第7話 幕間。

 卵を六個使った巨大オムライスで窒息死する夢を見た。

 胸やけが、かつてないほど僕を苦しめている。昨日の夜、調子に乗って酒を飲み過ぎたことが原因だろう。飲酒が可能な年齢になってから二月程度しか経っていないのに無理をするから、こういうことになるんだ。

 これ以上下手なことをして身体に害を与えるわけにもいかないので、これからしばらくの間は自制することにしよう。そもそも、酒は頭を濁らせる。そのおかげで助かっている部分がないとも言えないのだけれど、思考能力のすべてを放棄するには早い。僕には、まだやるべきことがあるのだ。

 死ぬまでにやりたいことが、途方もないほど沢山、残っているんだ。

 起き上がろうとすると世界が左右に振れた。喉の渇きがより一層激しくなり、吐瀉物が食道を駆け上がってくる。歴戦のクライマーみたいなそいつらを無理矢理押し戻しながら、僕は浅く息を吸った。

 気分が悪い時は、自分を振り返ってみるのが一番だ。

 何も考えず、ありのままの自分を見つめることが出来るから。

 自分で自分に語り掛ける用意を整える。小説家になるため、必須と言ってもいいスキルだ。そうでなければ物語の登場人物たちが会話を出来るはずがない。独りぼっちだった僕は、未だにそう思っている。

 端的に、自分のことから説明しておこう。

 僕は現在、プータローをしている。バイトをしていない大学生のことを、僕が勝手にそう名付けた。ちなみに、もう少し格好いい言い方をすると風太郎になる。音としてはほとんど変わっていないから、人に話しても受けるネタだとは思えない。通じた相手は彼女たった一人だし、そもそも話を聞いてくれる相手なんてものを持っていなかった僕には、このネタを披露する相手が彼女しかいなかった。

 いや、今は彼女のことを思い出さなくてもいいんだ。どうも昨日喋りすぎたせいなのか、頭の中が彼女一色に染まってしまっているらしい。もう少し柔軟な発想と強靭な精神力で、彼女以外のことも考えられるようにならないといけないな。

 よし、大丈夫だ。

 僕は今年の六月に、二十歳の誕生日を迎えた。もう働いていてもおかしくない年齢にはなっているのだろうけど、僕はまだ大学生二年生をやっていた。就職するビジョンすら見えていない。ついでに言葉を紡ぐなら、僕はまともな社会貢献活動に参加してもいないんだ。

 高校卒業と同時に働きだした同級生がいることも知っているし、中学校から巣立った直後にとび職になった先輩がいることも知っているのだけど、僕にはどうも馴染まいものばかりだった。社会から遠いところで幼少期少年期青年期を過ごしてきたわけだから、それも当然と言える。社会復帰のチャンスはそこら中に転がっているのだけれど、僕はあまりにもバカだから、それに手を伸ばそうともしていない。

 大学に入った直後だったかな、実は飲食店でのバイトに手を出してみたこともあるのだけれど、人と触れ合う仕事が極端に肌に合わないことが発覚してしまった。お客さんとの会話は普通に出来るし、接客態度もそれなりに真面目だったのだけど、店長や地域エリアマネージャーと性格が合わないことが多かったな。詳しいことを想いだそうとすると、未だに腸が煮えるような痛みを覚えるんだけどね。

 僕の心は、虚弱すぎるんだ。

 閑話休題。

 生きてさえいれば、どんな弱虫でも大人という肩書を得ることが出来る。

 雨降る季節に誕生日を迎えた僕は、人前でアルコールとニコチンを摂取してもお咎めのない身体になった。適齢期の女性と関係を持ったとしても、全く問題のない人間となった。たいした事故も起こしていないし、心身の不自由になる病にかかったこともない。他人を疎んで生きてきた癖に、五体満足だ。

 それでも、僕の心にはくすんだ灰色の雲がかかっている。

 作家という不安定な職業を目指してはいるけれど、大学では情報通信の勉強をしている。両親を納得させるための建前だ。騙しているようで申し訳ない気持ちにもなるけれど、将来について真剣に語り合ったことがないのだから、これは無理のない範囲で吐かれた仕方のない嘘に分類されるはずだ。放任主義と紙一重な態度を取られることもあるけれど、距離が近すぎて傷つけあうよりはマシだと思って生きている。

 僕の生活には、不自由なところが一つもないのだった。

 昼ご飯を食べなければ、大好きな作家の小説を読み漁ることも出来るし、好きな音楽家のアルバムを買い集めることもできる。晩御飯も我慢すると、一日で結構な額が浮く。その気になれば、遠く県外にある美術館に足を運ぶことだって出来るんだ。

 過去に失ったものも、昔から好きだったものも、僕の周りにあり続ける。

 自立した、幸せな存在。それが、今の僕なんだ。

 けれど、僕は嘘を吐いている。どうしても手に入れることの出来なかったものが、この世にはたった一つだけ存在している。新人賞は取れていないし、文壇の上に立てるほど輝かしい成績も残していない。でも、そんなものはどうでもいいと思えるほどに、強い光を持ったものを僕は過去においてきた。

 それさえ手に入っていたなら、僕は。

 握った拳を無造作に振り下ろす。僕の拳は、畳の上に転がっていた空き缶を叩き潰した。

 昨日は、随分と飲んでいたようだ。周囲を見渡すと、他にも数本の空き缶が転がっていた。

 彼女は酒を嫌っていた。今の僕を彼女が見たなら、一体どんな反応が返ってくるのだろうか。予想は容易で、そして、現実として僕の記憶に焼き付いていた。

 僅かに赤くなった拳を見つめて、僕はようやく、体を起こす。

 僕の部屋には、鮮やかさが欠けていた。

 緑色の壁紙に包まれた部屋は、いかなる時でも陰鬱さを失わない。カーテンを開けることがなければ、僕の部屋は昼間でも暗い。電灯をつけなければ、足元もおぼつかないほどだ。夜ともなれば、差し込む月の光が僕の魂に安寧と秩序をもたらす。

 ここは堅牢な牢獄でありながら、僕をもっとも癒してくれる場所なのだ。

 彼女を失った僕にとって、ここが最後の城になる。

 彼女を失わなければ、結果は僅かに変わっていたことだろう。

 だけどそれも、なんて考えること自体がバカげている。

 すべては、過去のお話だ。

 重い身体を引きずるようにして僕は台所へと向かった。昔から一軒家に住んでいたから、未だにアパート独特の距離感の近さに馴染めない。部屋を出てすぐの所に洗濯機や冷蔵庫、更には台所なんていうものまで完備されているせいで、僕は堕落してしまった。といっても最低限の家事は自分でこなさなくてはいけないので、昔と比べればしっかりした人間になっているような気もするけれど。

 溜息と共に、愚痴を垂れ流す。

 僕の心は、成熟していない。未熟だったから、彼女を傷つけてしまった。

 年齢を重ねただけでは、無駄だということだろうね。

 蛇口をひねると、冷たい水が溢れ出てくる。昔は、この程度のことも嫌いだった。もしも蛇口が壊れたら、永遠に流れる水が僕を飲み込んでしまうのではないか。あまりに勢いよく水を出したせいで、腕が千切れて下水へ流れてしまうのではないか。

 僕は、荒唐無稽な物語ばかりを妄想する子供だったんだ。

 八割ほど溜まったところで水を止め、コップの中身を飲み乾した。

 水が喉を通りすぎ、徐々に下腹へと走っていく。その度、僕の頭の中が綺麗になっていくのが分かる。結局僕は、同じ行動を三度繰り返した。

 空のコップを手にしたまま、僕は部屋へと向かう。

 調度品の多くは量販店で買ってきたものだ。そのほとんどが深い茶色か、麦色の質素なつくりをしている。自己主張の少ない、世界に溶けるような色をしていた。

 僕という人間が没個性であったと、一目で見て分かるようになっている。だが、それも今だけだ。小説を読むことに熱中し始めると、あっという間に僕の部屋は小説だらけになる。本は大切に扱っているのだけれど、何度だって読み返したくなる書籍を本棚に戻す行為は酷く無駄なことのように思えて、枕元に置いてしまうんだよな。

 そして寝返りを打つと同時に倒れてくる本の山と格闘するようになってから、僕は部屋の片づけを始めるというわけだ。うーむ、小学生時代から変わらないこの生活習慣、なんとかして直せないものだろうか?

 まぁ、そこまで真剣に悩むことではないような気もするけれど。

 地味なものばかりが並び、趣味も小説や音楽というやや暗いものとして分類されてしまうものばかりで、僕の部屋には面白みが欠けている。唯一異彩を放っているのは、傷口を流れ出すした直後に見る鮮血のような、赤いノートパソコンくらいだろうか。

 高校入学と同時に購入した、それなりに思い入れのある逸品だ。購入してから数年が経過してしまった今でもそれなりの性能を維持していて、僕の日々の活動をサポートし続けてくれている。

 部屋の隅には小学生の頃に使っていた、黒色のノートパソコンが置いてあった。僕が生まれて初めて小説を書いたのは、その黒いノートパソコンだった。

 今でも僕の存在証明みたいなものとして残し続けている。小説を書く程度なら十分すぎるほどの性能を持っているし、何より見た目が格好いい。物言わぬ寡黙な男性を彷彿とさせるフォルムに、僕は憧憬のようなものを抱いていた。

 広くはない部屋の中央に陣取って、これからのことを考える。

 当面は、僕に話を聞きに来た奴のことを考えるべきだろう。

 これはきっと、ほとんどの人が嘘だと思うことだろう。僕の知人にもメールで話してみたけれど、髪の毛一本ほども信じていないというのがありありと感じられた。どうして僕は信用がないのだろう。あぁ、普段の言動のせいか。

 でもなぁ。

 これこそ、誰かに語って聞かせたい。この間、大学生活で出来た友人と連れ立って、人生初となる合コンに飛び出した。そして、そこの店で何人かの女子に囲まれたりもしたんだ。僕みたいな奴が女性と喋れたのだから、酒の力ってものは偉大かもね。それは別にいいんだけど。

 僕に話をせがんできたのは、麗若き女子高生だった。

 うむ、何度回想してみても、そこには違和感しか見つからない。ジョシコーセーだってさ、ジョシコーセー。僕が人生の中で、もう二度と関わることがないだろうと思っていた部類の人間だ。しかも、紛い物じゃない。現役だぞ、すごいだろ? 僕より三つも年下の、高校二年の女子生徒だぞ?

 僕が友人と飲みに行ったのは居酒屋兼ファミレスみたいな店だから、確かに未成年がいてもおかしくはないのだけど。……なんだか、怖くなってきたな。コンパに参加する女子高生って、おい。

 頭を整理し、場合によっては昨日までの出来事を小説の題材にするために、僕はノートパソコンを起動した。型の古いワードソフトが画面を白く染め上げるのを待ってから、僕は回想を開始する。

 少女に話した内容を思い返して、苦笑する。僕は真性のバカだった。

 初対面の女性に向かって、好きだった人の話をする男がどこにいる? 姉さんも彼女も、他に類を見ないほど素晴らしい女性だった。だから、ふたりのことを自慢したいのは分からないでもない。でも、わざわざ初対面の、それも思春期真っ只中にいるような女子高生に話すべきことか?

 小説バカというか、物語バカだ。

 でも、それがいい方向に働いたらしい。働いてしまった、と言ってもいい。

 僕とその子はアドレスを交換し、別れてすぐにメールが届いた。

 受け手の僕が人間なら、送り主だって人間だ。感情を持って行動をしているのだから、好意を伝える言葉が含まれていることだって、よくあることに違いない。極限まで感動しているときは変な言葉遣いになってもおかしくはないし、惚れ込んだ挙句に突拍子もない行動をとったとしても、それは不思議なことじゃないのだから。

 ただ、僕はあの子のことを好きになれそうもない。大前提として、僕にはもう好きな人がいる。彼女のことを考えられなくなるほど誰かを好きになることは、例え地球が逆回転したところでありえないだろう。次に、あの子があまりにも僕に近すぎたことが挙げられる。近いと言うのはつまり、僕の話に共感し過ぎていたということだ。

 僕は、その子が本当に高校生なのかという点を疑った。だって、ねぇ?

 世間一般の男性というものは、女性構成という存在に対して一定以上の憧れや敬意をもって相対するらしい。女子中学生に優しさを向けたり、年上の女性に向かって憧憬を表現しようとするのと同じようなことだね。

 そんな心理的な弱点を攻撃するために、あえて女子高生を名乗っているのではないか、と僕は思ってしまったわけだよ。制服なんて、このご時世では誰だって購入することが出来る。それこそ、僕にだって。

 大体僕は、女子高生にあまりいい思い出がない。高校一年生の頭に、変な奴らに絡まれてしまったせいだろう。いつも僕の近くにいた彼女は、女子高生というにはあまりにも落ち着きすぎていた。刺々のナルシズムをとぼけたふりしてやり過ごすほかに、華やいだ雰囲気から痛みを受けずに済む方法はなかったんだ。

 本当に女子高生? あの、五月蠅いことと、自分より年上の人間と比べて若いという至極当たり前のことだけを取り柄であるかのように騒ぎまわっている女子高生? なんでそんな奴が僕の話を聞いているんだ? 頭の打ちどころが悪かったのかしら?

 もう、言いたい放題なことが頭の中を巡っていたね。あの言葉をすべて文字や音で表現したなら、僕は名誉棄損の適用により逮捕されてしまうのではないかと思うくらい、酷い言葉ばかりが並んでいた。

 アホだね。

 バカみたいだ。

 僕は、人を疑いすぎる。

 でも、予想外に長かった対話の中で、僕の胸の中には新しい感情が芽生えることになった。不思議なものだろう? 最終的には女子高生とメアドを交換したわけだし、その結果として、人付き合いの苦手なこの僕が、自分からメールを送信するまでになったんだ。酒に溺れていたとしても、すごい進歩だ。

 履歴を見た限りでは、昨日の夜中までやりとりは続いている。合コンが終わった後も、文面によるやり取りだけは続いていたのか。……僕の方が眠くなって、先に落ちてしまったらしい。

 そしてもうひとり、見覚えのある相手からメールが来ていた。

 酒を飲んで頭を重くした後、僕はもう一度、赤いノートパソコンと向かい合ったんだろう。そして何をとち狂ったのか、昔の知り合いに連絡を取ってみることにしたうようだった。

 僕が所属する大学では、個人にメールアドレスが割り振られている。これは管理が非常に難しいもので、下手なことをすれば大学生活を終了して都会から逃げ出さなければならないこともある。就職活動で使うことも多いから、普通はこのアドレスを使ってはいけないんだ。

 それは学生というものを秘密のヴェールで覆い隠すためでもあり、大学がもつ魅力を高める為でもある。この学生は勤勉だと思わせるための武器にもなるし、個々に連絡が付くのだから、文句ならいつだって受け付けているぞという盾にもなる。言い換えれば、すぐに足が付くってことだ。

 正常な判断が出来る学生なら、大学のアドレスを使って昔の知り合いに連絡をとろうとは思わない。だけど僕はこらえきれずにメールをしてしまった。でも、理由は簡単だ。メールの相手が面白かったから。高校時代の僕が『彼女』以外に唯一まともな交流をした女性だったからだ。

 こんな話をすると誤解する人が出てしまうかもしれないから、簡素な説明をしておこう。間違いを恐れず言うなら、その子は僕のストーカーだったんだ。高校時代に限定した話で、今は疎遠になっているけどね。

 これはその子の名誉の為に書き記しておくことだけど、その子は僕という人間そのものをストーキングしていたわけじゃない。僕の小説に登場する建物や場所を、ことごとく当てて見せたと言うだけの話だ。いわば、聖地巡礼を生業とする生粋の文芸マニアだった。

 正直な話、僕は驚いたよ。事細かに舞台を書くようにはしていたけれど、それは地元の人間にしか分からないようなものだったからね。僕と同じ土地に住んでいるような人でなければ、架空の土地だと思ってしまうことだろう。何度か乗り継ぎをして、電車に一時間以上揺られないと学校にたどり着かなかったその子が、僕や彼女とは違うベクトルの小説好きだったことは案外衝撃的な事実だった。気紛れで作ったインターネット上のアカウントから僕個人を割り出した彼女に恐れをなしていたけれど、最近だと、なんだかそれすら面白くなってしまって――おっと、話がそれた。

 ……彼女以外の人間には興味が薄い僕だから、その子の名前すらほとんど覚えていない。時間とお酒の相乗効果かな、苗字は記憶の彼方で消し炭になってしまっているし。

 確か、名前は万結と言ったはずだ。

 ストーカーっていうと、むしろ攻撃的な人を思い浮かべるだろう?

 その子はとても内向的な少女だったんだ。

 真夏だと言うのに人よりも一枚多くの服を重ね着する子だった。そして僕が話をしている間中、ずっと腕を組んでいたんだ。腕を組むとき、大抵の人は手が肘の辺りにくるだろう? でも、あの子はそうじゃなかった。二の腕の辺りにまで手を持ってきて自分を強く抱きしめていたんだ。

 まるで、本物の繭みたいだった。悪意の繭みたいに黒いものが透けてみることはなかったけれど、彼女の内面を見ようとしない人から見れば、随分と嫌な子に見えるんだろうなぁ。僕の場合は、僕が書く小説へ非常に強い関心を抱いてくれた彼女を無下にする理由なんてなかっただけの話だ。それに、現実に対する逃避行みたいに夢に向かって飛び込みたいという願望があったらしい。

 現実に理想を重ね塗りしてみたくないものを見えないようにする、というのがどうにも流行っているようだ。昨日の女子高生も、万結も、僕に期待しているものは同じだろう。道化師が必要なんだ。

 きっと、僕自身にも。

 盛大な溜息を吐いて、僕はキーボードから手を離した。ファイルを保存してから、ノートパソコンをいつもの位置へと押し戻す。今日くらいは作業を休んでもいいだろう。僕は、筆が早いことだけが取り柄のアマチュアなのだから。

 部屋の隅に置いてあった炭酸ジュースを手に取る。赤いラベルが印象的な、世界でも広く愛飲されている炭酸飲料だ。

 この大きなペットボトルを開けたのは、二日ほど前のことだったろうか。開けてから長いこと放置しておくと炭酸が抜けてしまうし、真夏の部屋に置いておくのは、衛生上よろしくない。だから飲まねばならないと、僕はコップにジュースを注ぐ。栄養の不足しがちな僕にとっては、大切な糖分供給源でもあるのだ。黒い湖面を覗き込むように一瞬の間をあけてから、僕は一気にジュースを煽る。

 盛大に噎せた。

 唐突な出来事に理解の及ばなかった僕は、目をしばたたかせながら手に持ったコップを見つめる。色合いは、普段と何ら変わらない。注ぐ時も、その変化には気が付かなかった。だが、今なら分かる。

 なぜか、酒が混ざりこんでいた。

「……僕は昨日、何をしたんだ」

 もしやと思って、もう一度酒入りのジュースに口をつける。

 ほのかに香るのは山桃の匂い。もしやと思って、押し入れを開く。実家から送られてきた、匂いはいいのに味はテンでダメという失敗作の酒がなくなっていた。どうやらそいつが混ざりこんでいるようだ。

「不味かったからって、ジュースに混ぜることはないだろ……」

 昨日の自分に文句を言いながら、コップに残りを注いでいく。無駄に度数の高い酒を使っているせいか、一気に酔いが回りはじめる。残っていたジュースをすべて飲み切ったところで、充分な酔いが僕を包む。酔い始めの、一番穏やかな気持ちになれるとき。恍惚を感じることが出来ない代わりに、虚脱に悩まされることもない。一番平和な酔い方だ。

 今日はこのまま、寝てしまおうか。新人賞の締め切りは近いけれど、僕ならなんとかなるだろう。ならなければ、絶望を叫びながら街中を走り回ればいいのだ。すぐに小説のネタは見つかるだろう。

 あー、面白いことが起きないかな。起きなくてもいいから、彼女が隣に現れないかな。

 目が覚めたら小説の続きを書こう。僕と彼女が幸せだった時代を小説にするんだ。

 蜂の巣のような、カラメル色の天井を見上げて横になる。

 妄想ばかりを、僕は脳内で繰り広げていた。

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