第6話 ハレのちクモリ。

 分からない、というような顔をしているように見える。これは大事なことだから、君の為ではなく僕の為に説明をしておこう。

 もし君が真っ当な人間だったなら、抱きしめた子供には甘くなるはずだ。それは同種でありながらも格下で、しかし守るべき対象に向けられる複雑な感情だ。でもね、玩具に対してはどうだろう。

 君は動物に対しても、同じ感情を向けられるかな? ペットでもない動物は玩具に過ぎない。ひょっとすると、その程度の価値すらないかもしれないけれど。

 ……気持ちの悪いことを言ってしまったかな。僕は彼女のことを愛玩動物のように扱っていたわけではないし、そういう風に思ったこともない。むしろ彼女は、僕の中で最も人間らしい存在だったんだ。

 ただ、僕は彼女のことを肯定的に見つめることが出来なかった。

 僕らがお互いに向けていた執着は、ペットや機械に対するそれと等しかったんだ。自分が定めた枠から、お前が出ていくことは許さないぞ、と。歪んだ認知を抱える自分を無視しつつも、相手を脅すための道具に過ぎなかったんだ。

 僕らは歪んでいた。

 世間には顔向けできないような、暗く、粘り気のある感情のせいで。

 僕らは歪んでいた。

 人様と目を合わせられないほどに、濁り、悪臭を放つ感情のせいで。

 高校一年生の六月を過ぎるころになると、僕らは他人に好意を向けたり向けられたりといったことがなくなった。僕ら二人が付き合っている、もしくはそれに準ずる関係になっている、という話が本当のものだと誤解されたんだろうね。人間関係に水を差したい人は、それに対する見返りを必要とするんだ。それがないのだから、僕等の邪魔をするような人は、本当に限られたごく一部の奴しかいなかったんだよ。

 僕らは間違った見方をされるようになった。

 だけどそれは、僕らにとっては非常に体のいい隠れ蓑になってくれた。周囲の人間からの誤解をいいように利用して、僕らは自分を隠すことが出来るようになった。

 意図せずとも、僕らは人を遠ざけることに成功したんだ。

 居場所を作ってしまえば、あとは簡単だ。

 世界は僕らにとって都合のいい存在になっていく。

 中学生の頃と同じように、教室の隅で本を読む日々が続いた。部活動に所属していなかった僕らは、自分以外の誰かのために時間を使う必要がこれっぽっちもなかったからね。本当に自由だったのは、あの頃じゃないかな。

 放課後になると、僕らは使われていない空き教室を探すようになった。家に帰るのが、なぜだか惜しいような気がしたからだった。僕に足りていない青春を、学校にいる他の生徒達から少しでも吸い上げようとしていたのかもしれない。

 彼女も、僕と同じように空き教室を探して、特別教室のある棟を歩き回っていることがあった。自習や補習に使われていない教室をどちらかが見つけると、もう一方も吸い寄せられるようにしてその教室に入っていくんだ。僕は誰かのいる教室に入ることがすごく苦手だったのだけど、彼女がいる教室には、自然と入ることが出来たんだ。彼女も、似たようなものだった。

 普段だと、人のいる教室に入る時は顔を俯けていることが多いのに、僕が一人でいるときにだけ、なんだか自信ありげな顔をして教室に入って来るんだ。僕はどういう扱いをされていたのか、今でも気になるところではある。今となっては、聞いたところで答えてくれるか怪しいものだけど。

 僕らは安息の地に引きこもり、思い思いの時間を過ごしていた。課題の提出期限が近づいているときは必死で鉛筆を動かしていたし、何もすることがない日は、ただぼんやりと空を眺めていたりもした。

 二人きりの教室で、鞄に忍ばせておいた携帯用音楽プレイヤーで音楽を聴く。

 彼女が興味を示したときは片方のイヤホンを差し出して、一緒に聞いたりもした。

 そういうことも、やったりしたなぁ。

 帰り道にあった美術商に寄っても良かったし、怪しげな壺が並ぶ骨董屋を覗いても面白かった。僕らは、互いに積極的な交流こそなかったけれど、好きなもので満たされていたんだ。

 色んな芸術に触れられたあの日々は僕にとって僥倖だった。

 今考えてみても、本当に幸せだったのかもしれないね。

 初投稿した小説は一次選考すら通過しなかったけれど、僕は慌てたりしなかった。自分の才能を信じていたのだろうし、小説を書くなんて言うことは僕にしか出来ないと思い込んでいたからね。

 未だに僕は、あの頃の経験をもとに小説を書いたりもするわけだけど。

 まぁ、その話はあとにしておこう。

 君は僕の、小説講座を聞きに来ているわけではないのだから。

 六月に訪れた変調に目を瞑り、何事も起きていないかのように日々を過ごす。

 季節は巡って、夏になった。

 高校生になってから、初めての夏を迎えた。

 小学校の頃から変わっていないことだけど、六月が終わってしまう頃には、クラスや学年での立ち位置というものは不動になる。噂話が好きな子なら、学校全体の人間関係が大体分かるようにもなるらしい。恋愛をすることに青春のすべてを捧げている子なら、七月に入るまでには、好きな子の一人や二人を選定し終えているらしいよ。いや、最後の話は人伝に聞いたものだから、僕は説明出来ないんだけどさ。

 ともかく僕らは二人で夏を迎えることが出来た。

 独りぼっちが二人いることに、気付かれないまま夏を迎えることが出来た。

 これを、すごいことだと思わないかい?

 どれだけ噂が大好きな子でも、僕らの心に棲む怪物は見つけられなかったんだ。同級生たちは、僕らのことを清く正しく美しい男女交際のお手本として見ていたのかもしれない。言わずもがな僕はそのことに対してあまり大きな口を叩くことは出来ないのだけれど、そこは僕なりのプライドということで。

 僕らが僕らでなかったとしても、きっと同じことをしていたに違いない。僕らは一定の距離感を保ったまま、相手を一切傷付けることなく過ごしていたのだから。相手が傷つくことを酷く嫌って生きていたのだから。

 夏を迎えるころになると、僕らはクラスの生徒から茶々を入れられて、たとえ半月であっても席が離れ離れになることはなくなった。窓際の一番後ろと言うと僕と彼女の席であって、それ以外の生徒が座ることはなかった。入学して早々、彼女に告白した男子生徒から嫌がらせを受けることもなくなっていた。僕に告白してきた女の子や年上の女性教師も僕らを離れ離れにしたいとは考えなかったのか、卒業までずっと同じクラスだった。

 だから、高校三年間、僕らはずっと近くにいることが出来たのだ。

 これを、すごいことだと思わないかい?

 人生の指針を決めてしまう高校三年間を、僕は一人の女子生徒と共に過ごしていたことになる。逆にいえば、人生の中で最も大事な三年間を、彼女は僕みたいな男と過ごすことになってしまったんだ。

 彼女は僕とよく似た、他人が苦手な女の子だった。無神経な僕は慎重になるべきだったのかもしれない。軽はずみな行動と、他人に理解されることのない価値観で、誰かを傷つけてしまわないように気を付けるべきだったのかもしれない。

 でも、分かっているんだ。

 それも、過去の話だって。

 閑話休題。

 六月の話を終えて、夏休みの話をしよう。

 高校一年生の夏を迎えて、僕が最初にやったこと。それは一体何だったと思う?

 これを当てられる人はまずいないだろう。だから、さらっと答えよう。

 僕は、小説を書くために夜更かしをしたんだ。本当に面白いかどうか分からない話を書くためだけに、朝の四時まで粘ったりしたんだ。生まれて初めて買った栄養ドリンクの不味さに顔をしかめながら、昇る朝日を睨みつけていたんだ。

 ロクでもないだろう? でも、小説を読んだり音楽を聴いたりすることが趣味の僕にとって、そのくらいしかやることがなかったんだよ。僕が何かを成そうとすれば、それは小説以外にありえなかった。

 だから仕方がないんだよ。

 まぁ高校時代の僕は、一日のすべてを小説に捧げていたわけじゃない。命を削って書いたものが面白くないはずはないのだけれど、一月足らずで余命のすべてを使い切ってしまうわけにもいかなかったからね。小説以外にも僕が力を発揮出来るものがないか、探し回ってみたものだよ。

 でも、僕には友達がいなかったから。

 夏になったからと言って、僕には特別するべきことがなかった。わざわざ学力を高めるために勉強をするのは嫌だったし、絵を描くのは趣味の程度だったからね。他と比べて好きなこともあったけれど、それは授業の合間にも出来る簡単なことだったから、それほど気合を入れる必要がなかったのも事実だ。

 うーん、僕は青春を無駄遣いしている気がするなぁ。

 家にいてもすることがなかったし、部活にも所属していなかった僕は、学校によく遊びに行った。僕の学校では夏休みにも図書館が解放されていたし、何より、そこには彼女がいたからね。だから僕は眠い目をこすって、毎日高校に通っていたわけさ。

 あれは、本当に不思議だった。僕は学校というものが特別好きなわけではなかったのに、彼女が関わっただけで、どうしても行きたい場所に早変わりしたのだから。あ、ここまで話を聞いてくれた君なら分かるかもしれないけれど、念のため言っておくね。僕らは、お互いに好きあっていたわけじゃない。

 少なくとも、僕は。

 彼女のことを、見下してさえいたのだから。

 ……ふぅ。

 僕の夏休み、カッコをつけるなら一年生編になるだろう頃合いの概略は、これでおしまいだ。いや、僕が嘘を吐いているわけじゃないんだ。高校一年の時の夏休みは、そういう簡素なものだったんだ。

 それから先の話が聞きたい? そういってくれるのは、とても嬉しい。

 だけどいい加減帰り支度を始めないと、このろくでもない大学にろくでもない男と一緒に泊まるハメになってしまう。それは、君も嫌だろう? でも、君のその嗅覚にこたえて、僕も秘密の一部を明かすことにしよう。

 僕らの夏休みを説明するために必要な言葉はその程度のものでしかなかったけれど、僕らが体験した事象を説明するためにはもう少し多くの言葉が必要になった。秋空の豊かさを表現するために必要な色が紅一色では足りないように、夏の夜の寂しさを伝える言葉が一つきりではないように、僕らの青春もまた、僕という人間一人の言葉ではうまく表現しきれないものなのだと思う。

 僕は、嘘を吐かない。

 今だけは、その言葉を信じてもらって構わないよ。

 話を戻そう。

 図書室の隅には、太陽の光はあたらないけれど本を読むだけの明るさは確保されている、絶妙な位置があった。夏は涼しく、冬は暖かい、快適な空間があった。僕と彼女にとっても、お気に入りの場所だったんだ。

 僕らがそこに集まることは、地球が自転していることと同じくらい当然のことだった。他に拠り所を持たなかった僕らにとっては普通の出来事だったんだ。それがある日を境にして、突然変わる。

 すごく、怖いと思わないか?

 いつものように座りこんだ僕を見て、彼女は突然立ち上がった。お手洗いだろうか、それとも読み飽きた本を返却しに行くのだろうかと考えていた僕の腕を、彼女が突然掴んだ時の気持ち。

 君には、理解してもらえるかな?

 いつも二人きりで音楽を聴いていた空き教室に連れ込まれて、普段はロクに会話もしない彼女は、小さく震えていた。気だるげで、辛辣で、氷で出来た針のようだと評されていた彼女が緊張している姿を見たのは、この世できっと、僕一人だと思う。

 そして、震える彼女の唇から、僕は不思議な呪文を聞いたんだ。

「貴方は、好きな人がいるの?」

 真剣な眼差しを向けた彼女に、僕がどう対応したか。

 その話は、また次の機会に取っておこう。

 え、なんだいその顔は。

 まるで数日ぶりにご飯にありつけたと思ったのに、それを遠ざけられてしまった犬のような顔をしているね。でも、待ってくれよ。この話を始めてしまうと、僕は数時間喋り続けなくちゃならないんだ。

 僕は彼女のことを知ってもらいたくて、君に話をしている。それは確かなことだけど、言わせてくれ。もうそろそろ、限界が近いんだ。僕がどういう人間なのかという説明は、もうやったよね。僕は酷く弱虫で、臆病な人間なんだ。実のところ、君という人間にさえ、恐怖を感じているんだ。

 分かっている、君が僕に対して悪心を抱いていないことも、たとえ抱いていたとしても僕を傷つける類ものではないだろうことも。でも、僕は人が怖いんだ。苦手なまま、大人になってしまったんだ。

 本当に、今日はこれでおしまいだよ。

 さぁ、席を立って。

 過去に捕らわれて動けなくなる前に、未来を探す旅に出るんだ。

 大切なものを守るためには、今すぐに決断をしなくちゃ。

 過去はいつだって、僕らにとって大事なものなのだから。

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