第2話 君へ
うう、気持ち悪くなってきた。
何か新しいことに挑戦しようとすると、いつもこうなるんだ。普段より跳ね上がっている心拍が、脳と心臓と胃袋に影響を与えているに違いない。妙に気分がいい日は何をしたって問題ないのだけど、今日はどうも、ダメみたいだ。
人生で初めて出来た友達に嫌われる可能性のある話をするんだから、僕だって緊張するよ。あ、親しい友人になら話したことがあるだろ、とか考えたんじゃない? 残念ながら違う。僕は幼子のときから人見知りが激しくて、小学生のときは教室の隅で窓の外を眺めるのが趣味だったんだよ。だから、友達なんているはずがないじゃないか。
中学生の頃はそれなりに話しかけてくれる子もいたんだけど、友人として接してくれる人なんていなかったんだ。口を噤んでいる僕にはどこか陰鬱な雰囲気があるらしいから、それが原因なのかもしれないな。嘘だけど。だって、僕はかなり好き嫌いが激しいし。高校時代は突然校舎裏に呼び出される程度には人気者だったから別として、まぁ、この話はこの程度にしておこう。友達がいないことを自慢すると、お腹が痛くなってくるからね。
閑話休題。
あぁ、本当に、胸が張り裂けそうだ。
でも、怯えてばかりというわけにもいかない。生まれてきたからには何かを成し遂げなくちゃいけないし、たとえそれがカタチとして残らないものだったとしても、やり遂げることにはきっと価値があるはずだ。
だから僕は、君に過去を伝えよう。
さて、それじゃ話そうか。まず初めに話すのは、僕が人を愛せなくなった理由についてだ。甘くてほろ苦い過去回想は僕に似合わないけれど、これだけは話しておかないと君は僕の過去を嘘っぱちだと思うことだろう。平凡な、ひいき目で見たって上の下くらいの容姿なのに、僕は女の子に好かれやすい。いや、好かれやすかったと言っておこう。特筆するような才能を持ち合わせていない僕にとっては、彼女に出会えたことの他には昔モテていたことくらいしか自慢できるようなことがないからね。
うん、まずは僕の自慢から。
そして、人生最初の後悔までを話すことにしよう。
これは僕と姉さんのお話だ。
僕の親戚には、十歳年上の従妹がいた。彼女のことは「姉さん」と呼んでいて、短く切り揃えられた髪と利発そうな微笑みが印象的な、それはもう綺麗な人だった。背はそれほど高くなかったけど、持ち前の明るさと聡明さで同世代の誰よりも頼られていた。何でもできる反面ちょっとしたドジをすることもあって、誰からも好かれていたんだ。幼い僕から見ても魅力的な人だったんだ、同世代からすれば天使か女神みたいな存在だったに違いないね。
人付き合いの良さが人気の秘訣だったらしく、姉さんはいつも笑顔に満ち溢れていた。淡い茶色が混ざった短髪と、太陽に負けないくらい輝く表情が姉さんの武器だった。年上にも臆することなく話しかけられる勇敢さと、誰にでも平等に施すことの出来る知性が姉さんを守る盾になった。
姉さんは、みんなから愛される才能を持った人だった。
生まれたころから良くしてもらっていた僕は、姉さんにすごく懐いていた。姉さんには兄弟姉妹がいなかったから、僕を本当の弟のように可愛がってくれたことを覚えている。僕は姉さんを通じて女性のすべてを学んだと言っても過言ではない。喜怒哀楽を豊かに表現できる姉さんがいたから、僕は他人から好きになってもらうにはどう振る舞えばいいのかを知ることが出来た。他人を怒らせてしまう行為や態度、絶対に踏み抜いてはいけない地雷の存在も理解するようになった。人として最低限の礼節を身につけることだって出来た。……根が悪人寄りだから、僕に酷いことをした奴には同等の態度を返してしまったりするんだけどね。興味がない相手には、無関心を装って交流を拒絶したりするし。
ともかく、僕にとっての姉さんが偉大な存在だったということを理解してくれれば幸いだ。
僕と姉さんの間には、血の繋がりくらいしか接点がない。僕は内向的で家の中に引きこもって遊ぶことを好む少年だったけれど、姉さんは外に出て沢山の友人と一緒に遊ぶことを好む少女だった。音楽や漫画や小説の趣味も、僕とはことごとく違っていた。それでも仲良くなることが出来たのは、きっと、差異に対して憧れを抱いていたからだろう。
僕も姉さんも、自分とは違うものに惹かれる性質があったに違いない。僕にとっては退廃と退屈の象徴だった街が、姉さんにとっては享楽と喧噪を魅せる場所だったことを知ったのは、もっとずっと後のことだ。都会の人間が持つ閉塞感と、田舎の人間が持つ倦怠感。それが、磁石のようにひきあう役割を担っていたのかもしれない。
あ、これも言っておこう。
僕は、生まれたときから同じ地域に住んでいる。街と都市の狭間で揺れていた、それなりに人口の多いところだ。家から歩いて行ける距離には県下有数の車線数を誇る国道があって、そこでは夜中にも自動車が走っている。夜中にふらりと家を出ても、そこら中に営業をしている店がある。静寂と暗闇の両方が訪れるのは、僕の家の近隣と川沿いくらいのものだった。
対して姉さんが住んでいた場所は、畑と電柱しかないような田舎町だった。僕が住んでいた街にはゲームセンターからボーリング場から映画館まで様々なものが揃っていたけど、姉さんの住んでいた田舎にそんなものなかった。見渡す限りの広い田畑に囲まれて、娯楽施設と言えばパチンコ屋くらいのものだった。若い人が働く場所そのものが存在しない、本当の田舎町だったんだ。それでも僕は、姉さんの住んでいる地域が好きだった。チカラシバやススキや、名前も知らない雑草が一面に広がる風景が好きだった。
僕はあの場所を愛していた。少なくとも、姉さんと一緒にいた頃は。
家で悪戯をして両親に怒られたり、学校で些細なことから同級生と殴り合いの喧嘩をしたりすると、僕はすぐ姉さんの元へと飛んで行った。小学校の入学祝いとして遠方に住む祖父母からプレゼントされた自転車を漕いで、片道二時間の道のりを駆け抜けるように走って行ったんだ。小学校一年生の行動としては、なかなか目を見張るものがあると思う。
うんと年上だった姉さんは、僕を存分に甘やかしてくれた。正面から抱きしめてくれたし、頭を撫でてくれたし、膝枕で寝かしつけてくれることもあった。逆に姉さんがひどく疲れて苦しんでいるときは、僕が癒してあげた。大丈夫だよって、根拠のない自信を握りしめて姉さんの前で微笑んで見せたんだ。
仲睦まじい姉弟のように、僕等は支え合って人生の苦楽を乗り越えていた。
それが、僕らの
僕が小学校四年生になった春のことだ。姉さんは、二十歳の誕生日を迎えた。丁度土曜日だったから、親戚が集まって宴会を開いたことを覚えている。子供だった姉さんが大人として受け入れられた日でもあり、印象に強く残っている一日だ。親戚はほとんどが姉さんと同じ地域に住んでいて、ことあるごとに集まって飲めや歌えやの騒ぎを繰り広げる。あの日もすごくいい天気で、大人達は昼から酒を飲んでいた。
初めての飲酒を経験した姉さんは、缶酎ハイ一本で真っ赤になってしまった。大学の飲み会で『練習』しなくて良かったと、酒豪と下戸でキレイに分かれた親戚は笑い合った。酒が飲めても飲めなくても楽しめる空間がそこにはあって、僕にはとても眩しかった。
酒に弱かった姉さんのお守り役には、当然のように僕が抜擢された。幼い頃からお世話をされていたんだから、酔っているときくらいは立場が逆になってもいいだろう、と大人は考えていたのだろう。その判断は正しいし、間違ってもいた。
徐々に焦点のズレていく瞳、呂律のまわらなくなっていく舌、抱き締められているだけで伝わってくるほど早くなっている鼓動。あの日の姉さんは、確かにおかしかった。頭の螺子が緩んでいたのかもしれない。だから、十歳も年下の僕に向かって、こんなことを言うまでになったんだ。
「××くんが大人になったらー、姉ちゃんのお婿さんになるんだぞー?」
大好きだった姉さんにそんなことを言われて、嬉しくないはずがないじゃないか。もう、天にも昇るような気持だった。まぁ、口先ばかりが達者な子供だったから、僕はこんなことを言って返したと思う。
「でも、親戚同士は結婚できないんだよ、姉さん」
あのとき姉さんがどんな顔をしていたのかは覚えていない。ただ、何も言わずに頭を撫でる手が、いつもより少し小さく感じた。遅めの晩御飯が出来上がるまでの間、ふたりで寄り添うようにして外の景色を眺めていた。寂しい風景が、わずかに色付き始める春だった。
二十歳の誕生日を迎えたあの日、姉さんはなかなか僕を離そうとしなかった。手洗いにまでついてきたのは、当時の僕でも恥ずかしかったに違いない。同じ布団で寝ることの方が何倍も難しいことのはずなのに、そっちはなぜか緊張しなかったんだけど。
次の日が休みだったこともあって、僕は姉さんの家に泊まることになった。いつもは家族と一緒だったから、僕一人が取り残されることに不安がないわけじゃない。それでも、姉さんと共に過ごす時間が増えることの方が、僕にとっては重要だった。
あの日、初めて一緒にお風呂へ入った。親戚だから緊張しなくてもいい。姉と弟みたいな関係だから何を気にする必要もない。頭では理解しているつもりだったのに、なぜかドキドキして、くらくらして、のぼせてしまいそうになった。
微睡むだけで心地よい春の夜に、僕は夢を見た。本当は現実だったのかもしれない。だけど今となっては、それはどうでもいいことだ。僕は抱きしめられていた。身軽な格好をした姉さんが、身体を優しく撫でていた。熱い吐息が幼い僕の思考を濁らせて、もう一人の僕を目覚めさせる。高揚感と愛に支配されたもう一人の自分が、姉さんの胸に飛び込んでいく。なにも分からなくて、導いて欲しくて、顔をぐしゃぐしゃにしたまま涙を流した。柔和な微笑みを浮かべた姉さんが僕を抱きしめたところで、あの夢は終わっている。
残りは、すべて真っ白な幸せの中だ。
次の日の朝、柔らかくて温かい布団で目を覚ました僕は、なんだか不思議な心地がした。風邪をひいているように身体が重くて、寝惚けているときとは別種の痛みが頭の奥で疼くんだ。現実が夢に浸食されているような、奇妙な感覚だったよ。
服を着替えているとき、僕は早起きしたことに心から安堵した。慌てて服を洗濯機に放り込んでから、まるで何事もなかったかのように布団へもぐりこんだんだ。数分前と変わらない穏やかな寝息を立てていた姉さんをみて、僕は心の奥がチクリと痛んだ。
僕はなんとなく気が付いていたのかもしれない。
それでも、無知な子供の振りをしていたんだ。
同じ年の夏、花火をするために親戚が寄り集まった。夜の闇に浮かび上がる鮮やかな火花を見つめていた僕のもとへ、そっと近づいてくる人がいた。すっかり大人であることが板についた姉さんも、僕と同じ目線に立っていた。背の低い姉さんが少し前かがみになり、親戚の大人達がはしゃいで振り回す花火が夜の闇を切り裂く。春のことを忘れられなかった僕は、そっと目を逸らしてしまった。
そして、姉さんが口を開く。
「春のこと、覚えている?」
曖昧な言葉に、僕は答えをはぐらかした。あの夢のことを、姉さんが知っているはずがないのだから。だけどもし、あれが現実だったとしたら。そうでなくても、僕があのときどんな状態にあったのかを知っていたなら。
「花火で遊ぶより、ずっと楽しいことがあるよ」
姉さんは言った。それが何かを尋ねても、姉さんは明確な答えを教えてはくれない。否が応にも期待が高まってしまう。それが綺麗なものか、醜悪なものか、当時の僕は理解していたのだろうか。悪いことをしているという興奮だけは当時も感じていただろうけど。
「どうする? 今日も、泊まっていく? うちに泊まりたい?」
その問いに対する僕の答えは、言う必要すらないだろう。
親戚がみんな帰ってしまって、僕はまた、姉さんの家に泊まることになった。伯父さんも伯母さんも優しい人だった。今になってみると、不純なことばかり考えていたことを恥じ入るばかりだ。
その日の夜、僕の世界は色を変えた。女性に対する、特に姉さんに対する認識がガラリと変わってしまったんだ。白黒の漫画本が、突然フルカラーになったと想像してほしい。想像の余地は減ってしまうけれど、それはとても色鮮やかで、それまでとは比べ物にならないほど美しいものなんだ。
ハーメルンの笛吹みたいに、姉さんが僕を導いていく。秘密の花園を期待していた怪物も、無機質な石の洞窟に心まで食べられてしまいそうになる。優しさに溺れて、自分がどこにいるのかも分からなくなってしまう。目の前が突然真っ白になったり、沼の底へ落ちていくような感覚を味わったり、僕という人間が根本から作り変えられてしまうようだった。
だけど、僕は心まで姉さんに溺れたりしなかった。はっきりとした意識を持ったまま、姉さんの優しさを受け止め続けたんだ。僕が姉さんに抱く好意は、まさしく兄弟姉妹に対するそれだった。姉さんが抱くものとは違くベクトルの上にある、交わるはずのないものだったんだ。僕はそのことを知っていた。だから、姉さんを騙していると思った。内臓をズキリと刺す痛みに怯えながら、それでも僕は、姉さんから離れられなかった。
僕は、とんでもない馬鹿野郎なんだ。
それから何回か、僕は姉さんの家に一人で泊まるようになった。両親も親戚も、僕等のことを仲睦まじい姉弟だと信じて疑わなかった。だから誰に咎められることもなく、静かな夜と穏やかな朝を何度も迎えることが出来たんだ。同級生と喧嘩しても、身に覚えのないことで教師に折檻を受けても、僕は挫けなかった。姉さんがいたから、僕は負けずに戦うことが出来たんだ。
年月が過ぎて、小学校六年生の春。姉さんと二人きりで、花見に行ったときのことだ。
弱いのに飲むのが好きだった姉さんも、その日は酒に口をつけなかった。桜吹雪を眺めながら、ふたりで他愛もないことを喋った。そして、僕に向けて何度目かの告白をした。いつものように断ろうとしたり、はぐらかそうとするたび、姉さんの顔が曇っていった。
「お姉ちゃん、別の人と結婚しちゃうよ? それでもいいの?」
押し問答のように繰り返された質問が変わったとき、僕はそれまで横に振っていた首の角度を変えてしまった。否定を肯定に変えたこと、それ自体は後悔していない。だけどその後、姉さんが声をあげて泣き出したのを見て、僕は怖くなった。どうしようもない間違い、取り返しのつかない失敗をしているのではないかと恐怖に包まれた。
僕は姉さんのことが好きだった。それは疑いようのない事実だったけれど、僕は姉としての姉さんを、家族としての姉さんが好きだっただけなんだ。すれ違う感情を見抜いたのか、姉さんはそれきり押し黙った。
その日は、それだけで終わった。
だから、すべてが終わってしまった。
春が過ぎ、夏に別れを告げ、秋が去って行くまで、僕と姉さんは言葉を交わすこともなかった。姉さんが一方的に僕を避けて、親戚の集まりにも顔を出さなくなったのだ。休みに家を訪れても、大学に用があると言って家を抜け出してしまう。そのうち、顔を見る機会も数えるほどにまで減ってしまった。
それからほどなくして、姉さんが結婚することを知った。大学時代に知り合った同い年の男性が相手だと知ったのも、その日だ。大学卒業と同時に結婚することは、僕の親族にとってみれば当たり前のことだった。在学中にも関わらず、二十歳までに結婚しなかった姉さんが嫁ぎ先を心配されていたくらいだからね。
僕等が一時期に比べればずっと疎遠になったことを不思議がる人間もいなくて、結婚する相手との準備が忙しくなったのだろうと、幸せの兆候みたいに受け取る人の方が多かった。僕を除いて、不安の影に怯える奴はいなかったんだ。
結婚が決まってからも、姉さんは僕を避け続けた。親戚の集まりに顔を出すことはあっても大人達の飲みに混ざるばかりで、相手をしてくれることはなくなった。胸の痛みが、現実のものとなって僕を襲い始めたんだ。
ひとりで見上げた夜空は、ひどく殺風景だった。ひとりで起きた朝の目覚めは最悪だった。ふたりでいることの強さを知っていた僕は、ひとりでいることに馴れるまで、相応の時間が掛かった。小学校の同級生とは相変わらず上手くいかず、三年間変わらなかった担任の教師ともそりが合わず、噛みあわない歯車に目が回る毎日だった。
そして、その日はやってくる。結婚式の当日になって、僕は花嫁の控室に呼び出された。メガネをかけた、人の良さそうな男が僕を呼びに来たのだ。意外に広い部屋に通されると、姉さんはひとりで泣いていた。姉さんを、新郎が心配そうに見つめる。僕は何も言えなかった。言えるはずがなかった。
純白のドレスに身を包み、これまでで最も美しく姉さんは輝いている。だけどその姿を見ても、僕には家族に対する愛情を越える熱意を抱くことは出来なかったのだから。
部屋に入った僕を、姉さんは涙にぬれた赤い目で睨み付ける。そして、こう言った。
「どうして、私を好きにならなかったの?」
姉さんは、悲しげな顔をしていた。
矢継ぎ早に、次の言葉が出た。更に、その次の呪詛も。姉さんの口からは決壊した堤防のように、僕に対する怨嗟が噴き出してきた。僕に対する深い愛情が垣間見えることもあって、その度、僕は心臓に銀の杭を差し込まれたような痛みを覚えた。すべてを吐き出した姉さんは、ぐったりとして何も言わなくなった。涙は既に枯れ果てて心の底に残ったのは黒い呪いの言葉ばかりだったんだ。
姉さんは何かを言いたげに口を開き、頭を振ってから目を閉じた。それを合図に、男二人は部屋を出ることにした。
新郎に連れ出された僕は、何をされるのだろうと不安になった。彼は、僕と姉さんのすべてを知っているに違いない。少なくとも、今日の姉さんをみて何かを感じ取ったはずだ。僕は何をされてもいいけれど、姉さんのことを彼が嫌いになったりしたら。信じられなくなったとしたら。
暗澹たる思いで、僕は彼を見つめた。彼は、昔の姉さんみたいに微笑んだ。
「君を責めたりはしないよ。むしろ彼女を、君のお姉さんを支える為なら、これからも――」
何を言っているのか、分からなかった。
でも、次の言葉で、すべてに合点がいった。
「俺は彼女を愛している。幸せにする為なら何だって出来るし、受け入れられる男なんだ」
彼は姉さんと僕の秘密を知って、それでも姉さんを愛している。
彼は聖人君子だった。醜さを隠すようにして生きてきた僕は、欲望に負けて優しさを享受して甘えてばかりだった僕は、それ以上話を聞くことすら出来なかった。身体が引き裂かれるように苦しくて、魂が砕けるようにつらかった。
僕は。
僕は、とんでもないクソ野郎だ。
誰か一人の好意を受け止められない人間が、どうして誰かを愛することが出来るのだろう。曖昧に濁らせた関係を続けた人間が、どうして誰かと明確に幸せな関係を築けるのだろう。僕はどうしようもない悪党だ。他人の幸せを吸い取って、偽物の幸福を貪る悪魔みたいな奴なんだ。だから僕は、誰も好きになっちゃいけないんだ。
……そうだ。
僕が人を愛せなくなったのは、姉さんがいたからだ。
姉さんを愛した人の、本当に素晴らしい愛の重みを知ってしまったから、人を愛せなくなったんだ。僕みたいな奴が、誰を幸せにできる? 嘘と欲望に塗れた穢い人間が、どうして愛される権利を持てるんだ?
愛や恋は、人生を歪める可能性を秘めている。僕みたいに薄っぺらな愛しか抱けなかった奴が、へらへら笑いながら語っていいことじゃない。その人の為に、全力を尽くせる覚悟がなければ、決して――。
結婚式が始まる直前、姉さんは言った。
僕と、新郎新婦だけが向き合った空間で、彼女は虚空を睨んでいた。
僕はあの瞬間を、鮮明に覚えている。
「あんたなんか、好きにならなければよかった」
生涯残る、心の傷。
忘れてはいけない訓戒が、刻みつけられた瞬間だった。
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