第3話 大好きだった姉さんに。

 姉さんに関する話は、もう、お仕舞いだ。

 気持ち悪くなったなら、ごめん。素直に謝るよ。

 僕にとって憧れの存在だった姉さんは、僕の心に深い傷跡を残していった。説明を補足しておこう。好きだった姉さんが、僕以上に僕のことを好きでいてくれたことがトラウマになったんだろう。姉さんに対して兄弟愛以外のものを抱けなかった僕は、他人を好きになることに恐怖を抱くようになったんだ。

 愛は美しい。それ故に、傷付けてしまうこともある。

 愛ゆえに、人は苦しまなくちゃいけないこともあるんだ。

 ……さて、ここまでが僕と姉さんの物語。ここからようやく、彼女と過ごした日々の物語が始まるんだ。僕が手にした宝物と、ふたつ目の後悔を話そう。

 僕と彼女が出会ったのは、中学一年の春だった。だけど、期待はしないで欲しい。

 運命的な出会いからは、穏やかなチョコレートのような香りがする。嗅ぐだけで心が温かくなり、幸せな気分に浸れる匂いだ。実際に触れて食べることが出来たなら、甘く蕩けるような味がするのだろう。僕と姉さんの出会いは、それに準ずるものだった。ふたりで過ごした時間も、きっと似たようなものだろう。

 だけど僕と彼女の出会いは違う。

 琥珀みたいに輝いたりしないし、乳白色のダイヤモンドほど美しい色もない。ひょっとするとトパーズが茶色く濁ったような、ルビーを泥水で磨いたようなものだったかもしれない。角が僅かに欠けた宝石のようなものを想像してみるといい。致命的な間違いではなかったかもしれないけれど、当事者である僕らにとっては、奇妙な違和感を覚えさせるものだったんだ。

 簡単に話をしよう。僕と彼女は入学式の日取りを間違えて、一日早く学校へ来てしまった。僕等の出会いっていうのは、たったそれだけの話なんだ。体育館の壁には、新入生を歓迎する旨の言葉が記された垂れ幕が張り付けてあったのに、集合時間の十五分前なのに誰もいないことを当時の僕はすごく不思議に思っていたな。

 入学式の始まる十分前になって、彼女が体育館に現れた。月みたいに白い肌と、夜のように真っ黒な髪が対照的な女の子だった。長く伸ばした髪は無造作に結ばれていて、彼女の雰囲気を暗くする原因になっていた。遠目に見ると幽霊のようだったよ。この世のものではない、といった方が聞こえがいいかもしれないけれど。

 だけど不思議だった。怖いと思ったのに、それ以上に熱い感情が胸の中に芽生えたんだ。姉さんにすら感じたことのない想いが膨れ上がって、僕は混乱した。彼女に出会ったのは、そのときが本当に初めてだったんだ。示し合わせたわけでもなく、ただ二人とも間違えて学校へ来てしまっただけで、そこには特別な運命なんて存在しないはずなんだ。

 だけどここで問題が起こる。

 のぼせそうになった頭と心が氷水を浴びたように冷たくなってしまう事件だった。僕の人生がよくある恋愛小説のようなものだったら、初対面の彼女から好意に類する感情を向けられていたに違いない。そして、すぐにでも初めの一歩を踏み出していただろう。だけど僕にはそれができなかった。

 彼女のことを美しいと思ったのに、それ以上の感情を抱くことが出来なかったんだ。面白いだろう? うーん、分からないって顔をしているな。じゃ、こう言い換えたらどうかな。

 なんて、滅多にいるもんじゃないんだから。

 君は彼女と同じくらい察しがいいから、言わなくても分かったかもしれない。心の天秤が少しでも好意の方へ傾くと「あんたなんか、好きにならなければよかった」という姉さんの言葉が僕の脳内で反響するんだ。もし僕が彼女に近づいて、万が一にも同じことを言われてしまったら。

 好きになることも、好かれることも怖くなってしまって、僕は彼女に話しかけることすら出来なかった。そして僕等は離れ離れの席に座ったまま、他の生徒が来るのをただひたすらに待つことになったんだ。

 だけど、期待するだけ無駄なんだ。

 入学式の始まる時間になっても僕ら以外の生徒は誰一人としてやってこなかった。こんなことってあるのだろか、もしかして雨天順延だったのかと窓の外を眺めても、綺麗な青空が広がっている。流石にこれはおかしいだろうと思って席を立つと、彼女も丁度立ち上がるところだった。一人だと不安だったから僕が動くのを待っていたのかも、なんて甘いことを考えただろう? 違うんだな。僕が振り返って見た彼女は、何かに怒っているようだったからね。綺麗で可憐な姉さんが泣いたときと同じように美しい容姿の彼女がむすっとしているのはすごく怖いものだった。たぶん、日付を間違えた自分や家族に対して腹を立てていたのだと思うんだけど……まぁ、それは置いといて。

 二人で体育館の入り口まで歩いて行って、そこに貼ってあった入学式の日程を見る。

 そこで初めて、僕は日付を間違えていたことに気付いたんだ。思わず、腹を抱えて笑ってしまったよ。中学生にもなって、こんな間違いをするとは思ってもみなかったからね。

 彼女は頭を抱えていたけれど、しばらくすると、何事もなかったかのように帰って行った。普通の子供なら、軽口を叩いてお互いの恥ずかしい失敗を笑いの種にしそうなものだけど、彼女はそんなことをしなかったんだ。初対面の人と会話できるほど、彼女の心は強くない。一人で買い物に行くことすら怖がる女の子だったんだ、学校への行き帰りも、随分心細かったんじゃないかな。

「キレイな人だけど、近寄りがたい」

「人の領域に踏みこんできたりもしないけど、交流するのは難しそうだ」

「だけど、人の領域に踏み込んできたりもしないな」

 それが僕から見た、初対面の彼女の印象だよ。最悪の出会いではなかったことは確かだけど、彼女がトキメクほどの美少女だったから、一緒に過ごした僅かな時間さえも、ものすごい苦痛になってしまったんだ。無言の圧力という言葉を、あそこまで意識させられることもなかったかな。

 さて、僕らの出会いのお話は、たったこれだけでおしまいだ。

 驚いた顔をしているね。でも、僕らの物語そのものは、とても長いものなんだ。

 僕が神様でも、一日や二日で語り切れるようなものではない。……ごめん、嘘だよ。ただ、その程度で語れるほど僕等の関係は浅くないって言いたいだけなんだ。アラビアンナイトみたいに幾つもの夜を越えなければ、君は僕らのすべてを知ることが出来ないだろう。君と僕両方に体力が有り余っているなら一日のうちに幾つもの話をすることが出来るのだろうけれど、そんな保証もないからね。

 とりあえずは、区切りのいいところまで喋ってしまおう。

 人が生きていられる時間は、僕らが思っているよりもずっと短いんだから。

 次は、入学式を終えた後。

 中学時代の、話をしよう。

 五月に入って、入学式から数えて初の席替えが行われるまで、僕は誰とも喋らなかった。それは小学生時代に培った性格と習慣と、人間関係のせいだろう。姉さんに依存していた僕は、学校で友達をつくろうとしなかった。軋轢が生まれても逃げる先があったから、たいして気にも留めていなかったんだ。そのツケを払わされることになってもまだ頑張ろうとしなかったのだから、周回遅れを取り戻せるはずもない。なぜか僕に話しかけてくれる女の子は多かったけど、それはきっと、姉さんと関わっていたからだろう。

 女性に嫌われない対応だけは、身体に沁みついていたに違いないね。

 最低限意識すれば、僕は嫌われないように振る舞える。僕に友人がいないのは、間違いなく僕自身の問題ってことだ。……とは言うものの、どうしても人と関わることが苦手だった。多少改善されたけど、今も昔も大差はないよ。大学生になっても、友人は君一人だ。姉さんのことがあってから、僕は見知らぬ人と喋ることよりも、ある程度親しくなった人と関わることの方が苦痛になったんだ。彼女がいなければ、今もきっと……。

 彼女も、僕に似ていたのだと思う。

 内向的な僕らが互いの存在を意識したのは、初めての席替えが行われた後のことだった。僕と彼女は、隣同士の席になったんだ。彼女は、僕に似ていた。もし自分が女の子だったなら、きっと僕らは鏡写しの存在になっていたことだろう。もちろん、親戚の姉さんと過ちを犯したことを除いて。

 当時の僕は、すごく驚いた。入学式のことを覚えていたから、どうにかして運命的なものを感じようとしていたのかもしれない。でも、それは無駄だった。

 同じことの繰り返しになるけれど、小説や漫画の世界につかっていた僕にとっては、それが随分とショックだったなぁ。僕は主人公になれない。そういうことを、書物の女神様から囁かれているみたいな気分になった。

 でも、仕方ないんだ。

 僕らの青春には、賑やかさが欠けていた。ゆっくりと朽ちていくような、森の奥で枯れていくような。それは、老衰した樹木や都市開発が頓挫した田舎町が持つ雰囲気にも似ている。もう後戻りはできないと言う点でね。

 閑話休題。

 一年生の頃から、僕も彼女も、クラスでの立ち位置は決まっていた。

 一応、補足をしておくと、それは中学校生活が始まってからの数日で決まったような、それからの学校生活で取り返しのつくようなレベルのものではなかった。少なくとも僕は、僕自身の手によってその状況を作り上げてしまったんだ。

 話しかけてきてくれた子を、みんな姉さんと比べたんだ。あの人なら、もっと僕を笑わせてくれる。あの人なら、僕をもっと幸せにしてくれる。十歳も年上の人と比べれば、大抵の女の子は何かが欠けて見えてしまう。男だってそうだ。姉さんと結婚した彼と比べれば、こいつは人間としてまったく――そんなことばかり考えていたのが透けて見えたのかもしれない。僕は疎まれ、いつの間にか遠ざけられるようになっていた。

 眺めているだけなら不快にならないけれど、近付こうとすれば不快になる、何かしらの棘を持った構築物として。

 あの状況を例えるなら、そうだな、腰の深さまで沼に嵌っているんだ。足首に、トラバサミのような鋭い罠が突き刺さった状態だったんだ。個人の力ではどうしようなく、僕に手を差し伸べてくれる人が必要だった。もう、姉さんは僕のことを嫌いになったはずなのにね。身体に染みついてしまった習慣や感情が周囲の人間に漏れてしまったから、その立ち位置になってしまったんだろうな。彼女も僕に似ていた。ただひとつ違ったのは、僕が他人との間につくる壁は高すぎる理想がもたらしていたのに対し、彼女は恐怖と緊張で他人を遠ざけていたと言う点だ。

 そんなこと、思春期の少年少女には関係なかっただろうけど。

 もう、僕等の立ち位置はお分かりかな?

 お察しの通り、僕らは教室の隅が定位置だった。カビとキノコが生えていそうな静かで暗い部屋の隅、物語の世界ならぶよぶよの生命体が這い回っていそうな異空間。そこが僕らの定位置だった。

 普通の生徒なら、誰かと徒党を組むことの出来るような生徒なら、僕らも日陰から拾い上げて貰えたかもしれない。友人と呼べる存在と一緒に太陽の下で駆けまわることも出来たかもしれない。だけど僕らはいつまでも日陰にいた。暗いところにしか、いられなくなってしまった。他人が苦手な僕らは、同級生たちの輪に入れなかったんだ。

 一応、僕らの名誉のためにも言ってこう。中学生の頃の僕らは、人と離れることを望んでいた。だけどそれは、思春期特有のニヒルな情動に突き動かされたからじゃない。僕らはどうしようもない弱虫だっただけで、積極的に人を傷つけてやろうと言う気持ちは、これっぽっちももっていなかったのだから。

 世界の隅に追いやられた人間が、必ずしも不幸であったとは限らない。確かに、教室の隅というのは、友人に恵まれた子供なら寄り付かなくても済む場所だ。しかし、人が少ない故の利点というものもある。集団特有の熱気で空気が澱むこともなく、ほんのりと暗い雰囲気が、僕の悩みを打ち消してくれるんだ。教室の隅という異世界は、本を落ち着いて読んだりする分には、ちょうどいいくらいの場所だったんだ。

 姉さんに嫌われてからは何も楽しいことなんてなかったと言いたいのだけれど、本を読むことだけは、どうしようもなく楽しかった。中学生時代の僕にとっては、小説が最も身近な救いだったんだ。

 僕も彼女も、中学生だと言うのに本を読む楽しさにハマっていて、毎日のように本を読んでいた。あの頃から、僕らは本の虫だったのだろう。若者向けのライトノベルから大人が嗜む文芸誌まで、目につくものは片っ端から読破することにしていた。もはや古典と呼ばれる類の本から、メディアの作る流行の最先端にぶら下げられた本まで、飽きもせず読んでいたことを覚えている。

 最初の内は、本を読む楽しさだけを目的にして本を読んでいたんだ。自分で選んだことだけど、狭い世界への反感というのもあったんだろうね、僕は少年活劇の要素が取り入れられているものが好きだったし、彼女は恋愛の要素が含まれているものが大好きだったらしい。自分の好きなジャンルや、過去作から最新刊まですべてを買いそろえたくなるようなお気に入りの作家を見つける頃になってから、僕らはお互いのことを意識するようになった。席が隣であることよりも、お互いの趣味が読書だと言うことの方が、僕らにとって親近感の沸くものだったんだ。

 でもね、親近感という、柔らかい感情ばかりを持っていたわけでもないんだよ。

 僕は、本の虫になった。彼女も、読書に縋る女の子だった。本を読んで、言葉の素晴らしさを理解できるのは自分だけだと思い込みたかったのかもしれない。自分の方が、相手よりも沢山のことを知っていると、そう思わせたかったのかもしれない。正確に調べたことはなかったけれど、どちらが早く図書館にある本のすべてを読み切れるだろうか、なんて子供じみた競争を始めたりもした。もっとも、僕らはそれを口に出していたわけじゃない。

 口に出さなくても、分かることってあるんだ。特に僕ら日陰者にとっては、如何にして相手の思考を読み取って、自分へのダメージを減らすかがカギとなる。だから、相手が自分を競争相手として認識していることを確信したとき、思わず笑ってしまったね。

 君が? 僕に? なんて。

 図書館の隅で、小さく笑いながら本を読む中学生。傍から見たら、ものすごく不気味だったかもしれない。当時の同級生たちには、同情の念さえ抱いてしまう。だけど、僕らにはそうせざるを得ない理由があった。僕も彼女も、虐められた結果として教室の隅に逃げ込んだわけじゃない。僕らには、他に理由があったんだ。

 確かに、最初はおぼろげだった。でも、今の僕は感じている。

 僕らは既に、自分の限界を悟っていたのかもしれない。

 僕らが、傷つきやすいことを知られないように。

 僕らが、我侭であることを知られないために。

 自分の器が小さいことを知られないために。

 誰にも傷つけられないようにするために。

 弱虫だった僕らは、他人と距離を取る必要があったんだ。

 まぁ、ある程度の年月を生きてきた人ならそれなりに分かることかもしれないけれど、立場の弱い人がその立場を守る為には、数少ない手段から自分に出来るものを選択していかなければならない。自分よりも更に弱い立場の人間を下敷きにする人もいるだろうし、自分と同じくらいの人間と徒党を組む方法もあるだろう。自分よりも高い地位の人に取り入って、守ってもらうのも効率がいいかもしれない。

 でも、全く異質な手段をとる奴もいる。例えば、僕らみたいにね。

 と、いけない。また脱線してしまうところだった。

 でも、僕らが出会った時代というものは、何も特別なことなんて起こらなかったんだよ。僕らの中学校には不良と呼ばれるほど元気の良い子供がいなかったから、虐めを含め、世間で言われている犯罪の件数がとても少なかった。他の中学校から転校してきた男の子も言っていたのだから、それは間違いないのだろう。

 万引きやカツアゲみたいな悪事に手を染めたり、教師に隠れて煙草を吸ったりする生徒がいなかったわけではないのだけれど、他の学校に比べれば平和なものだった。僕らはそんな幸せな環境の中で、教室の隅に引きこもっていたんだ。

 僕らは、他人と関わることが苦手だった。悪いことをしても平気で笑っていられる彼らが大嫌いだったし、虐めに見て見ぬ振りをする、自分たちも大嫌いだったんだ。

 僕も彼女も、悪い子供達とは付き合った経験がない。むしろ、僕らは彼らに嫌悪されていたんじゃないかな。

 僕は自分の才能や能力というものを蔑むようになったけれど、社会の底辺に自ら望んで身を寄せるようなことはしない。日陰者といっても、幾つかの種類があるんだ。僕らはクズだったかもしれないけれど、ゴミではなかった。少なくとも姉さんは僕を愛してくれていたはずなんだ。それだけは、信じていたかったんだ。

 さて。

 僕ら日陰者にとって、虐めというのは非常に気味の悪いものだった。社会のゴミが行う、最低な示威行為だと思っていた。自慰行為、と言い変えても構わない。所構わず生まれる割に、対処の方法が限られ過ぎている。他に助けを求められる相手が居ないから、僕らは、僕ら自身しか頼ることが出来なかったんだ。

 僕は、彼女しか頼らない。彼女は、僕しか頼れない。独りぼっちの僕らは、傷つけられないようにするために他人を見ていた。だから、僕らは虐めに敏感だったんだ。

 虐めは、教師が把握しているかどうかなんて関係ない。子供たちが気付いているかどうかも関係ない。水面下で起こることもあれば、誰にでも理解できるかたちで見えることもある。でも、結局のところ大切なのは、僕らが守られているか否かということだ。僕らが、不幸な心を持たないことだ。

 僕らが傷つかなければそれでいい。

 僕らは、卑怯な臆病者だった。

 誰かが虐められていても、僕らは助けの手を伸ばそうとしなかった。僕らみたいな弱虫は、自分の身を守るだけで精いっぱいだったなんてことはただの言い訳だ。僕らは、僕ら以外を見下していた。僕らは、ヒーローにはなれない。物語の主人公になる為には、こうして自分から語り掛けていくしかないんだ。

 僕らは、世界から隔絶されている。彼らとは、別の世界を生きている。そんな安心感を抱いていた節があったかもしれない。あまりに低い意識で毎日を過ごしていたからこそ、僕らは幸せだったのかもしれないね。

 僕らは迫害の対象にはなったことはあっても、虐待の対象になることはなかった。他人へ向けられる暴力には無関心だったけれど、僕らに向けられる暴力に対しては、異様な反応を示した。僕も彼女も、直接的な暴力には過剰なまでの反抗をしたからね。腕力がなければ、噛みつけばよかった。鳩尾を殴られても、相手の指の肉を食いちぎれば勝利したと言えたんだ。僕らの中の悪意は、既にある程度の形を完成させてしまっていた。僕らの周りにいたのが中学生という、技術も悪意も未熟な人間ばかりだったのが幸いしたのかもしれない。だからこそ僕らは、壊れることなく、毎日を平穏に過ごせていたのかもしれない。

 まぁ、精神的な暴力というものは、どうしようもなく辛かったけどね? 時折投げつけられる中学生なりの悪態というものも、彼女がいたから耐えられたんだ。あの子は、僕よりずっと弱いじゃないか。彼女が耐えていられるんだから、僕だってまだ、大丈夫なはずだ。そんなことばかり考えていたような気がする。きっと、彼女も僕と同じだったと思うよ。

 僕らはお互いに、相手がクラスや学年での地位が低いことを知っていた。自分のことを棚に上げて、相手のことをバカにしながら毎日を過ごしていたわけだ。

 僕よりも底辺の人間が、僕と同じくらい低レベルの人間が、って。世界の隅っこに逃げ道を探して、他人の心の汚くて醜い部分に注視して、僕らは毎日を乗り切っていたのだから。ちなみに、こんなことを言うと変に思われるかもしれないけれど、彼女が殴られたりものを投げつけられたりしていた時は、なるべく加勢するようにしていた。彼女も、僕が痛めつけられているときは僅かながら助力してくれたものだ。

 僕らは、お互いが底辺にいることを知っていた。もし一方が壊れたならば、自動的にもう片方も壊されてしまう。それを知っていたからこそ、助けたくもない相手に手を差し伸べたのだろう。他の生徒は助けなかったのに、と他人からは不思議に思われていたかもしれない。僕だってそう思うのだから、きっとそれが正しいんじゃないかな。

 僕らが中学生だった頃の話は、それくらいだ。

 はぁ。

 本当に申し訳ないと思っているよ。中学生時代の僕らは、一日中本を読んでいるだけの根暗な生徒でした、という程度で話を止めておけばよかったかもしれない。こんな陰鬱で気持ち悪くて、何も変化を起こさない物語なんて話すべきではなかったかもしれない。でも、それって結局、過去から逃げているだけだと思うんだよね。

 綺麗なところしか見ようとしないのは、不道徳なことだ。人間には汚い部分が一杯あるし、人生には避けようのない不幸が無数に転がっている。自分に都合のいいことしか認めないなんて、それこそ小学生みたいな発想じゃないか、なんてね。

 でも、君に言うべきことではなかったかもしれない。

 正直、少しだけ後悔しているよ。でも、改めるつもりはないからね。

 他に言うべきことがあるとすれば、僕と彼女は毎年同じクラスで、同じ委員会に入っていたということくらいかな。なんだかすごく、ラブコメっぽいよね。僕は中途半端なコメディが嫌いだけど。

 僕の隣の席にはいつも彼女が座っていて、彼女の隣の席にはいつも僕が座っている。どちらがより窓に近い席に座るかで、毎回揉めていたような気がするなぁ。そして、最終的にはコイントスで勝敗が決まるんだ。僕の勝率が、一割にも満たなかったことを今も覚えている。もしかしたら、彼女がイカサマをしていたのかもしれない。まぁ、分かっていても見抜けないんだろうけどね。

 さて、ここで、ひとまずの区切りを入れようかな。

 それとも、この程度の話を聞くだけで疲れてしまったかい?

 情けないね。まるで、幼稚園の頃の僕を見ているようだ。あの頃の僕は、先生の話なんて聞かなかったからな。だから、と。話が脱線しそうだね。また今度、君に時間が出来たときにでも話をしよう。

 そのときが、あったならの話だけど。

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