第8話 微かに香る
あぁ、大丈夫だとも。
二日酔いの影響を受けることは多々あるけれど、それを翌々日に持ち越すほど、僕は考えなしの人間じゃないからね。屈辱的なまでの喪失感や悲壮感に襲われた結果として身体中を掻き毟って怪我をしたこともあるけれど、それは自分が嫌いだったからじゃない、と思う。
僕は他人を呪うことに酷く執着していて、結果として自虐家風の行動をとっているに過ぎないそうだ。昔、通っていた精神科の先生にそういうことを言われたよ。
閑話休題。
そんなことより、もっと楽しい話をしよう。
例えば、そうだな。
僕等は今日、まだまだ互いのことをよく知らないと言うのに――君は僕のことを女性関係で失敗した青年くらいに理解してくれたと思うけれど、僕は君のことをまったく知らないし――ご飯を食べに来たよね。実を言うと、僕には友達と呼べるような相手がほとんどいなかったから、こうして誰かと一緒にご飯を食べに来ること自体がかなり珍しくて緊張することなんだ。
僕がオムライスを食べている時、君は手の震えを指摘してきた。これは、そういう意味でもあるんだ。他人といるときに粗相をしてしまわないか、別段悪いことを企んでいるわけでもないのに、自分の思っていることが相対する人間に伝わってしまっているんじゃないか。そういうことを考えるから、かもしれないな。
あれ、楽しい話じゃなかったって?
これは失礼。僕は、誰かと楽しさを共有した経験が少ないもので。
改めまして、こんにちは。僕がここまで丁寧に話をしている理由というものはだね、ほら、一週間ぶりに友達と会うとわけもなく緊張することがあるだろう。それに似た感情、と言うことにしておいてほしい。こうして会話を楽しむのが食事の後の、心と身体が温まって来てからというのでも分かるだろう?
僕はね、本当に心が弱い人間なんだよ。
この前は話を聞いてくれてありがとう。正直な話、君から再び会いに来てくれるだなんて、僕には思いもよらなかった。人付き合いが苦手な僕には、自分の態度や話方に落ち度があったのではないか、もっと良い喋り方や関わり方があったのではないかと繰り返す癖があってね。そのせいか僕は、自分の古傷を何十回となぞることになってしまうんだけれど。
これは君のせいじゃない。
だけど、どうか、愚痴くらいは聞いて貰いたいんだよ。僕の弱い心が生み出してしまったものとして、君が僕のことを嘲笑ってくれればいい。そうすれば僕は再び傷ついて、それを作品という形にすることが出来るのだから。
僕は、自分が傷つくことは嫌いだけど。
小説に書いた彼女が更に輝くのなら、この魂すらも捧げよう。
この世から存在が消えてもいい。僕のことを覚えていてくれる人間が、一人残らずいなくなってしまってもいい。コンビニで釣銭を受け立っただとか、街ですれ違っただとか、袖振り合うも他生の縁とはいうけれど、それらの
僕は彼女に、この人生のすべてを捧げると決めたんだから。
ふぅ。
君に僕らの過去を吐露したせいか、最近は変な夢ばかりを見た。
彼女に捨てられるという悪夢を二度も見ることが出来たし、彼女が僕以外の男と歩いている場面を二度も妄想することが出来た。彼氏なんてものを作るはずがない彼女が見知らぬ誰かと手をつないでいる悪夢も見たし、あまつさえ彼女がベッドの上で――。
あぁ、これ以上はよろしくない。
もうね、散々だった。あまりのことに嘔吐が止まらなかったよ。お手洗いが吐瀉物によって詰まることなんてそうそうないことだろうし、湧き上がる感情を堪えきれずに書いた小説が三十ページも進んじゃったからね。小説を書かない君には分かりにくいことかもしれないけれど、それは新人賞応募用の原稿に直すと四文の一にもあたる膨大な量だ。一日でちょっとした短編を書いてしまった作家の精神というものは、大抵の場合ズタボロになっているものだよ。速筆の作家は十日もあればひとつの作品を完成させてしまうと言うけれど、それは、並大抵の業じゃないからねぇ。
まぁ、酒に溺れたというのも一因ではあるのだけれど。
君、酒は好きか? 僕が言うのもなんだけど、大人になったからと言って酒に溺れる癖をつけちゃいけないぞ。これくらいなら適量と分かっている酒を飲み終えた後、ふと寂しさが胸を通り過ぎる瞬間って奴があるんだ。そんなとき、「そういえば冷蔵庫にも酒が残っていたな」とか「まだまだ飲めそうだし、明日の講義は出席をとる必要がないからちょっと羽目を外してみようか」とか。そんなことを考える大人には絶対なっちゃいけないぞ。あと、そういう大学生は大抵の場合、他の学生と比べても非常に高い比率で単位を落とすことになる。社会の
む、その顔はよく分かっていない顔だな。
この前の飲みで薄々感じたんだけど、君って相当酒に強いタイプだろ? ほら、親父殿とか母親とか、その辺りで酒に強い人はいないかい。君自身は高校生だから飲んだことはないと思うけれど、後学の為にも、無駄な話だと思わずに聞いてくれないかな?
例えば、君にも好きな人が出来たとしよう。
それなりに親しい仲になったけれど、君はどうしてもあと一歩が踏み出せなくて困っている。踏み込み過ぎて嫌われてしまったらどうしよう。趣味が合わなくて喧嘩ばかりすることになったらどうしよう? そうして迷っているうちに、大好きだった子を見ず知らずの誰かに取られてしまった。全て自分が悪いのだけど、どうしてもそれを認めたくない。
そんなときだってバカになれるのが、酒というものの怖さだ。頼もしいと言う人もいるけれど、僕は怖いものだと思っている。そうでなければ、僕は酒を飲んだりしないよ。恐ろしいものだからこそ、縋ったときの安心感は他に類を見ないほどのものなんだ。
酒を飲むことで、一時的に過去を忘れられるかもしれない。今現在抱えている悩みや、未来に対する不安を消し去ることが出来るかもしれない。だけどそれは、君自身の力じゃない。あくまでも、酒で何かを誤魔化しているだけなんだ。
まぁ、これは全部、彼女からの受け売りなんだけどね。彼女というのは、そう、昔の僕と、とても仲が良かった女の子のことだ。今日はこれから、その子の話をしようと思う。勿論、前回尻切れトンボで終わったところの、続きから話すつもりだ。あのままだと、僕は君に恨まれても文句が言えないからね。
それにしても、ふぅ。
ほんの少しでいいから、僕を休ませてくれ。
お、いいのかい? ありがとう。
はー、ホントの話なんだけどさ。
何を食べたいか聞いたときに、君がオムライスを選んでくれてよかったよ。
この精神と胃袋の状態で油のキツい物を食べに行こうなんて言われた日には、胃薬がどれだけあっても足りないからね。さて、どんな話題で僕の身体を休めようか。食後の珈琲を飲みながら出来る話って、何があるのかな。恋の話でも、しようか。
それよりも、オムライスの感想を聞くほうが先かな?
どうだった? この店は駅から少し距離があって、どうにも歩かなくちゃいけなかったけれど、その労力に見合う美味しさはあっただろう? この店のオムライスは、金剛力士の頬も緩むくらい素晴らしい出来だからね。
でも、不思議に思わないかい。大型ショッピングモールにある店よりも、町はずれにある喫茶店の方が美味しいだなんて。……実はね、近くの街が喫茶店利用額で全国一位になったこともあるらしくて、このあたりには質のいい喫茶店が多いんだよ。この街で他に自慢できるものと言えば、綺麗な水と俳聖くらいかな。
うっぷ。失礼、食べ過ぎたみたいだ。
この店も建てられた当初は純粋に喫茶店を経営していたのだけど、数年前からオムライスも提供するようになったんだ。その方が売り上げもよかったらしくてね。オムライスが専門店のものに負けず劣らず美味しいというのもさることながら、コーヒーの回数券を買うとオムライスの割引券というお得さが大人気というお店なんだ。すごいだろう?
ここのマスターは、料理の腕も確かだからね。近くにある役所や、近所にある他の料理屋の店員さんも食べに来るくらいだし、お昼になると人が一杯になるんだ。卵本来の甘さを活かしつつ、トマトの酸味と鶏肉の旨みを最大限に引き出す、この店でしか食べられないオムライス。僕はね、この店のマスターにしか作ることの出来ない逸品だと思っているんだ。
ついでに言うと、ここのオムライスが世界で一番おいしいと思う。今度、このお店を題材にした小説を書いて、と。ダメだね、思わず熱中してしまうところだった。折角、君が話を聞いてくれているんだ。これ以上無駄話をして体力を消費してしまっては流石の君でも許してくれないだろう。それに、僕だって彼女のことを話したくてたまらないんだ。
さくっと本題に移ろうか。
僕は、どこまで話をしたのかな。高校時代の途中で止まっている。それで間違いないよね?
なら、彼女が僕に投げかけた、首を傾げたくなるような言葉から話を再開しよう。
「貴方は、好きな人がいるの?」
そんなセリフと共に、彼女は僕に突き刺さるような視線を向けた。その眼差しは真剣で、決してはぐらかして逃げてしまってもいいようなものではなかったんだ。
これは胸糞の悪い話。決して、甘い恋物語なんかじゃない。
それじゃ、話の続きをしよう。
彼女に不思議な言葉を投げかけられても、当時の僕はただ動揺しただけだった。思春期の少年にありがちな、興奮や思い上がりなんてものをする余裕さえ昔の僕は持っていなかったんだ。
どうしてこの子はそんなことを言うのかな、なんてことを頭の中で繰り返すばかりで、その言葉が意味するものを考えてみようとは一度だって思わなかったんだね。だって、あまりにも唐突だったから。彼女は、僕以上に誰とも喋らなかった。僕の周りに展開されていた心の壁はまだ食い破ることの出来る強度だったけれど、彼女が纏う雰囲気は闇に似ていた。底の深さも分からなくて、みな距離を置くばかりだったんだ。
それに、――今から僕は恥ずかしいことを言うよ。
当時の僕は彼女のことを一番よく理解しているつもりで、実は彼女のことを全く分かっていなかったんだ。彼女に関わろうとしなかった誰かよりは、彼女のことを分かっていたに違いない。だけど、彼女本人に比べたら、僕はあまりにも無知だったんだ。
最初は、彼女が僕のことを更に惨めな人間だと認識したがっているのだと思ったよ。人を好きになることすら出来ない、人形のような人間なのですか、って。
あ、苦笑しただろう。でもね、僕はふざけてなんかいないんだよ。当時の僕が頭を捻りに捻って大真面目に考えた結果、そういうことを思うようになったんだから。これは、本当の話なんだからね?
それで、僕は彼女に言ったんだ。
「そういう君には、好きな人がいるのかい。僕の秘密を知りたいなら、君の秘密も明かして欲しいものだね」
……まぁ、うん。
恥ずかしい限りだ。もっとうまく、彼女から話を引き出すことも出来ただろうに。
僕の質問を聞いた彼女は一歩退いて、すぐに二歩詰め寄って来た。当時から僕は猫背だったけれど、そのときは驚いて、背筋をぐっと伸ばしたのを覚えている。彼女の背が、僕の鼻の高さまでしかなかったのが意外だったな。
見下ろした彼女は、口端を僅かに引き攣らせていた。普段から喋らない子だったから、声を出すのに苦労していたのかもしれない。彼女から僕を見ても、似たようなものだったんだろうね。目を逸らしながら、言葉一つ一つを相手に投げつけるようにつぶやく。しかも、聞き取りにくい早口で喋るんだ。腹が立つことこの上ないよね。もしかしたら君も、今の僕に似たような感想を抱いているかもしれない。
だけど、昔の僕はもっと酷かった。今よりもっと、人が苦手だったんだ。
梅雨の時期に伸び始めた彼女の髪は、まだ、彼女の目を隠すほど長くはなかった。強い想いを湛えた瞳が、僕の心に、まっすぐな光を届けに来る。胸に、針で刺されたような痛みを感じたよ。
僕はこの子に、勝てないのかもしれない。もしかしたら僕は、この子よりも下劣で卑怯で虚弱な人間なんじゃないかって、心臓が縮み上がる思いがしたよ。
彼女は、高校生の女の子としてはやや低い声で、唸るように喋った。
「私は、誰も好きになんてならない。なってやるもんか」
それは彼女自身の言葉というより、僕に向けられた言葉のような気がした。
その、思春期という言葉に真っ向から喧嘩を売りつつも、実は隣に寄り添って仲良く歩いているような、不思議なニュアンスの言葉が琴線に触れたのかもしれない。苦し紛れに発したようなその言葉を、僕はちょっと気に入ってしまった。
それが、とても悔しかったんだろうね。僕は迷わなかったよ。間髪を入れず、それこそ、まだ何か言いたげだった彼女の言葉を遮るようにして言ったんだ。彼女の手をとって、逃げられないようにして。
「僕も、人間は好きじゃない。特に、陰鬱で陰湿で、陰険な奴は」
まるで自分のことを言っているようだ、と思った。でも、そのくらいの言葉しか僕は浮かばなかったんだ。彼女よりもうまく言葉を繰る自信というものがあったのに、実力は追いついていなかったみたいだ。小説を書く人間としても失格だ。案の定、彼女は僕の手を振り払って睨みつけてきた。僕に握られていた手首を擦って、何かを確かめるようにしながら部屋から出ていった。
結局、彼女が僕に尋ねたことの意味は分からずじまいだったな。
あ、今なら分かるよ。分かるけれど、それはまた後で話そう。
嫌でも知ることになるんだから。
それきり僕らが話をするような機会は訪れることがなくて、僕らの関係には何も変化のないまま夏休みが終わってしまった。僕自身にはそれとなく小さな変化があったりもしたのだけれど、これは彼女とは一切関わりのないことだから触れないでおこうか。君も、僕自身には興味がないだろうし。
……その、「隠し事を見抜いてやる」という目がすごく怖いからやめてくれ。
分かったよ、全部話すから。隠したりなんかしないから。
僕はね、小説を書くコツみたいなものを手に入れたんだ。それまではいかにもアマチュアの同人作家が書いたような拙い文章だったのが、文芸をかじったことのある人間独特の小難しい表現を使うようになった。たったそれだけの話だ。ね? 聞いて損をしただろう? さぁ、僕の話を聞いてくれ。僕の自尊心や傲慢がこれまで以上に透けて見えるかもしれない。ゴミ溜めに吐き捨てたはずの弱い心を、再び拾い集めてきた話になるかもしれない。そういう時は、何も言わずに帰ってくれてもいいからね。
これはあくまで、僕らのお話だ。
君が傷ついたとしても、僕は助けてあげられないんだから。
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