第12話 人生初コクハク。
待ち合わせをして帰ったのは、その日が初めてだった。
待ち合わせと言うのは、どうしてあんなに緊張するんだろうね。普段ならなんてことのない同級生たちの行動に自然と目が引き寄せられていくようなこともあり、僕が他人を見ているようで見ていなかったことを身に染みて感じた。他人を分かって自分を守る尾yな行動をしていたつもりなのに、結局のところ僕は詰めが甘いんだ。誰かを守ることも出来なければ、誰かに守ってくれと伝えることも出来ない。
また話は逸れてしまうんだけど、人造兵器に搭乗した中学生の主人公が宇宙からやって来る怪物と闘うアニメが好きだった。タイトルはまぁ、諸事情あって教えられないんだけどね。聖書の筋書きを丁寧になぞりつつ新しい解釈をいれたあの作品で、主人公は何度も傷つき、最後は自らの足で立ち上がる気力すら失ってしまう。恋という言葉を抱くには汚れすぎ、愛を語るには未熟すぎたためにヒロインたちとの溝も当時のアニメとしては考えられないほどに深くなっていく。
彼は孤独と傲慢と偏見を内面に抱えたまま、周囲の人々――中には親しかったはずの友人や、同僚なんかも含まれている――が殺されても平然としているんだ。いや、彼だって何をすればいいのかは分かっていた。分かっていたのに行動に移せなかったのは、心を蝕む恐怖が他のすべてに勝っていたからだ。
最終的に主人公の心は崩壊して、世界すら滅んでしまう。あれほど酷薄なくせに面白いアニメは二度と生まれないだろうと子供心に思っていたのだけれど、まぁ、時代の流れと精神の変化というものは残酷だ。完全にアンチと呼べる、すべての設定を逆転させたような作品が生まれ、かつそれも面白かったりするのだから。
とまぁ、十年以上も前のアニメの話を持ち出したところで君達には伝わらないかもしれないけれど、これは結構、僕にとっては大切な話なんだよ。
何をすればいいのか分からない。
正しいことが何か理解出来ない。
思ったことと、実際にすべきことの齟齬がある。
それらの条件を様々に比較してみて、それでも動き出せない人間がいる。
あのアニメの主人公なら、どこか投げやりになっていても一歩を踏み出すことはあった。しかしその足がいつも正しい場所に着地していたかと問われると、首を捻らざるを得ないのだ。
「選択は正しいものをするべきだ、けれど間違ってもいいんだよ」
大人は確かにそういう言葉を信じているだろうし、若者に人気の若いアーティストだって似たような言葉を口にするだろう。それは嘘だ。嘘でなくとも、繊細な子供の心を理解しているとは言い難いのだ。
間違えたくないという、この傲慢な感情に覚えがないとは言わせないぞ。
あぁ。
あの日の緊張も、大切な宝物だ。
いつ来るのだろう、来たらどうしよう。
何を話せばいい、話してくれるだろうか。
不安と興奮がないまぜになったあの気持ちを、僕は適切に表現することが出来ないんだ。ようやく待ち合わせていた場所――といっても普段と変わらない図書館だったのだけれど――にやってきた彼女と顔を合わせると、それまでに考えていたことなんてすべて消し飛んでしまったし。
いつもとは違う雰囲気に戸惑ってしまったことを覚えている。
図書室に集まったのに、読書に集中することも出来なくて、幾度となく隣に座る彼女と目を合わせてしまった。その度に慌てて本へと視線を戻すのだけど、内容は全くと言っていいほど頭の中に入ってこなかった。恋愛小説の主人公になってしまったみたいに、心臓が音を立てていた。相手に聞かれていないかと、冷や汗をかいたくらいだ。
初めての待ち合わせは、そんなものだった。経験の浅い僕等には、秒速五ミリメートルで距離を縮め合うことくらいしか出来なかったんだよ。その上、近づけば近づくほど、同じ極を向けあった磁石みたいに反発しあってしまうのだから。まったく、経験不足もここまで来たか、という感じだった。
閑話休題。
それから、どのくらい経ったかな。
ある日のことだった。
司書の先生が休みだったこともあって、その日は図書室の閉館時間が早くなった。彼女を遊びに誘うには、もってこいの日だったのかもしれない。当時の僕に、そんなことを考える余裕があったとは思えないけどね。
僕らは図書室が、普段とは違う先生に閉められてしまうまで居座り続けようとしていたのだけど、決まり文句であっても、なかなか言い出し辛かった。帰ろうという一言が、僕らにとっては重かったんだ。
結局僕らは空き教室を探して学校内を歩き回り、空き教室を探し当てた後も、グラウンドで走り回る運動部を眺めることになった。季節がもう少し冬に近くて、運動部の生徒も早帰りをしていたなら、そんなことも起こらなかったと思う。
校庭を走る野球部の中に、昔、彼女に告白してきた生徒を見つけたんだ。
とてもまじめとは言い難い練習態度だったけれど、彼はキャプテンをやっているように見えた。目を背けると、テニスコートの上で、一際大きく騒いでいる男子生徒の姿が見えた。体育祭などのイベントになると、ことあることに彼女へと近寄ろうとしていた男だった。
ふたりとも、楽しそうに笑っていた。そして、誰かに好かれるような人柄をしているか、少なくとも誰かを楽しませることの出来る性格をしているんだろうな、ということにその時初めて思い至った。
なんだか、すごく気分が悪くなった。
彼等のことを好きになれたかと言われると黙って首を横に振るしかないのだけれど、気分が悪くなってしまったのは、自分が嫌いな種別の人間を見たからじゃない。
僕が嫌いなタイプの人間がやっていて、僕は未達成の出来事をみつけてしまったことも大きな要因だったのだと思う。そう、例えばそれは、誰かを愛し、誰かに愛されるというごく自然なことだったんだ。
僕は姉さんと心をすれ違わせて以来、人を好きになることを忘れていた。それ以上に、人生を楽しむと言うことを忘れてしまっていたんだ。逃避行をした先に本や音楽をみつけただけで、芸術に積極的な興味を持っていたわけでもない僕には、なにも褒められるべきことはなかった。当時の僕が書いていた小説は、時間を潰すための玩具として選ばれたものに過ぎなかったんだ。彼女以外にはたった一人、僕が小説を書いていることを知っていた女の子がいた。その子は面白いと言ってくれていたけれど、それは僕が舞台にしていた街を愛していたからだった。だから、あの街を題材にした僕の話を褒めざるを得なかったんだ。
校庭にいる無数の生徒を見下ろしながら、下唇を噛んでいた。
悔しかったよ。自分がバカだってわかったから。
苦しかったよ。僕は、弱い人間だったから。
人生を楽しむためには隣に彼女がいなければならなかった。僕にとって、彼女は特別な存在になりつつある。人を好きになるものかと宣言したあの日のことを忘れようと、僕は必死になった。
緊張で脚はガクガクと震えていたと思う。内臓が食道を圧迫していたし、今にも吐瀉物を噴出して失神してしまいそうなほど怯えていたんだから。目も、本当は開けていたくなかった。怖くて涙が零れそうな姿を、彼女に見せたくはなかったからね。
何度も深呼吸をして強く拳を握りしめる。
そして、僕は彼女の方を向いた。
彼女は、既に僕を見上げていた。僕が言葉を切り出すのを、ずっと待っていてくれたのかもしれない。彼女は、僕と同じくらいには、卑怯だったと言うことだ。そうして彼女が僕よりも背の低い、ひょっとしなくても可愛らしい少女だったことにこの時ようやく気が付かされて。
僕の緊張は、更に膨らんでしまったのだ。
「ねぇ、そろそろ帰ろうか」
僕が必死に絞り出した約束の言葉に、彼女が返した言葉一言だけだった。
「えぇ」ってね。
だけど、その一言が。
その時の僕にとって、嬉しかったことを覚えている。
ふぅ。
高校生どころか、社会人になってからも、二人きりで帰るのはたいして特別なことじゃないのだと思う。それは常識的な範囲での話に収まらず、僕と彼女の関係にも反映されたはずだ。
彼女が影のように僕を追いかけて帰ることも多かったし、僕が彼女の後ろについていくことも多かったから。――家が割合近かったんだよ。あぁ、これは言い忘れていたことかもしれないけれど。
だけど互いに言葉を交わしてから帰ったのはあの日が初めてで、僕は手に汗を掻いていた。
夕日が沈み、世界は群青色に染まっていく。ゆっくりと歩く僕らは、時間の流れに取り残されていくみたいだった。
「今日はどうする?」と僕は尋ねた。彼女は小さく肩を震わせてから「どういうこと?」と尋ね返してきた。僕はある程度の反応を予測していたから「本屋に寄るのはどうかな」とすぐに言葉を出すことが出来た。
「いいんじゃない? 他に、することもないし」と答えた彼女を見つめながら、それは違うと思った。僕らにはそれ以外にすることがないんじゃなくて、それしかすることが思い浮かばなかったというだけなんだ。
僕らは他人を遠ざけるようにして生きてきたからね。
何をすればいいのか、分からなかっただけなんだ。
あの日から僕は観察という建前を取り払って、彼女と正面から向き合うことを決めた。彼女と言う人間を、自然と目が追いかけるようになってしまったんだ。そこには対象物を刺すように見つめる冷たさがなくなっていた。四季折々の自然がそうするように、僕は彼女の美しさに目を奪われていったんだ。
二人きりで夜道を歩いていたとき、街灯に照らされた彼女がその頬を微笑みで緩めているのを知った。街路樹の落葉を眺めていたとき、彼女は僕の背中を見つめていたことを知った。赤信号を見つめて立ち惚けているとき、彼女が僕を眺めていたことを知った。
そして、僕の手が空いていたとき。
彼女が、僕の手を握ろうとしていたことを知った。
それまでは何も知らなかったんだ。彼女は僕と同じだと、本当に思い込んでいたんだ。なんて愚かな真似をしていたのかと後悔して、それは地団駄を踏みたくなるほどのものだった。
いつものように本を買いに行ったとき、彼女も僕を待ってくれていた。それまで彼女の保護者のような顔をしていた僕が初めて彼女を夜の街に誘ったとき。お気に入りの喫茶店で薄く穏やかな光に照らされながら、僕らは笑いあっていた。柔らかな酸味を持つ珈琲を注文したとき、彼女は苦いものが苦手なのだと知った。
生クリームを溶かし込んだココアのように、砂糖と果物をふんだんに練りこんだ焼き菓子のように、僕らは穏やかな時間を過ごす。そうして僕は、知ってしまう。僕が遠ざけていたはずのものが、あまりに美しくて、柔らかな感傷を抱かせるものだったなんて。
僕は、彼女から目が離せなくなっていた。
彼女という存在に、心まで奪われていたんだ。
僕は身勝手な男だった。彼女のすべてを、自分の為に知りたいと思ってしまった。
それは玩具やペットなんかに向けられる支配欲ではなく、学術書や論文に向けられる知識欲なんかでもない。僕は人としての彼女に、途方もなく純粋で、燃えるような感情を持ってしまったんだ。
でも、いいかい。もう一度言っておこう。
僕は彼女に『恋をしていなかった』。だけど、それはつまり。
彼女を『愛していた』ことと、何一つ矛盾がないことなんだ。
あぁ。心臓を、過去の自分が握りつぶしてくる。喉の奥に真綿をぎっちりと押し込まれているように、じりじりと苦しい痛みが僕を襲ってくる。だけどこれは伝えておかなければならないことなんだ。僕と彼女の過去を君に伝える上で、どうしても話さなくてはならないことなんだ。
僕は他人が苦手だったし、彼女は僕から離れていくことが当然だと思っていた。どうして僕が、彼女に恋をしたのか。その理由を解き明かすのは、きっと不可能なことなのだろう。二度と恋なんかするもんかと誓願を立てたくせに、どうして恋をしてしまったのだろうか。
彼女と示し合わせて下校するようになって一週間くらい経ったときのこと。
一緒に帰る以上の進展がなかったなら、僕はその思いを一生心の中にしまい込んでおけただろう。僕が、そうするつもりだったとは言い切れないけど。でも、胸の前で手を合わせて臆病を握りつぶした彼女は、僕にこう言ったんだ。
「貴方は、好きな人がいるの?」
不安げな彼女に、僕はこういった。
「その質問は、何回目だろうね」
「貴方、まともに返事をしていないじゃない」
「それもそうか。でもね」
そこで僕は、言葉を区切った。彼女の瞳が、その日ばかりは揺れていた。
狡猾だった僕は、好機を逃したり出来なかったんだ。
あの日、柔らかな秋の匂いに包まれながら、僕は微かな希望を抱いていた。
「僕には、好きになってしまった人がいる」
なんて言葉を、人生で初めて口に出した。
だから、こんな台詞を口にしたんだ。
「ねぇ、もしも君が良ければの話なんだけど」
僕と、付き合ってみませんか、なんて。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます