第13話 ラヴ・ヒューマン
告白の結果は今更、君に伝える必要もないだろう。独りぼっちたちが酷薄な心から精一杯にカドやら棘やらを取った結果がどうなったのか、君くらい聡明なら簡単に推察できるだろうし。
僕らは付き合うことになった。彼女は、僕だけの彼女になったんだ。それからのことを伝えるには時間が遅いからね、ある程度簡潔に、ダイジェスト風味で伝えることにしよう。君は物言わずに僕の話を聞いてくれている。だからこそ僕は、こうして君に話しかけ続けることが出来ていたわけだけど、それもそろそろ限界を迎えるみたいなんだ。
あぁ。頼む、これはお願いだ。
ある程度まで僕と彼女が幸せだった日々を伝えたら、今日は、お開きにしよう。
ぶつ切りの話ばかりで申し訳ないけれど、これは僕の弱さが原因なんだ。今更、僕は強くなれないから。だから頼むよ。君にしか話せないことなんだ。
付き合うことになった次の日から、僕等の態度はやっぱりぎこちないものとなった。お互いが無意識のうちに胸へ秘め、長い年月をかけて育んできた思いがようやく実を結ぶことになったんだ。彼女にとってみれば付き合うということは一種の中継地点でしかなかったのかもしれないけれど、そこにたどり着けただけでも奇跡みたいなことなんだ。
それこそ、神様からの素敵な嫌がらせだった。
付き合ってから初めての休日に、僕らは学校の図書室に集まることにした。友人と呼べる存在がお互いに一人しかいなかったし、普段の休みだって、こうして学校に集まっていたんだ。戸惑った結果として作戦会議を開いてしまうのも、むしろ当然のことと言えるだろう。
初めてのデートは、いいか、笑わないでくれよ。
名古屋の美術館へ行ったんだ。僕らが住んでいたのはお隣の県だったし、毎日のように行こうと思うと、なかなかお金が足りなくてね。だけど当時の僕らが興味津々だった作家の現代アートが公開されていたから是非とも見に行こうと言う話になったんだ。
年若い作家でね、独特の世界観が売りだった。
仄暗いバーのような照明に浮かび上がる、陰鬱な絵画の数々。使われている色はどれも暗いものばかりで、見る人が見れば嫌悪感を抱くだろう。だけど、そこには何かへの執着が込められていた。
あと少しで手に入れられたものを、指の隙間からこぼしてしまったような。命と同じくらい大切にして懐に大事にしまっていた宝物を、見ず知らずの誰かに踏みにじられてしまったような。悔恨と憧憬の入り混じったような作風の作家が僕は大好きだったんだ。
彼女も興味深そうに、絵画の海で溺れていたね。
小さな僕らが通っていた美術館と違って都会の美術館は広かった。そこに展示されていた作品が闇に吸い込まれそうな色合いのものばかりだった、というのもあるのだろう。僕らはずっと手をつないでいた。迷うといけないから、なんて言い訳を口にして僕は彼女の手を握る。はぐれると探すのが面倒だからと、彼女も僕の手を握り返してくれた。
その力は僕が思っていたよりも強かった。彼女の手は思っていたより優しかった。
羞恥心に負けるのはどちらが先か、競争をするように僕らは手を握り返す。好奇心旺盛な子供が僕らの間を走り抜けたときでさえ話さなかったのだから、負けん気だけは人一倍強かったのかも、なんてね。
名古屋にはいくつもの美術館があったから、僕らは月に二回は名古屋へと遊びに行った。
そして帰る時はいつも、大須に寄ってお茶をすることに決めていた。地元にだってお気に入りの喫茶店がいくつもあるのだけど、僕らはあえて大須に寄ることを決めていたんだ。その理由はたいしたものじゃない。僕の一番好きな作家が、そうすることを決めていたからだ。僕がその作家を敬愛していることを知っていたから、彼女も笑ってついてきてくれた。
それは以前のように控えめで陰りのある笑みじゃない。
姉さんのような眩しさはなく、かわりに胸が温かくなるような優しい笑みだった。
そう。彼女は笑うようになったんだ。
長い時間を共有して、沢山の出来事を共有して、様々な趣味を共有して。
僕も彼女も少しずつ変わっていった。他人を避けていただけの無為な時間は少しずつ終わりを迎えていく。彼女を見ていると、それがよく分かった。恋は人を変えるんだ。笑わなくても美しかった彼女が笑うともっと素敵な女性になるんだ。
僕は苦しかった。
彼女という存在が眩し過ぎて。
胸の苦しさが、いつになっても治ることはなかったんだ。
閑話休題。
付き合い始めて二か月が経ったくらいのことかな。僕らはひと月遅れのハロウィンをやることになったんだ。社会行事にもなじみがなかった僕らは、周囲との差を埋めるためにいろいろと手を尽くしてみたんだ。僕一人だったら一生やらなかっただろうけど、彼女がいたからこそ、手を出せたんだろうね。
でも、学校に仮装して行くわけにもいかなかったからさ。まぁ、彼女なりの冗談に違いないと、僕は笑って受け流してしまったわけだよ。そのとき「もしもハロウィンらしいことが出来なければ何でも言うことを聞く」なんていう、とんでもない約束までしてしまった。一週間後にふたりきりで、と彼女が悪戯っぽく笑ったのもみていたのに。
そして約束の日の朝。僕は約束していたことすら忘れてしまっていたんだね。一ヵ月遅れのハロウィンは丁度、休みの日と重複していた。図書館には、ほぼ僕等しかいないような日だった。両親が家を出ていくのを見送ってから、僕も学校へと向かったんだ。
秋晴れが心地よい日だったように思う。
学校について図書室を覗き込むと本を読んでいた彼女が立ち上がった。そして何が何だか分からないうちに、僕は空き教室へと連れ込まれたんだ。彼女にしては珍しいことに、その日はスポーツバッグを持っていた。最初のうちは、それに何が入っているのか見当もつかなかったんだ。
僕が呆然としていると彼女は自分のスポーツバッグをあさり始めた。何が出てくるのかと見守っていたら突然、視界が赤く染まったんだ。ビックリするよ。
彼女は、僕以外には見せない、とびきりの笑顔をしていた。
赤い帽子を被る彼女が赤いマントを羽織って、お手製の杖を掲げて見せる。彼女に裁縫の才能があることを僕はその時、初めて知った。
彼女が何か呪文のようなものを呟いたのを見ても僕は動けなかった。僕が何も分かっていないことを理解して、彼女は恥ずかしさやその他諸々のことを吹き飛ばしたんだろうね。
「トリックオアトリート!」
二度目は、誰でもはっきり聞き取れるほどに、声を張り上げた。そして突き出された腕を見ても、僕は動けなかった。だって、仕方ないだろう?
赤い帽子を被った彼女は。
とても、とっても、どうしようもないくらいに、可愛かったんだから。
もうね、生まれたての仔猫を眺めているみたいだったよ。僕が顔を覆ってしまったことを、変テコな姿を笑っているのだと勘違いしたときの彼女の表情も、僕は絶対に忘れないと思う。世界で一番美しい女性が拗ねた表情というものを、君は見たことがないだろう? あの表情はね、生まれたての仔犬や、小さな鹿の子供を見たときと同じくらい心を躍らせるものなんだ。
あぁ、君にも見せてあげたい!
ちょ、ちょっと。そんな目で僕を見ないでくれよ。あの時の彼女は、本当に綺麗でかわいくて、ねぇ、聞いているのかい?
それで、この話をした理由になるんだけど。僕はひと月遅れのハロウィンのことをすっかり失念していた。約束を破ったときのことは覚えていたから、彼女の言うことはなんだって叶えてあげようと思った。でも、彼女は難しい問題で僕を悩ませるようなことはしない。彼女とは家で遊ぶ約束をしただけだった。
僕らは長い年月を共に過ごしていたけれど、お互いの家を訪れたことはなかったからね。付き合い始めたことをきっかけにして僕の部屋を覗いてみようと、そういう話だったのかもしれない。
その日はいつものように本を読んで、時間を無為に過ごしたのち解散して、次の休みの日にいつものモールへと集まった。
その時の彼女の格好を説明してあげようか。黒い洋服、黒いスカート。手提げ鞄ももちろん黒で、仮装をしていた時よりも魔女っぽく見えたよ。それを彼女に伝えたら怒られてしまったのだけど、僕だってジーパンを履いたオコジョ、なんて言われたしなぁ。真っ白な服が好きだから、そんな格好ばかりしていたんだ。
でも、黒で統一された彼女は綺麗だった。黒く冷たい精神部分が強調されているみたいで。
さて、僕の家に彼女が来た時の話になるけれど、別段おかしなことはしなかったよ。僕は彼女を抱きしめたいと思っていたけれど、それ以上のことは望まなかったからね。そもそも、僕みたいな人間が彼女のような美しい人間に触れることすら禁忌なのではないかと思っていたくらいだ。姉さんのこともあったし、絶対に間違いをしてはいけないんだ。
当時の僕の精神性を説明するためにも、昨今の小説の話をしよう。かなりキツい言い方になるから心して聞いてくれ。
ヒロインは男にとって都合のいいように描かれ過ぎている。そして主人公たちは自分の欲望を露骨に表現し過ぎている。そこには陰鬱な世界の美しさがなく、華々しい世界が醜く描かれているだけなんだ。まるで昔の僕を見ているようで吐き気しか催さないよ。
……また話題がズレてしまったかな。うーん、僕の悪い癖だなぁ。で、彼女が僕の家に来た時の話。僕は何もしなかったし、彼女はそれ以上を求めなかった。だから僕は何度も彼女を家に招くことが出来たし、彼女もそれに応じることが出来た。適度な距離感を保ったまま恋人関係を維持することで、僕は姉さんに言われた言葉を少しずつ忘れることが出来たんだ。
「あんたなんか、好きにならなければよかった」という言葉に怯えなくてもよくなったんだ。
だけど、その時の僕は知らなかった。
心の壁を破壊できなかったのは僕だけで、彼女は心を開いてくれていたんだ。彼女を心の底から可愛いと思っても触れられないほど臆病だった僕と、僕という人に好かれるために普段絶対やらないだろう仮装までしてくれた彼女との間には、大きな心の壁があったんだ。
彼女は僕という人間を受け入れる準備もしてくれていたし、僕という人間に寄り添う覚悟も出来ていた。ヒロイックな感傷に浸って、勘違いをしていたのは僕だけだったんだ。
高校二年生の冬に、僕らの心はひとつになる。欠けていたもの、有り余っていたものをぶつけ合って、僕らは存在の証明を確かなものにしたんだ。
僕には彼女が必要だった。
彼女には僕が必要だった。
そして、完璧な関係をぶち壊しにしたのは、僕の小さなプライドだった。
僕が彼女の為だと思い込んでいた、余計なお世話という奴だ。
涙が出るほど恥ずかしいよ。
そして、泣きたくなるほど悲しいね。
過去の話をする時は、嬉しかったことや楽しかったことに限る。
好きだった子との過去を話しているときほど、悲しいことはないのだから。
さぁ、今日はこれでおしまいだ。
次に君と会って話をするとき、僕と彼女の物語は終幕を迎えるだろう。
だから、もう一度言っておく。
僕らの物語に、一切の希望や期待を抱いちゃいけない。
僕らの物語は、きっと君を裏切るのだから。
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