか成りえないんだ。

 僕らはそうして、お互いを見つめていた。観察していた。調べ上げていた。

 そこまでしてようやく、僕らは相手の隣に座ることが出来たんだ。驚くほど臆病だろう? でも、僕らはそうせざるを得なかったんだ。傷つくことを恐れた余り、人に近づくことすら怖くなった僕らにとっては。

 夏休みが終わると、文化祭があった。高校生活の華、体育祭があった。けれど僕らにとっては、特に面白みのない行事だったな。文化祭は二人で空き教室を探して――というか、探し回った結果同じ教室に来ることになってしまうだけなのだけれど――一日中本を読んでいるだけで終わってしまった。体育祭も適当にクラスの生徒と歩調を合わせていれば、慣れない日焼けによる頭痛を楽しむくらいで済むからね。もっとも、身体の調子を整えることが苦手だった彼女にとってみれば、体育祭は苦痛を伴うものだったのだろうけれど。

 ちなみに僕が体育祭に参加したのは高校一年のときだけだった。体育祭に参加しなくなった経緯を説明するためには、少し脇道にそれるようなことを喋らなければならないかもしれない。

 でも、出来ることなら聞いてくれないか。

 怖がり故に人を遠ざけていた彼女にとって特に苦手だったものの話だ。そしてこれは、もしかしたら僕らが距離を縮めてしまった、しかしそれ以外にどうしようもなかった出来事のひとつかもしれないから。

 僕らの高校には少し変わった男がいた。彼は僕らとは違う意味で、自分が一番だと思い込んでいたらしい。誤解を恐れず簡略に言い切ってしまえば、世の中の女性はすべて自分に惚れ込んでいるはずだという妄想を強く信じ込んでいる男だった。彼は常に誰を好きになっただとか、誰を振ったという話をするのが好きだった。勿論、彼に告白した女生徒はいない。万が一にでも彼に告白をした子がいるなら、そのことを一生の恥だと感じてしまう程度には、彼はなかなか変わった男だったように思う。

 勿論、僕の偏見だけど。

 誰も彼の聞いてくれなくなると、教室の隅で息を殺している僕の元へやってきてまで話をしたがったんだ。強烈な自意識を持っている生徒だったけど、僕も人のことは言えないね。

 節操なしの彼は彼女のようにプライドの高い女性が特にお気に入りだったらしい。救護テントの下で日差しを嫌いながら、無邪気に運動場を駆け回る生徒を睨み付ける彼女なんて、どうしようもないくらいの好みだったに違いない。物憂げな顔で校庭を見つめている彼女は陰鬱な美しさを持っていた。普通の男なら一目奪われることは確実だろうね。その後、一声かけたくなると言うのも、まぁ、分からないでもないんだけれど。

 でも彼は違った。彼は普通じゃなかった。救護テントの下にいる生徒は体調不良やケガを原因とした、休みを欲している生徒たちだ。その中に堂々と突撃していって、「やぁ君! 今暇だよね? ちょっと話さない?」なんてことを言える男は彼くらいのものだろう。僕は高校一年生の体育祭での出来事を、未だに忘れられない。出場すべき競技がすべて終わって、ちょっと様子でも見に行こうかな、へばっている彼女を見ておくのもいいだろう、なんて思っているときにそんな彼を見てしまったんだ。噴き出すのを堪えるのに必死だったよ。

 ここまで他人を気にしない奴がいるのかって、僕は自分のことを棚に上げて、嫌悪感で鳥肌が立ったからね。言っておくけど、噴き出しそうになったのは胃液だ。当然だよ。

「俺はお前と喋りたいんだ」という雰囲気を持って彼女に喋りかければ、彼女だって多少は受け答えをしてくれる。酷くそっけないけれど、首を振る程度のことはしてくれるんだよ? 

 だけど彼の態度は、考えうる限り最低なものだった。

「お前が俺に惚れ込んでいるから、仕方なくお前と喋ってやっているんだぜ」という、彼女の中では恐らく最悪と呼ぶに差し支えないほど嫌いな態度を取っていたのだった。元から生理的な嫌悪を向けていた奴が相手だったから、体調不良というのも相まっていつ吐いてもおかしくないくらいには彼女も鳥肌を立てて内臓を痛めていたに違いない。僕が彼女の立場だったら、あまりの気持ち悪さに泣いていたかもしれないな。だって僕も彼のことが嫌いだったし。

 僕と彼女の人間に対する感性はとてもよく似たところがあったから、彼女だって、絶対にあいつのことが嫌いだったに違いないんだ。

 見知らぬ男、それも自身が最も苦手とするジャンルの男が隣に座ったことで、彼女はパニックに陥ったんだろうね。あんな彼女を見たのは初めてだった。調子の悪そうだった彼女が飛び跳ねるようにして話しかけてきた男から距離をとる。僕も似たようなことをやりそうだなと思って、僕は二人のやり取りを見ていた。

 彼女はとにかく彼に離れてもらいたいと、出来ることなら呼吸すらも止めてもらいたいと思っているのが、傍から見ていて丸わかりだった。僕ほど彼女に精通していなくても、彼女が彼のことを嫌っているのは明確に分かっただろうな。少なくとも、遠巻きにそれを眺めていた人には。

 彼の方はとにかく、彼女に近づきたい。というよりは、自分が彼女に何をしても許されるという間違いだらけの妄想を抱いていたから、彼には自分を妨げるものなんてないように思っていたんだろう。彼女に伸ばした手が叩き落とされたのを見て、目を見開いていたからね。当然のことだろ、と僕は内心思っていた。

 数回、彼女の手が蝿叩きのように動いて、彼の腕を払った。よく見るとその手には図書館で借りた本が握られていて、彼女らしいなと思ってしまったよ。体調不良を理由に、自分の自由時間を増やそうだなんて。

 見習いたいな、と素直に感心してしまった。

 何度か似たような動作を繰り返した後、彼女はへたり込んでしまった。

 彼女がへたってしまったのは太陽の下で動いたことだけが原因じゃない。嫌いな奴が近くにいると言うだけで体調を悪くし、眩暈を起こしてしまったんだ。彼女は繊細だったということだろう。

 僕は、そんな彼女を見ていた。彼女の弱点は僕と同じだったんだと知って、妙な気分に襲われていた。

 長椅子に座って、死にかけの仔犬のように唸る彼女。中学生の頃から何度かそんな彼女を見てきたから、僕の身体は自然に動いていた。ここで助けなければ彼女も僕を助けてくれなくなる。そう思ったんだろうね。

 お待たせ、とどこか間延びした声をあげながら彼女と男の間に割って入り、僕は彼女の肩を抱いた。偶然通りかかった同じクラスのお調子者が口笛を吹いて、救護テントの近くにいた生徒会の女子が僕らを囃し立てたりもした。僕らの距離が非常に近いことは(それは嘘でもあったけれど)、ほとんどの生徒が知るところでもあったんだろう。それを知っていて彼女に近づいたのだろうから、彼もなかなかの度胸を持っている。

 僕の行為は、周囲の生徒にとって至極当然の「助け舟」として映ったに違いない。

 彼女の肩を抱いたまま、彼を見上げた。

 でも、彼には何も言わなかった。

 吐き気を催すほど気持ち悪い奴にかける言葉なんてないからね。

 僕は彼女にこう言ったよ。

「待たせてゴメン。無理せず、今日は帰ったらどうだい」

 本当なら、少しでも体調がよくなったかどうか、そういうことを聞くのが無難なんだろう。だけど、彼女が男から離れたがっていると言うのも明白な事実としてあったから、僕は彼女に帰宅を勧めることにした。それで彼女が頷けば、僕は彼女を更衣室まで送っていくつもりだった。つまり、どさくさに紛れて僕自身も学校行事をサボろう、とか思ったんだろうね。我ながら策士だ。

 だけど、彼女はなんていったと思う?

「ふざけないで。貴方、遅すぎるのよ」

 彼女は確かに、そう言ったんだよ。

 それから平手打ちと握りこぶし、ついでとばかりに日頃の鬱憤が言葉になって雨あられと降って来て、僕は思わず笑ってしまった。それだけの元気があるなら大丈夫じゃないか。僕が助けに来るまでもなかったんじゃないかと、僕は、とても和やかな笑みを浮かべてしまった。もしかしたら、僕がそうやってとぼけた笑みを浮かべたりしていたから、僕らが付き合っているだとか、愛し合っているだとか、そういう類の噂が流されていたのかもしれない。

 それにしても、彼女の平手打ちは痛かったな。不意打ちだったこともあるけれど、あれは気心の知れた相手にしか許されないような超絶の威力を秘めていた。痴漢撃退用なんじゃないかと思うくらいすごかったな。直前まで他人への嫌悪感で足を震わせていた、気弱な女の子だとは思えない一撃だった。

 でも、だからこそ、というのもある。僕が隣に来ただけで精神的に回復した彼女を見て、当時の僕は気付くべきだったのかもしれない。彼女が僕に対して抱く気持ちは、少しずつ変わっていたはずなんだ。いつ変わり始めたのか、それは振り返ってみても分からない。

 だけど、今更後悔しても、何もかもが遅いんだよね。

 ちなみに、僕らが痴話喧嘩のようで違うものを披露している間に、僕と彼女が大嫌いな男は姿を消していた。流石に暴力的な女性は苦手だったのかもしれない、なんてことを当時の僕は考えていた。目の前にいる彼女に応対するだけで手いっぱいだったから、ものの数分も経たないうちに僕は彼のことを忘れてしまった気がする。こうして思い出せるのも、もしかしたら奇跡の一種なのかもしれないよね。

 ……そして、僕が彼のことを嫌っていた理由も、第三者視点で見ればよく分かる。彼女に近づこうとした彼の姿を、姉さんに溺れていた頃の僕と照らし合わせていたんだ。姉さんは誰からも愛されていたし、高校生になった彼女は誤解のおかげで人からあまり嫌われなくなった。例外的な存在をあげるとしても、彼女が振った野球部員くらいのものだろう。むしろ、彼女も愛される人になりつつあったんだ。そうして輝く女性たちに、下心を持って近づく男が許せなかった。過去の自分を思い出して、心臓を掻き毟りたくなるほどの焦燥と嫌悪に襲われた。

 だから僕は、彼が嫌いだった。鏡に映った自分を恨むように、彼を憎んでいたんだ。

 はい、暗い話は終わり!

 いや、終わらないけどさ。

 空気を悪くしない為にも、僕が嫌いだった男の話題はここまでにしておこう。次に話すべきは、彼女の心境の変化かな。

 高校生だった僕にとっても衝撃的だったそれは、今になって振り返れば、もっと強烈な思い出となって甦る。次に君に教えるのは、他人を嫌い、僕を見下していたはずの彼女が僕という人間に少しずつ心を開き始めていく物語だ。

 この物語は一時間あっても序章くらいしか話せないだろう。というより、僕はここを喋りたいがために君にこんな話をしているんだから。あ、ごめん、嘘を吐いた。僕はその程度で満足したりはしない。そこだけを、伝えたいわけじゃない。

 彼女と僕の物語を君にすべて伝えたい。

 僕が小説として世の中に彼女の記憶を残しているのも、すべてはその為なんだよ?

 君には僕らが過ごした青春と、僕の隣いた一人の女性のことを知ってもらいたいんだ。

 さぁ、僕らの話をしよう。

 まだまだ、僕は話し足りないんだ。

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